【三七《彼女との一日》】:一

【彼女との一日】


 ベッドの上で上体を起こすと、部屋の窓から朝日の光が射し込み、部屋の中を明るく照らしていた。その光に開いた目を少し細めた俺は欠伸を噛み殺す。

 背中はまだヒリヒリとした痛みがある。でも、昨日よりは痛みが引いた気がする。


 ベッドの上に座って床に足を下ろして、寝惚けた頭を起こそうとするがなかなかボウっとした頭はまだ完全に起き切っていない。


「ふわぁ~……――ワッ!?」


 ふとテーブルの上に置かれたスマホを手に取ると、手に取ったのを見計らったかのように着信音が鳴り響く。不意のその出来事に驚き、危うくスマホを落としそうに鳴りながらも電話に出た。


「もしも――」

『おはよ凡人今から家に行ってもいい?』


 早口で話す凛恋の声が聞こえて、俺はまた出てきたあくびを噛み殺しながら答える。


「いいけど、朝早くないか?」

『早く凡人に会いたいの!』


 そう言われて、電話越しに思わずニヤけてしまう。彼女に会いたいと素直に言われれば誰だって嬉しい。


『じゃあ、今すぐ行くから!』

「迎えに行くまで待――……切れてる」


 既に通話が終了したスマホの画面を見て、一つため息を吐いた後にニヤリと笑う。


「後で優愛ちゃんも誘って昼飯食べるか」


 昨日は帰りにファミレスに寄る予定が変わってしまった。凛恋からは不満が出そうだが、優愛ちゃんのことが大好きな凛恋なら結局は一緒に楽しく昼飯を食べるだろうし問題ないだろう。

 凛恋が来るなら着替えたり顔を洗ったりと身支度を調えなければいけない。

 のそっとベッドから立ち上がった俺は、ダラダラと着替えの服を出して着替えを始めた。



 気替えをして顔を洗う頃には完全に目が覚めた。そして居間に行った時、俺は中に踏み入れようとした足を止めた。

 今の座卓の前に、座布団の上に正座をしている女性が居る。黒いブラウスにワインレッドのフレアスカートのその人は、居間に入って来た俺の顔を見て首を傾げた。


「貴方は……誰?」

「お、俺は多野凡人です」


 誰とは聞かれたが、多分俺の名前を聞きたかったわけではないだろう。


「ここは栞の家よ」

「栞って言うことは田丸先輩の知り合――」

「私の親友を呼び捨てにしないでくれる?」


 田丸先輩の名前を口にしたこの人の言葉を復唱したら、キッと眼光を尖られて睨まれた。


「蘭(らん)、お待たせ。あっ、凡人くんおはよう」


 両手にお茶が入ったコップを持った田丸先輩が居間に入って来る。そして、俺を見てニッコリ笑った。


「凡人くん、この子は友達の岡部蘭(おかべらん)。蘭、この人が私の身元引受人になってくれた多野さんのお孫さんで刻季の一年の多野凡人くん」

「なるほど、貴方が例の……」


 例の、の次に岡部先輩の言葉が続かず不安になる。いったい俺はどんな風に話されているのだろう。


「栞を振るなんて最低ね」

「…………」

「ら、蘭!?」


 岡部先輩の口から飛び出した言葉に俺は思わず黙り、田丸先輩は悲鳴にも似た驚きの声を上げた。

 まあ、家に呼ぶくらい仲の良い友達相手なら、恋愛の相談をしてても不思議ではない。が……それを俺に面と向かって言われても、俺はどう反応すればいいのか困る。


「栞はとても良い子よ。そんな栞を振るやつなんて、馬に蹴られて粉微塵にされて消えてしまえばいいのよ」

「蘭! 凡人くんは何も悪くないの! ちゃんと話したでしょ!」

「何処の馬の骨かも分からない女とくっ付いたという話でしょう? 断言するわ。栞より魅力的な女子は居ない」


 多分、何処の馬の骨というのは凛恋のことなのだろう。

 確かに俺が初対面の岡部先輩が凛恋のことを知っているわけがない。しかし、なんというか……岡部先輩は随分個性的な人のようだ。


「まあいいわ。貴方に話があるの」

「蘭!?」


 岡部先輩をなだめようと隣に座った田丸先輩が「聞いてない!」というような表情をして驚く。だが、岡部先輩はそんな田丸先輩に構わず俺を睨み付ける。


「栞を修学旅行に連れて行きたいの」

「蘭!」


 今度はほぼ怒りかけの表情で田丸先輩が岡部先輩に怒鳴る。


「修学旅行ですか?」

「そうよ。今年の冬に修学旅行があるの。その修学旅行に行くための費用の振込期限までもう日が無いの。それなのに栞はお金を振り込んでいないと言うのよ」

「言ったでしょ! バイト代は進学するための資金で使えないの。それに、私の個人的なことのために多野さんに迷惑は掛けられないの!」

「でも高校二年の修学旅行は一生に一度じゃない。それくらいの贅沢はして良いと思うわ。栞は勉強もバイトも頑張ってるじゃない」

「あの――」「凡人~何処に居るの~」


 俺が居間で言い合う二人の会話に割り込もうとすると、後ろから凛恋の声が聞こえた。


「居間に居たんだ。部屋に居ないから何処に行ったのかと思ってた」

「おはよう、凛恋」


 ニコッと笑う凛恋に顔を向けると、凛恋は居間の中を見て首を傾げた。


「誰?」

「田丸先輩の友達の岡部先輩だ」


 俺も岡部先輩とついさっき会ったばかりでよく知らない人だが、とりあえず名前だけは分かる。


「どうも、初めまして。凡人の彼女の八戸凛恋です」

「初めまして。栞の親友の岡部蘭よ」


 互いに自己紹介をする二人。凛恋は笑顔を向けて、岡部先輩も普通の表情をしている。しかし、何となく穏やかな雰囲気には見えない。


「話を戻すわ。貴方からお祖父さんお祖母さんにお願いしてもらえないかしら?」

「言うのは良いんですけど、多分俺が言っても爺ちゃんはお金出さないと思いますよ」

「そう……」

「いや! お金を出さないって言うのは、修学旅行に行かせないってことじゃなくて、田丸先輩から話さないと、多分出してくれないってだけです」


 爺ちゃんは優しい。だから、周りがみんな修学旅行に行くのに、田丸先輩だけ行けないという状況は絶対に放置しない。でも、爺ちゃんは優しいし真面目で筋を通すことを大切にする。

 田丸先輩の修学旅行について俺が口出しするのは筋違いだ。


「俺が言っても、なんで田丸先輩のことを俺が言うんだって俺が怒られるだけです。ちゃんと田丸先輩が修学旅行に行きたいって言えば笑顔で出してくれると思いますよ」


 田丸先輩が家に来てから、爺ちゃんは特に嬉しそうにしている。

 凛恋もそうだが、どうやら爺ちゃんは二人を孫娘だと思っているようだ。

 だからか、本当の孫である俺より甘い。その状況なら、田丸先輩がちゃんと話せば快く修学旅行代も出すし修学旅行の小遣いまで付けるに決まっている。


「その話、信じていいのね?」

「はい」

「凡人くん、私はそんなことまで多野さんに迷惑掛ける気はないから」


 横からきっぱりと田丸先輩がそう言い切る。確かに、俺が田丸先輩の立場だったら、他人に迷惑を掛けられないと思う。

 だけど、爺ちゃんと婆ちゃんは、金銭的な面でもちゃんと承諾して田丸先輩を受け入れている。

 人を一人養うというのは、生半可な覚悟じゃ出来ないのは絶対に二人は分かっている。

 それは、爺ちゃんと婆ちゃんが俺を育ててくれているからだ。


「田丸先輩。俺、親が居ないってこと以外は、今まで一度も不自由したことないんですよ。それこそ小学校や中学校の修学旅行にも行かせてもらいました」


 俺が行きたかったか行きたくなかったかは別にしても、爺ちゃん婆ちゃんは、周りと差が出来ないようにしてくれていた。


「でも、それは凡人くんが本当のお孫さんだからで!」

「凡人のお爺ちゃんお婆ちゃんは、そんな自分の本当の孫だからって区別する人じゃないです。そもそも、そういう人だったら田丸さんのことを受け入れないと思います」


 田丸先輩の言葉に、凛恋がきっぱりとそう言う。その言葉には、少しの怒りが混ざっていた。


「私、凡人のお爺ちゃんお婆ちゃんにすごく良くしてもらってるので、田丸さんのそう言う言い方は許せません。お爺ちゃんお婆ちゃんはちゃんと田丸さんのことを考えてくれる優しい人です」


 まだ、田丸先輩は家に来てから完全に爺ちゃん婆ちゃんと打ち解けたとは言い切れない。だから、信じ切れるだけの信頼がないのは仕方がないことだ。

 そして、長く爺ちゃん婆ちゃんと関わって来た凛恋と比べれば、その爺ちゃん婆ちゃんに対する信頼の厚さには差があるに決まっている。だから、摩擦が起きたのだ。


「凛恋、落ち着け。田丸先輩は別に爺ちゃん婆ちゃんをバカにしてるわけじゃない。普通は他人に対して無償でお金を出すなんて信じられるものじゃないだろ。凛恋だって、いきなりよく知らない人に大金を出されても疑うだろ?」

「そりゃあ、そうだけど……」


 凛恋の肩に手を置いてなだめると、凛恋が唇を尖らせながら言う。


「とにかく、修学旅行の件は爺ちゃん婆ちゃんに田丸先輩が話さないことには解決しません。まあ、不安なら一緒に話をしても――」

「凡人! 帰ったぞ!」


 噂をすればなんとやらで、玄関が開く音がして廊下をドタドタと歩く音が聞こえる。


「おお、凛恋さんも来てたのか。それに栞さんと……凡人、そちらさんは?」

「ああ、田丸先輩の友達の岡部先輩だよ」

「岡部蘭と申します。この度はお願いがあって来ました」


 立ち上がった岡部先輩が自己紹介をして、すぐに話を切り出す。


「お願い、というのは?」

「はい。栞を修学旅行に行かせてほしいのです」

「ほうっ……」


 爺ちゃんが腕を組み、チラリと視線を俺に向ける。その視線がやけに鋭くて、俺は嫌な予感がした。


「まあ、岡部さんも栞さんも座りなさい。凛恋さんもその辺に」

「はい」

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