【二四《恋人から恋人に》】:一

【恋人から恋人に】


 駅からしばらく歩いて、一度だけ来たあの店の前に立つ。当然、時間が時間だからか店の出入り口には『CLOSED』というプレートが下がっていて閉店していることを示していた。しかし、店内には明かりが点いていて、俺は店の扉を開いて中へ入った。


「こんばんは。切山晶さんはご在宅でしょうか?」

「こんばんは。こんな遅くに悪いね。俺が切山晶だ」


 カウンターの向こう側に立っている男性を見て、すぐに凛恋と一緒に歩いていた男性だと分かった。


「コーヒーをご馳走するよ」

「結構です。すぐに帰りますから」

「そう? でも椅子には座ってもらえるかな?」

「分かりました。失礼します」


 椅子に腰掛けて、カウンター越しの正面に居る切山さんに視線を向ける。そして、切山さんは俺に視線を向けた。


「単刀直入に言うと、俺と凛恋ちゃんは”まだ”付き合ってない」


 切山さんが穏やかな表情で話した言葉に、俺は表情を変えない。まだという部分を強調させているのは明らかだ。

 それは、自分が凛恋とは何でもないから誤解しないでくれ、という話ではないことを示している。

 もっと言えば、俺はこの人から果たし状を叩き付けられているのだ。お前の彼女を奪うぞ、と。


「それで、わざわざ妹さんに連絡先を聞かせてまで俺としたかった話はなんですか?」

「君は凛恋ちゃんとは合わないんじゃない?」

「要するに、別れろと」


 俺が視線を返してそう言うと、大人の余裕を見せ付けるように微笑んで切山さんはカップに淹れたコーヒーを口にする。


「そう。俺は凛恋ちゃんのことが好きだよ。そして、君よりも凛恋ちゃんを幸せに出来る。絶対に」


 そう言い切った切山さんは、フッと息を吐いて、カップをカウンターの上に置く。


「妹の萌夏(もか)と凛恋ちゃんが友達になってから、よく家に来ていた。その頃から、凛恋ちゃんのことは気になっていたよ。今時の高校生には珍しいくらい礼儀正しくて、それに萌夏よりも調理が上手い。そして何より可愛いしね」


 切山さんはニコッと笑って、俺の前にコーヒーを出した。しかし、要らないと言った以上、飲んでやる義理もない。


「凛恋ちゃんがうちに来なくなって、萌夏から彼氏が出来たって聞いたけど、全然諦める気は無かった。高校生の付き合いなんてお遊びだしね」


 自分のカップのコーヒーを飲みながら、切山さんは嬉しそうに笑う。


「凛恋ちゃんとはよく話も合うよ。俺はバリスタだけど、料理もするからね。それに凛恋ちゃんはコーヒーにも興味があるみたいだし」

「それで、その長い話はいつまで続くんですか?」

「……凛恋ちゃんがね、俺に相談したんだ。彼氏と別れたいって」


 カウンター越しに俺は拳を握る。多少のことは覚悟していたつもりだった。でも、これほど明確に突き付けられると、動揺しない訳がなかった。


「理由は分からないけどね。でも、とても悲しそうな顔をしてたから、君が凛恋ちゃんを傷付けたんでしょ? ハッキリ言うけど、君最低だから」


 凛恋を傷付けたのは事実だ。そして、俺が最低だということも分かっている。


「凛恋ちゃんのことを好きな男としてね。君が嫌いだよ。正直、顔も見たくない」

「自分で呼んでおいてそりゃ無いでしょ」


 せめてもの抵抗だった。

 そんな揚げ足取り、なんの意味もない。

 ただ醜態を曝すだけだ。

 でも、何かこの人にやり返したくなった。


「切山さんの話は分かりました。でも、凛恋と話をしないことには何とも言えません」

「まだ諦めない気か? 凛恋ちゃんは君と顔も合わせたくないんだ。君のことが嫌いなんだよ。そんな奴に付きまとわれてたら凛恋ちゃんは――」

「俺が好きな八戸凛恋という人間は、そんな不誠実な人間じゃありません」


 俺は、カウンターの陰で震える手に力を入れて震えを抑えながら口にした。


 これが勝負だとしたら、俺は切山さんに完全敗北している。だから、ここから結果を覆すのは無理だろう。

 何しろ、さっき祭り会場で結果を見せられたのだし。でも、少なくとも、俺の好きな凛恋は、自然消滅とかそういう不誠実な、卑怯なことはしない。

 俺の顔を見たくなくても、凛恋は絶対に自分の口で終わらせるような人だ。


「それに、好きな人に直接言われないと吹っ切れるわけないでしょう。少なくとも俺は、そんな中途半端な気持ちで付き合ってたつもりはありません。たとえ、切山さんみたいな大人からはお遊びに見えたとしても」

「そうか。でも、君のせいでせっかくのデートが邪魔されたのは謝ってくれるかな?」

「多野くん、その人に謝る必要なんか無いよ」

「なっ! 君は!?」


 店の奥から、ゆっくりと歩いて来た赤城さんが俺の隣に並ぶ。そして、俺が赤城さんの後から出て来た人達に視線を向けようとした瞬間、空気が弾けた。


「なっ、何すんだ!」

「ごめん萌夏ちゃん。お兄さんぶっちゃった」


 右手を振り抜いた赤城さんが、店の奥に視線を向ける。すると、赤城さんほどではないが、末恐ろしい冷たい視線を切山さんに向ける女子が居た。どうやら切山さんの妹さんらしい。


「いーよ、そのクズ人間なんか。マジあり得ない。妹の友達に手を出そうとした挙げ句、多野くんとの関係をぶち壊そうとするとか」


 切山妹さんが俺の隣に立ち、いきなり頭を下げた。


「多野くん、本当にごめんなさい。私の兄が本当に最低なことして。どう謝っても許してもらえないのは分かってるけど、本当にごめんなさい!」

「えっ? あの……切山さんが謝る必要は無いから」

「ありがとう。やっぱり、凛恋は幸せ者だわ」


 頭を上げた切山妹さんはニッコリと微笑む。そして、その切山妹さんの後ろからさっきまで一緒に居た親友が俺の肩に手を置いた。


「希に様子を聞くために連絡したら、カズに会うって言い始めて。それで今は家に居ないからって言ったら、何処に行ったか聞かれて、今ここに居る」


 話を分かり易くまとめてくれた栄次だが、その表情からは言葉では語り尽くせないような何かがあったのは確かだ。もの凄く疲労が溜まっている顔をしている。


 俺はまた赤城さんに視線を戻すと、目の前に居る切山さんをギッと睨んでいる。

 そして、さっきよりも小さい殴打音を響かせながら、切山さんの体がよろけた。切山妹さんが左手を振り抜いていた。


「マジ、何してくれんのよ。私の友達関係をぐちゃぐちゃにして。最初っから全部聞いてたけど、マジ妹として恥ずかしい」


 切山妹さんはカウンター越しに椅子に座り顔で店の奥を指す。


「私達、多野くんと話があるから出てって」


 切山妹さんにそう言われた切山さんは、何も口から発すること無く店の奥に消えて行った。

 状況は、切山さんに凛恋と別れろと言われていたら、奥から赤城さん達が出て来て、赤城さんに切山さんが平手打ちされ、更に切山妹さんに罵詈雑言を浴びせられた後に平手打ちされた。

 そんな状況だ。断片的な場面は見えているが、繋がってその内容は見えて来ない。


「多野くん、まずちゃんと聞いてほしいことがあるの」

「えっ? あ、ああ……」


 隣に座る赤城さんが真っ直ぐ俺に視線を向けるのを見て、俺はまだ状況を理解し切れていない頭で曖昧な返答しか出来なかった。


「凛恋は多野くんと別れたいなんて言ってないし、萌夏ちゃんのお兄さんに多野くんのことは一言も言ってない。お兄さんの言ったことは全部嘘」

「えっ? は? う、そ……?」


 言葉は聞こえる。その言葉の意味も分かる。でも、やっぱり状況は理解出来ない。

 だって、凛恋は切山さんとあんなに楽しそうにしていたじゃないか。どっからどう見ても――。


「ごめん多野くん。今日、兄貴が凛恋にどうしてもバイトに出てほしいって頼んでさ。それでバイトが終わったら、せっかくだから祭りに行こうって言い出して。私は止めたんだけど、あのクソ兄貴、凛恋に言ったのよ。みんなで行くだけだよ、凛恋ちゃんの彼氏ってそんなことでも怒るくらい小さい男なの? ってさ」


 切山妹さんは拳を握り締めて思いっきりカウンターを叩いた。その衝撃で、カウンターの上に残されたカップがカチャリと音を立てる。


「私、結構全力で止めたの。兄貴が女たらしだから気を付けてってのは、凛恋にバイトを頼む前に口酸っぱく言ってたし。凛恋に兄貴の言うこと聞く必要ないって言ったの。でもさ、結構凛恋ってムキになる性格だから……いいですよって言っちゃったのよ。ホント、止められなくてごめん」


 隣に座っていた赤城さんは、切山妹さんの話が終わると、俺を睨んで、そして思いっ切り俺の右頬を引っ張った。

 頬が千切れるかと思うほど引っ張られて、やっと放してもらえると、右頬にはジンジンと痺れるような痛みが残った。


「なんでもっと早く相談してくれなかったの! 私達友達でしょ!? 一言も話してくれないなんて酷いよッ!」

「希、カズの性格じゃ――」

「栄次は黙っててッ!」


 口を挟もうとした栄次は、赤城さんに一喝されて押し黙る。


「多野くんも多野くんなら凛恋も凛恋だよ! いつも色んなこと話してくれるのに、こんな肝心なことに限って自分の中に抱え込んで! これじゃ、なんのための友達か分かんない!」

「ちょっ、希、落ち着いて」


 後ろから切山妹さんが赤城さんの肩を数回叩いて落ち着かせる。それで、俺に引き攣った笑みを浮かべる。


「祭りの時、兄貴が凛恋に変なことしないようにずっと後ろで監視してたの。そしたら、いきなり凛恋の目の前に希が走って来てさ…………綺麗な往復ビンタしたの。兄貴にしたのより音はデカかった」

「当然だよ。凛恋は多野くんが二年の先輩と歩いてる時に不安になった。それと同じことを自分がしてたんだもん。一回は多野くんの分で、もう一回は親友として怒った私の分」

「でも、あの人混みのど真ん中で、ありゃ無いわよ。周りのみんな引いてたし」


 赤城さんと話してた切山妹さんは、俺にまた視線を向けて口を開く。


「希が本当に怒ってさ。それで多野くんが見てたって聞いて、走って帰った、泣いてたって聞いて、凛恋……その場で泣き出しちゃって。その後は希が引っ張って連れて帰ったから、分かんないけど」

「全部凛恋に聞いた。キャンプの二日目にあったことも、それからどう話せばいいか分からなくなって、気を紛らわすためにバイトを増やしたことも。それから、多野くんのことを馬鹿にされてムキになって祭りに来たことも、全部聞いた」


 赤城さんは目を手の甲でゴシゴシ擦り、唇を噛んで膝の上で拳を握る。その拳は小刻みに震えていた。


「凛恋、電車の中で凄く泣いてた。それに凄く後悔してた。キャンプの時に何も考えずに、多野くんの気持ちを考えずに、お父さんとお母さんが一番なんて言ったからだって。そういうこと、自分が一番分からないといけないのにって。凄く落ち込んでるけど、今はちゃんと家まで送ったから家に居る。だから安心して」

「凛恋が……」


 やっと、少しずつ状況が理解出来て来た。でも、理解出来たのは、凛恋は俺と別れたいと言っていなくて、俺のことで後悔して泣いていたという二つ。でも、俺にとってはその二つだけで十分だった。


「俺……凛恋に振られてなかったのか……」

「うん」

「凛恋は、俺のこと……ちゃんと見ててくれたのか」

「うん。ずっと多野くんのことで悩んでたって。……多野くん、ごめんね。私達、何も気付いてあげられなかった。私と栄次がピンチの時、二人は私達のために頑張ってくれたのに、私達は何も気付かなくて、お祭りに行ってた。それで当然凛恋達も居るだろうと思って連絡して、それで初めて気付いた。本当にごめんなさい。遅過ぎるよね、二人がこんなに傷付いてから気付くなんて……」


 赤城さんは何度も何度も手の甲で目を擦って溢れ出す涙を止めようとする。しかし、涙は止まらず赤城さんの目を真っ赤にしていくばかりだった。


「多野くん、もう凛恋にうちのバイトを頼まないようにするから安心して。それに兄貴はお父さんとお母さんに怒鳴り散らしてもらわないと。ホント、二六にもなって最低」


 切山妹さんはカウンターの向こう側に入ると、切山さんがカップに淹れたコーヒーをシンクに流して捨てる。そして綺麗にカップを洗って仕舞い俺にニッコリと笑顔を向けた。


「でも、たまにはうちの店にもデートに来てよ。多野くんと凛恋なら大サービスするから」

「ありがとう。切山さんにも俺達のことで迷惑を掛けて本当に申し訳ない」

「いいのよ、私達は友達だし。それに、良いもの見せてもらったし」

「良いもの?」


 ニッと笑う切山妹さんは腕を組んでキッと鋭い目をしたと思ったら、低く作った声を発した。


「『俺が好きな八戸凛恋という人間は、そんな不誠実な人間じゃありません』と『少なくとも俺は、そんな中途半端な気持ちで付き合ってたつもりはありませんし。たとえ、切山さんみたいな大人からはお遊びに見えたとしても』かな。いやー、私もあんなこと言われてみたい! うちの彼氏は言ってくれそうにないし」

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