【三七《彼女との一日》】:二

 凛恋も爺ちゃんの雰囲気を察したのか、出入り口の近くにちょこんと座って小さくなる。

 俺も凛恋の隣にあぐらをかこうと腰を下ろした瞬間、爺ちゃんの鋭い声が飛んできた。


「凡人はそこに正座」

「はい……」


 座卓の脇を指でさされ、俺はそこに正座して座る。

 座卓を挟んで爺ちゃんの向かいに田丸先輩と岡部先輩の二人が並んで座り、その三人を横から見る位置にいる俺はとりあえず余計なことをしないように黙っていることにした。


「栞さん、修学旅行というのは?」

「あの……刻季高校では二年生になると冬に修学旅行があって」

「それで、岡部さんの栞さんを修学旅行に行かせてほしいという話は?」

「修学旅行には旅費が必要で、その旅費を期日までに振り込まないといけないのです。栞はアルバイトをしていますが、アルバイトで貯めた貯金は進学用の貯金で使えないのです。ですから、多野さんに修学旅行の費用を――」

「多野さん! これは蘭が勝手に言ってるだけで私は!」

「まあ落ち着きなさい、栞さん」


 腰を浮かせて身を乗り出した田丸先輩を、爺ちゃんが優しく穏やかな声でなだめる。その言葉で、田丸先輩は浮かせていた腰を座布団の上に下ろした。


「栞さんは行きたいのかい?」

「私は多野さんのお世話になっている立場で――」

「行きたいのかい?」

「…………それは、友達と一緒に修学旅行には行きたいですが」

「では、金額と費用の振り込み方を教えなさい」

「でも!」

「子供が大人に遠慮するものじゃない。子供は子供らしくしていれば良い」


 そう田丸先輩に笑い掛けた爺ちゃんの表情は一変する。……俺に顔を向けた途端に。


「凡人、知っとったのか?」

「い、いや……修学旅行があるのは知ってたけど、振り込みの件は今日初め――」

「栞さんは家に来たばかりで遠慮するに決まっとろうがッ!」


 爺ちゃんの怒鳴り声で居間の空気がビリビリと震える。


「いくら栞さんの方が年上でも、お前が気を遣ってやらんでどうするんだ! 岡部さんが来てくれなかったら、栞さんは肩身の狭い思いをするところだったんだぞッ!」

「ご、ごめんなさい……」

「全く。そんなことだと凛恋さんにも愛想を尽かされるぞッ!」


 多分、爺ちゃんも田丸先輩に少し遠慮しているのだろう。田丸先輩の立場が俺だったら、多分「そんな水臭い理由で黙っていたのか!」と怒るところだ。でも、そう怒れないのは田丸先輩に少しの遠慮があるからだろう。

 それに、孫娘には嫌われたくないだろうし……。それでとばっちりを受ける俺は堪ったものではないが。


「あ、あの……」

「遠慮することはない。代わりと言ってはなんだが、修学旅行に行ったら茶に合うお土産を買って来て欲しい。後は、茶に合う土産話も頼んでも良いかい?」

「は、はい……ありがとうございます」


 田丸先輩は手の甲で目元を拭い頭を深々と下げてお礼を言う。全く、俺には理不尽に怒鳴るのに田丸先輩には優しくして…………爺ちゃんらしい。


「さて、岡部さんと凛恋さんは昼飯はどうするんだい?」


 まだ朝という時間なのだが、昼飯を尋ねられた岡部先輩と凛恋が口を開く。


「栞と外で済ませようと思ってます」

「私はお婆ちゃんが良ければ作ろうかなって思ってました」

「そうかいそうかい。では二人共、寿司の出前をとるから一緒に食べて行きなさい。凡人! ゲンさんところの特上を六人前頼んで来なさい」

「分かった」


 俺は立ち上がって、戸惑う田丸先輩と岡部先輩に背を向けて電話をしに行く。

 爺ちゃんが特上握りセットを頼むのはめでたい日だ。ということは、今日は爺ちゃんにとってめでたい日になったらしい。



 隣に座る凛恋が、俺の頬を人差し指でツンツンと突いている。俺は、その手に持ったコップから冷茶を飲む。しかし、凛恋はニコニコと笑いながら俺の頬を突き続ける。

 今日は何処かに行こうと言い出さないということは、部屋でまったりする日ということなのだろう。


「凡人ってチョー格好いい」

「…………そ、そうか」


 凛恋はいつも俺を誉めてくれるが、やっぱり面と向かって格好いいと言われるのは慣れない。


「んっ……」


 隣に座っていた凛恋が、ゆっくり顔を近付けて唇を重ねる。ふわりと鼻先をくすぐる甘い凛恋の香りが漂い、柔らかく張りのある凛恋の唇の感触が伝わる。凛恋の存在をゼロ距離で感じ、体が温かさに包まれる。


「昨日の夜からずーっと凡人とこうしたかった」


 凛恋が俺の背中に手を回してギュッと抱き締める。

 昼飯を食べて俺の部屋でのんびり過ごしていたら、自然とこうやって触れ合う雰囲気になった。


「俺はずっと凛恋とこうしたいと思ってるけど」

「凡人のエッチ~」


 ニヤリと笑った凛恋が俺を抱き締める強さを強める。ギューっと抱き締められると温かい上に幸福感に包まれる。

 凛恋は細身で無駄な肉なんて付いていないのに、抱き締めるとフワフワして柔らかい。


「凡人」

「ん?」

「ドサクサに紛れてお尻触らないの!」

「イテッ!」


 笑いながら凛恋が俺にデコピンをして、軽い額の痛みに身を仰け反らせる。


「もー、そうやってすぐに触るんだから、凡人は~」


 可愛い彼女とキスをして抱き合っていたらそういう気分にもなってくる。それに……。


「凛恋もその気だと思ってたけど?」


 さっきからの凛恋の行動に対してそう言うと、凛恋は体をスッと寄せて来て俺の腕を抱く。


「凡人のイジワル」



 肌が滑らかな細い腰を抱き寄せる。少し汗が滲む綺麗なその肌に手がピッタリと張り付く。

 そして……。


「凡人のアホ!」


 正面で横になっている凛恋から、額にチョップをもらった。


「休ませてって言ってるのにちっとも聞かないし!」

「ごめん……」

「……全く。私も誘惑し過ぎたけどさー、それにしてもだし」


 プクッと頬を膨らませた凛恋は、グリグリと俺の胸に額を押し付ける。

「昨日からずっと不安だったの。凡人が無事だったのは頭では分かってたんだけど、心の中では全然安心出来なくて。でも、ちゃんと凡人はここに居る」


「ああ、俺は凛恋の側に居る」


 凛恋は俺の手を握り、俺の顔を見上げる。


「うちの文化祭、来てくれるよね?」

「……凛恋――」

「断ったら絶対に許さないから」


 俺は来週に控えた刻雨の文化祭には行かないつもりだった。

 俺は、凛恋に刻雨に呼ばれて文化祭の準備に協力した時に、凛恋のクラスメイトの男子と揉めた。


 その件に関して凛恋の言葉で、凛恋自身や凛恋の友達としては解決しているような話だった。でも、俺としてはそれで完結して無かったことには出来なかった。


 どういう風に落ち着いたとしても、俺が凛恋のクラスメイトの男子と揉めたという事実は消えるわけがない。

 そして、それは確実に相手の男子はもちろん、俺の心にもしこりとして残っている。


 俺も相手の男子も小学生ではない、もう高校生だ。だから、無難に立ち回ることは出来るし、実際に顔を合わせても言葉を交わすことは無いだろう。

 だから、もう一度揉めることももちろん無いだろう。でも、絶対に心の中では揉めたことは思い出されるのだ。

 それは、俺とその男子だけではなく、凛恋を含めた凛恋のクラスメイト全員も含まれる。


 俺は文化祭という行事に特別な感情は無かった。今回は中心に身を置かざるを得ない状況で巻き込まれたが、無難に過ぎ去ってほしいと思う行事だ。でも、凛恋は違う。


 凛恋は友達と一緒に文化祭を楽しもうとしていた。そして、俺を喜ばせようともしてくれていた。そんな楽しい雰囲気の中に、揉めた件は確実に水を差す。

 そして、水を差された雰囲気の中では凛恋は楽しめない。


 俺が刻雨の文化祭に行かなければ、凛恋のクラスメイトは、凛恋は、俺と男子の揉め事を思い出すことなく普通に文化祭を楽しむことが出来る。


「凡人が来ないと意味ないの。凡人が来てくれないんだったら一生懸命準備することがバカみたいよ」

「そんなことはないだろ。友達と楽しく文化祭をするために準備してるんだろ?」

「そうよ。でも私の文化祭は友達との楽しい思い出もだけど、凡人が来てくれるって嬉しい思い出もないとダメなの」


 手の平から伝わる、凛恋の手の感触が強くなる。凛恋が俺の手を握る力を強めたのだ。


「ありがとう、凛恋。ちゃんと文化祭に行く」

「良かった~、凡人が来てくれなかったらせっかくの文化祭の楽しさ半減してたところだったし」

「それは言い過ぎだろ」

「言い過ぎじゃない。凡人に出会った瞬間から私の楽しいことには凡人が絶対に必要なの」


 凛恋はベッドの中で俺に身を寄せて両目を優しく閉じる。


「凡人に出会ってから、ずっと私の心には凡人が居るの。凡人に距離取られてる時は凹んだけどさ、凡人のことを考えてドキドキしたし嬉しくなってた。凡人と出会う前の私なら、凡人が居なくても文化祭を楽しめたかもしれないけど、今の私には絶対に無理。凡人が居てくれなかったら思いっきり楽しめない」


 凛恋は両目を開いてギュッと俺の体を抱き締める。


「凡人が来た時だけ、私、メイド服着るから」

「俺が来た時だけ?」

「そっ、凡人に見せるためだけなんだから他の時に着る必要ないでしょ? 本当は黙っておこうって思ってたんだけど、言った方がエッチな凡人は来てくれるでしょ?」


 ニヤリと笑う凛恋がからかいながら言う。確かに凛恋のメイド服姿には惹かれるものがあるし、それを俺のためだけなんて言われたら断るわけない。


「凡人」

「ん?」


 ふと俺の名前を呼んだ凛恋に聞き返すと、凛恋は頬を赤らめてニッコリと笑った。


「もうそろそろ、休憩は終わりにしない?」

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