【二四《恋人から恋人に》】:二

 ニコニコ笑う切山妹さんの言葉に、俺は頭を押さえる。どうやら、全部聞いていたらしい。


「それは黙っててもらえると」

「えー、絶対に凛恋が喜ぶよ? まあでも、多野くんにはうちのバカが迷惑を掛けたし、黙っとく」

「ありがとう」


 俺は切山妹さんとの会話が途切れて、やっと体の力を抜いた。

 体をガチガチに固めていた緊張が途切れて、ぐったりと椅子の上に全体重を落とす。カウンターの椅子に背もたれが無いことに、内心、少し苛立った。


「ん? 凛恋? もしもし? もう落ち着いた?」


 スマートフォンを取り出して電話を受けた赤城さん。どうやら凛恋から電話が掛かって来ているらしい。


「明日学校だから目を腫らして来ないようにね。……えっ?」


 電話をしていた赤城さんは、突然俺の方を見て、もの凄く恐ろしい笑顔を俺に浮かべる。そして、スマートフォンをカウンターの上に置き、スピーカーフォンのボタンを押した。


『どうしよう……凡人と、電話が繋がらないの……。何度も何度も電話を掛けても電源が入って無くて……。私……凡人に嫌われちゃった……』

「もしかしたら、今ちょっと用事で出られないだけかもしれないよ。もうちょっと時間おいて掛けてみたら? それに、凛恋も落ち着かないと多野くんと話が出来ないでしょ?」

『うん……』

「だから、二〇分くらいしたら掛けてみて」

『でも……その間に凡人が他の人に告白されてその人と付き合ったら、私……わたし……』


 俺は声を発そうとして、右手で赤城さんに制される。その圧倒的な圧力に何も言葉を発することは出来なかった。


「凛恋。今の凛恋の不安な気持ち、凛恋と萌夏ちゃんのお兄さんが一緒に歩いてるのを見た多野くんの気持ちと同じだよ。多野くんが私の前でも泣いてたの。それがどういうことだか分かる? 人目を気にする余裕が無いほどショックだったの。さっきも言ったけど、凛恋だって同じようなことがあった時ショックだったでしょ?」


 赤城さんの後ろに居る切山妹さんが顔をしかめて「希、結構意地悪ね」と呟く。


「私は凛恋が振られてもしょうがないと思う」

『そ、そんな……』

「そんなじゃないでしょ。多野くん、電話くれたんでしょ? 絶対に凛恋と元通りになりたいって思ったから、お祭り誘ってくれたんでしょ? それを断ったのは凛恋だよ。せっかく歩み寄ってくれた多野くんのことを突き放したのは凛恋。そもそも、お祭りの日にバイトを入れるのもおかしいよ。それって、多野くんから逃げてたってことでしょ? 付き合う前、あんなに頑張ったじゃん。栄次と一緒に三人で多野くんと凛恋が仲良くなれるように考えて、凛恋だって何度断られても頑張って誘ったじゃん。それでやっと大好きな多野くんと付き合えたんでしょ? それなのにちょっと気不味くなったから逃げるって、何のために頑張ったの? そんなに簡単に手放せるほど軽い気持ちじゃ無いでしょ? だから、ちゃんと多野くんにした酷いことを謝って」


 隣で聞いているだけで胸が締め付けられる。でも、止めることは出来なかった。

 赤城さんが、いっぱい涙を流しながらそう言っていたから。そんな姿を見て、止められるわけがなかった。


『仲直り、してくれるかな……』

「そんなの私には分からない。決めるのは多野くんだもん。でも、ちゃんと話せば多野くんは分かってくれる人。そういうことを一番分かってるのは凛恋でしょ?」

『うん……また後で電話、掛けてみる』

「うん、結構キツイこと言ってごめんね」

『ううん。ありがとう希』

「じゃあおやすみ」

『おやすみ』


 そう言って電話が切られると、赤城さんがスマートフォンをポケットに仕舞い、俺の両頬を両手で引っ張った。

 目の前にある赤城さんの顔は、涙で腫らせて目を赤くしているが、ニッコリと怖い笑みを浮かべていた。


「今すぐ、電源を入れる!」

「ふぁ、ふぁいっ!」


 両頬を引っ張られたまま、慌ててスマートフォンの電源を入れる。そして、画面にはおびただしい数の着信履歴が残っていた。

 その履歴は前半は栄次と赤城さんだが、後半の半分以上は凛恋からの着信だった。


「多野くんってもうちょっと大人だと思ってたけど、電源を切るなんて子供みたいなことするんだね」

「も、申し訳ありまふぇん……」


 赤城さんはスッと俺の頬から手を放すと、深いため息を吐いて切山妹さんの方を向いた。


「萌夏ちゃん、こんな時間までごめんね。彼氏さんとも遊びたかったのに」

「いや、今日は彼氏、家族旅行で居ないし。それに兄貴の不始末だし気にしないで」

「ありがとう。じゃあ、私達はそろそろ帰るね」


 赤城さんがそう言って立ち上がり、俺も椅子から立って切山妹さんに頭を下げる。


「夜遅くに本当に申し訳ない」

「もういいって。さっき、希が凛恋のことめちゃくちゃ脅してたから、多野くんは優しくしてあげて」

「ああ、ありがとう」


 切山妹さんに見送られて店の外に出ると、赤城さんが深く大きなため息を吐いた。


「明日、刻雨は登校日なの」

「ごめん」

「目の腫れちゃんと消えるかな」

「本当に申し訳ない」

「みんなでお祭り楽しもうと思ってたのにな」

「なんとお詫びを言っていいか」

「だから、次会う時はちゃんと元通りにしてね。ちょっとでもぎこちなかったら……覚悟しててね」

「わ、分かった」


 隣を歩く赤城さんを挟んで向こう側を歩く栄次に視線を向けるが、逸らされた。まあ、さっきもそうだったが、怒った赤城さんは栄次にもどうすることも出来ないらしい。


 栄次と赤城さんと別れて、そして家に辿り着くと、どっと疲れが溢れて来た。


 凛恋に嫌われていなかったし、凛恋に振られてもいなかった。ちゃんと凛恋の中に俺の存在はまだ残っていた。それが確認出来て本当に良かった。


 疲れと汗を洗い流すためにシャワーに入りたかった。でも、俺はスマートフォンを取り出して畳の上に座り込んだ。

 さっき凛恋は二〇分後に電話を掛けるように言われていた。だから、凛恋から電話が掛かってくるまではシャワーは浴びない。もう、すれ違うわけにはいかない。

 手に持っていたスマートフォンがブルッと震える。そして、俺は深呼吸して心を落ち着かせる余裕もなく、すぐに電話に出た。


『凡人?』

「こんばんは、凛恋」


 俺がそう答えると、電話の向こうから鼻をすする音が聞こえ凛恋は少し震えた声を出した。


『よかった……出てくれた』

「ごめん凛恋、色々――」

『明日の一三時、駅前に来て』

「凛恋?」

『凡人に話したいことがあるの。ちゃんと目を見て、凡人と直接会って話したいの』

「分かった。絶対に行くから」

『ありがとう、凡人。……凡人、絶対に、絶対……また明日』

「ああ、また明日」


 そう言って電話を切り、俺はスマートフォンを握り締めて胸に当てた。


 電話をしてスマートフォンが熱を持っただけなのは分かっている。でも、今まで途切れたと思った距離が、離れたと思った距離が、電話で一気に近付いたような気がした。

 このスマートフォンのすぐ向こう側に凛恋の温かさがあるような気がした。


 明日会ったら、謝ろう。

 言葉の限りを、想いの限りを尽くして謝ろう。

 そして、栄次と赤城さんに謝ろう。

 迷惑を掛けた切山妹さんにもちゃんと謝ろう。


 それで、元通りだ。



 今日は、凛恋が通う刻雨高校の登校日らしく、駅前にちらほら刻雨の制服を着た人達が歩くのが見える。


「早く来過ぎたか?」


 スマートフォンで時間を確認し、一二時半という表示を見てポケットに仕舞う。そして、真上に上がった太陽を見て、ジワリと額に汗が滲むのを感じた。


 今日は日頃一〇時過ぎに起きるのに、六時には起きて何時でも出られるように準備をしていた。

 ゲームをする気も漫画を読む気もせず、ずっと時計を見て時間が経つのをただただ待っていた。でも、一一時過ぎに遂に待ちきれなくなって、家を出て来た。

 そして、あまり早く行き過ぎても良くないと思い、途中のコンビニでペットボトルのスポーツドリンクを買って、駅に着いたのが一二時一〇分過ぎだった。


 五〇分前に来て待っても一〇分前に来て待っても同じだろうが、家に居たら落ち着かなかったのだから仕方が無い。


 太陽の日差しが燦々と降り注ぐ駅前。

 日頃だったら五分もこの場に立っていられない状況だが、今日はいくらでも待てる気がする。


 前を通り過ぎる通行人に視線を向けられ、俺は気不味くなって視線を下へ下げた。

 こんな炎天下の中、一人で突っ立つ俺は変に見えているだろう。でも、一時間くらい変に見られるだけで、凛恋と元通りになれるなら安いものだ。


 凛恋と会えなくなって、話し辛くなって、たった数日。

 もしかしたら、人によってはたかが数日くらいなのかもしれない。

 遠距離恋愛で頑張っている人からしたら、甘えてると思われるかもしれない。

 でも、俺にとっては、途方も無く長く終わりの見えない時間だった。


 それを今日、俺は終わらせる。

 そのために少し待つなんて、どうってことない、いや……待って当然だ。


 電車がホームに入る音を聞きながら、目の前に見える風景を眺めていた。


 俺と同年代っぽい男子の集まりがワイワイガヤガヤと楽しそうに通り過ぎて行く。

 小さな女の子を連れたお母さんが、女の子と手を繋いで楽しそうに歩いて行った。

 背広を来た男性が、ビジネスバッグを片手にハンドタオルで額の汗を拭う。


 色んな人達が通り過ぎるのを見送って、ポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。

 時間は一二時五七分。俺はポケットにスマートフォンを仕舞って深く息を吸った。


 昨日の夜は、落ち着く間もなく電話を取った。だから今日はちゃんと落ち着いて話そう。

 凛恋が勇気を出して電話を掛けてくれたんだ。ちゃんと凛恋の話を聞いて、凛恋の言葉を受け止めて。


 きっと凛恋は俺と元通りになってくれる。だから自信を持って、謝って素直に俺の言葉で伝えればいい。

 凛恋はずっと俺を想ってくれていたのだ。凛恋なら、きっと受け止めてくれる。


 額に汗が滲み、その汗が垂れる前にズボンの後ろポケットからハンドタオルを出して額を拭く。そして、鞄からペットボトルを取り出してスポーツドリンクを一口飲む。


 もう一三時にはなっただろう。視線を刻雨高校のある方向に向ける。しかし、まだ凛恋らしき人影は見えない。

 もしかしたら、学校で何か頼まれ事をしているのかもしれない。凛恋は人が良いから、頼まれるとなかなか断れないだろうし、ちょっと遅れるのかもしれない。


 突っ立つ俺の横を、キャリーバッグをゴロゴロ転がしながら若い女性が通り過ぎる。その女性は駅前で待機していたタクシーに乗り込んで行った。

 出張帰りかただの帰省か、はたまた旅行か。そんなことを考えながらしばらくボーッとして、また視線を刻雨のある方向に向ける。

 でも、凛恋らしき人影どころか刻雨の制服を着た人も来ない。時間は一三時半にもうすぐなろうというところ。


「電話、してみるか」


 凛恋の電話番号に電話を掛ける。呼び出し音を聞きながら、渇く喉に再びスポーツドリンクを流し込んだ。

 視界の中を何人もの人が通り過ぎるのを見ながら、何度も繰り返される電話の呼び出し音に耳を傾ける。

 それから六人ほど人が通り過ぎるのを見ても、電話が繋がらない。学校の用事の最中だったら電話に出られないのは当然だ。

 でもなんとなく不安が拭い切れず、俺は一旦凛恋への電話を切って、赤城さんに電話を掛けた。

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