【七《三度目に止まった時》】:二

 あれからずっと八戸のボウリングが終わるのを待ち続けた。

 その待つ時間は途方もなく長くて、ずっと途切れることの無い緊張の連続で精神が張り詰めていた。

 その永遠にも思える時間が、やっと過ぎ去る。

 八戸達が立ち上がってボウリングスペースから出てきたのだ。


「ごめんね。私、友達と約束あるからここで帰るね」

「えー、八戸さんとカラオケ行きたいなー」

「ごめん。ボウリングだけって聞いてたから、後に予定入れちゃってて」


 遠くから八戸の声が聞こえる。そして八戸が笑顔を見せて話しているのは、あの男だ。

 八戸の向かいに居る男は、八戸に近付いて八戸を引き止める。男は手を伸ばして八戸の腕を掴もうとする。

 それを見て、俺は自然と足を走らせていた。


「ごめん。友達待たせてるから」


 駆け出して八戸の近くに来た時、そのはっきりときっぱりとした八戸の声が聞こえる。


「八戸、探したぞ。赤城さんと栄次も待ってる」


 ボウリングのピンが弾ける音を聞きながら、男の手を八戸の腕から離すように、男に背を向けて八戸との間に入る。


「そんな奴が友達? アハハッ! 止めといた方が良いよ、そんな冴えない奴。そんな奴と友達辞めて俺達と遊ぼうよ」


 後ろから聞き慣れた言葉が聞こえる。何処にでもこういう奴は居る。

 やっぱり、評判の悪い奴はそれなりの奴だと言うことだ。


「八戸、行くぞ」

「多野、ちょっと待って」


 歩き出そうとした俺を押し退けて、八戸は男の前に立ちニコッと笑った。


「もう、二度と私に声掛けないでね」

「はっ?」「えっ?」


 八戸が満面の笑みで言った言葉に男が聞き返す。俺も思わず耳を疑って声を上げてしまった。


「ちょっ、冗談にしては酷いなー」

「冗談じゃない。言っとくけど、友達の頼みじゃなかったら、今日ここには来てないから。今日私は、この私の大切な友達と遊ぶつもりだったの。その予定を潰して、ボウリングは付き合ってあげたんだしもう十分でしょ? 君とはもう二度と会いたくないから。女子の体が見たいんだったら他当たってくれる? 今日話してる間、ずっとジロジロ体見られて気持ち悪かった。それと私達の周りちょこまかしても無駄よ。君、要注意人物だから誰も相手にしないし。もの凄く察しの悪い人みたいだったから忠告しといてあげる。私の周りで君の思い通りになる女子なんて居ないから。さっ、多野、行くわよ」

「あ、ああ」


 スタスタと歩き出す八戸の後ろを、呆けながらついて行く。いや……えっと、どう処理すればいいのか分からない。


「多野」

「な、なんでしょう?」

「ファミレス、行くわよ」

「りょ、了解」


 女子が、八戸が怒った所を初めて見た。それもイライラなんて生易しいものじゃない。ブチギレもブチギレ、完全に堪忍袋の緒が切れた怒りだった。そして声を張り上げずに、笑顔を崩さずさっきの言葉を発した辺りも恐怖を感じる。


 女子って、怒るとこんなにも怖いのか……。



「ああぁッ! もーッ! マジムカつく! ふざけんじゃないわよ!」

「凛恋、落ち着いて。栄次と多野くんが固まってるから」


 怒り心頭の八戸の隣には赤城さんが座り、冷静な顔で八戸をたしなめている。

 そして向かい側に座る俺と栄次は、くつろぐ余裕もなく、両手を膝の上に置いて背筋をピンと伸ばしていた。


「ずーっと私の胸とか足とか見てんのよ? ホンット気持ち悪い! ああもう! 行かなきゃよかった!」

「でも凛恋は頑張った。私、ちゃんと見てたから分かってるよ」

「それに何なの最後! 多野のこと、鼻で笑いやがって!」

「凛恋、言葉遣い汚いよ」

「多野のこと見て冴えない奴ってふざけんじゃないわよっ! あいつ眼科行った方がいいわよ絶対! それにあいつに多野の何が分かるってのよ! 何が、そんな奴と友達辞めて俺達と遊ぼうよ、よっ! お前は人間辞めろっての! 比べる気も起きないくらい多野と居る方が楽しいっての! もうマジであいつ消えてなくなれッ!」

「多野くん、引かないであげてね。多野くんのことを悪く言われて本当に腹が立ったみたい」

「お、おう」


 本当に赤城さんが居て良かった。この状態の八戸を俺がなだめられる訳がない。


 八戸は俺が注いできたメロンソーダをゴクゴク飲み干してコップを荒々しく置く。

 そのコップに手を伸ばそうとしたら、横からサッと手が伸びてきてコップを掻っ攫う。


「ありがとう栄次」

「希は八戸さんの話を聞いてあげて」


 赤城さんと言葉を交わした栄次が八戸のコップを持って席を立つ。これは……上手く逃げやがったな。


 真向かいに座る八戸はムッとした表情で俺の方に視線を向けて、それから背中をソファの背もたれに付けた。


「…………多野」

「なんだ?」

「…………とりあえず、今聞いたのは全部忘れて」

「今聞いたのって、ホンット気持ち悪いから始まる、消えてなくなれまでの流れか?」


 そう言うと、八戸はペタンとおでこをテーブルに付けて「ああっ……」と力無く声を漏らした。


「今、やっと冷静になって、自己嫌悪になってるところ」


 赤城さんが冷静な顔で解説をしてくれる。そして、赤城さんは優しく八戸の背中を撫でた。


 赤城さんは本当に八戸のことを理解している。そして八戸のことを信頼している。

 俺が八戸を連れ戻そうとした時も、冷静だった。やっぱりそれは、赤城さんが八戸のことをよく理解し信頼してたからこそだろう。


 八戸と赤城さんがどれくらいの付き合いなのかは聞いていない。でも確実に俺達よりも長い時間を一緒に過ごしているのは分かる。

 いったい、どれくらいの時間があれば二人みたいになれるのだろうか。


「とにかく忘れて」

「いや、それは無理な話だ。友達が俺のために怒ってくれたのは嬉しいからな。忘れるなんて勿体無い」


 確かに言葉遣いは綺麗とは言えない。でもそれを気にすることも忘れるくらい、友達が俺のために怒ってくれたのだ。

 そんな嬉しいことを忘れられる訳がない。


「それに、あの男は俺も気に食わなかったから、八戸が徹底的に叩き潰しててすっきりした」

「……幻滅してない?」

「何を幻滅するんだよ」

「だってほら……女の子らしくない言葉遣いだったし……」

「しない。それは俺も栄次も同じだ。幻滅してたらこうやって愚痴に付き合ってないしな」


 人間関係が苦手な俺が愚痴に付き合うなんて、自分でも、自分がどうなってしまったのかと思う。でも、それは結構簡単な言葉で解決出来た。

 俺は八戸の友達だから、それだけだ。


「凛恋。多野くんは人をつけるのあまり気乗りしてなかったんだけど、あの男子の視線に気付いた時、すぐに凛恋のことを助けに行こうとしてたんだよ。絶対にあの男子に凛恋を近付けちゃダメだって怒って、コーヒーの空き缶を手で潰してた。あれは私もびっくりしちゃったな」


 さっきは八戸が自己嫌悪に陥っていたが、今度は俺が気不味くなる。


「空き缶、潰したの?」


 八戸が顔を上げてキョトンとした顔で首を傾げる。


「気が付いたら潰れてただけだ。俺が潰したんじゃない」

「……プッ! それってどういう言い訳よ」


 ファミレスに来てから怒ってばかりだった八戸の顔が、フッと笑い出す。

 俺はそれを見てホッと安心した。


 栄次が戻ってきてから、昼飯がまだだったということもあって、ファミレスで昼飯を食べると、すぐに八戸の愚痴披露会が始まった。


 朝、あの男に会った瞬間に手を繋ごうとされたとか、ずっと隣に居て面倒くさかったとか、そんな話だった。

 俺はその八戸の話を聞いて、サッと血の気が引いたり、ドキッと胸を跳ね上げたりして、軽い悪態とともに男を酷評する八戸の言葉を聞いてホッと安心する。


 土曜の昼過ぎということで、ファミレスは客足が多く店内が騒がしかった。

 そして世の中はうるさくて他人に無関心。そのお陰で八戸は気兼ねなく愚痴をこぼせていた。

 俺はうるさくて無関心な世の中に感謝した。「八戸が話しやすい環境で居てくれてありがとう」と。


 話が終わった後、すっきりとした表情をしている八戸の表情を見て、心から「良かった」と思った。



 薄暗い空に穏やかな風。とても過ごしやすい空気の歩道を、俺は足取り軽く前へ進む。


「いやー語った語った! すっきりしたー」

「八戸が一人で話しっぱなしだったな」

「ボウリングの間ずっと考えてたのよ。これが終わったら、多野達にいっぱい愚痴を言えるから我慢我慢って」

「最後の最後、我慢出来て無かったけどな」


 俺は、八戸があの男に浴びせた言葉を思い出して笑う。それにしてもあれは聞いている俺もスカッとした。

 あの目を丸くした男の表情は傑作だった。


 俺は良い奴じゃない。だから人の不幸を喜びもする。そう開き直って心の中で「ザマー見ろ」とあの男に毒づく。


「あのさ、多野……」

「ん?」

「電話、チョー嬉しかった」


 三回目だ。また、時が止まった。


 ニコッと笑う八戸の表情が永遠に続くように思える。でも今回は二回目の息苦しさは無かった。

 その八戸の可愛らしい笑顔をずっと見ていたいと思った。


 …………俺は、何を考えているんだ?


 急に背中に電撃が走ったような痺れを感じて我に返る。

 痺れの後、ゾッとするような寒気が全身を覆い、心地良かった空気が一気に生きづらくなる。


「多野から電話来て、帰るぞって言われて、めっちゃ嬉しかった。あいつは危ないからって言われて、もっと嬉しかった。ホント、最後まであの空間で頑張れたのは多野の言葉があったからだし、多野が見てくれてるって分かってたから」


 今すぐにでも八戸の前から消え失せたかった。


「それとさっきさ、空き缶を潰したって時の希の話。……ありがと、本当に嬉しかった。多野には悪いけど、私のために怒ってくれたこと、凄く嬉しかった」


 必死に八戸の言葉に耳を貸さないように精神に訴える。

 聞くな、聞いちゃダメだ。

 でもどう自分に訴えても、自分は自分でコントロール出来なかった。


「あっ……もう着いたか」


 八戸は残念そうな顔をする。俺は心の中で「やっとだ」と安心する。


「じゃあ、またな」

「またなって、明日は多野ん家でゲームでしょうが。丁度良い所で中断してるからモヤモヤしてんのよ」

「そう、だな」


 初めてだった。八戸と友達になって初めて、八戸と会うことを躊躇った。でも、会いたい自分が勝って、自然にそう返事をする。


「じゃあ、また明日」

「ああ、また明日」


 何時も通り八戸か玄関の扉の奥へ消えるのを見送る。そして、扉が完全に閉まった瞬間、俺は来た道を全力で走り出した。


 一刻も早く八戸の家から、八戸から離れたかった。


 走りながら、何度も何度も胸を拳で叩く。八戸の言葉に喜んだ心を、八戸と明日会えると高鳴る心を。

 ……八戸を可愛いと思った心を。


「ふざけんな! 洒落になんないだろうがッ!」


 誰も居ないのを良いことに、俺は声を荒げて自分を責め立てる。


 流れる景色に、通り過ぎる車のヘッドライトから発せられる光。吹き抜ける風と少しずつ闇に染まる空。

 俺の心もドンドンと闇に染まっていくのが分かった。


 家に辿り着いて、焦りながら玄関を開けて手早く内鍵を閉める。

 爺ちゃんに見られたら絶対に怒鳴られるであろう勢いで廊下を駆け抜け、そして自分の部屋に飛び込んでピシャリと戸を閉めると、俺はその場に崩れ落ちた。


 最悪だ……なんで、どうしてこうなる。


 右手の拳を振り下ろし、年季が入って擦り切れた畳に打ち下ろす。

 畳を打った拳は軽く跳ね上がり、そしてストンと畳の上に落ちた。


 何時も見慣れた自分の部屋が、何処か異界のように思える。いや違う。部屋が変わった訳じゃない。

 俺が変わってしまったのだ。


 世間から孤立した存在。今までもそうだった。でも今回は、家族からも友達からも孤立した独りぼっち。

 自分がとんでもない禁忌を犯した罪人になったように思える。

 俺はどうして、こんなことをしてしまったんだ。


 自分の考えと自分の思いが同調しない。まるで自分がバラバラになって、自分が自分ではなくなった感覚。

 世界でたった独りの異常な存在。何処にも味方の居ない、完璧な孤独。


 走ったせいで体中に満ちていた興奮がスッと消える。その瞬間、頬を何かが伝うのを感じた。

 しかし、それが何かなんて分からない、分かりたくなかった。


 俺は本当に取り返しのつかないことをした。でももう自分では自分を制御出来なくて、気が付いたらそこへ転がり落ちていた。もう、どうしようもなかった。


「どうして……どうしてだよ……」


 初めての俺にも、不思議とそれが何なのか分かった。本能的というか、ハッとした時には、それが俺の目の前に叩き付けられていた。


 俺は取り返しのつかないことをした。

 俺はとんでもないことをしてしまった。

 俺は……友達を好きになってしまった。

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