【八《永やかな想い》】:一

【永やかな想い】


 心の中はずっと飽和状態で、張り裂けそうなほど膨れ上がって苦しい。でも……それをどうにか出来る術が無い。


 学校に行きたくない。そう思ったのは何年振りだろうか?

 もう思い出すことさえ出来ないくらい遠い過去にあったことだけが分かる。でも、行きたくないと思っても行かないわけにもいかなかった。

 俺が学校に行かないと言い出せば、周りに異常を悟られる。


 何時も通り家を出て、まだ夜の寒さが残った静かな道を歩く。


 もし、この道が途切れて通れなかったら、俺の家から学校に繋がる全ての道が通行止めになったら、俺は学校に行かなくてもいいのに。

 学校に行かないことが肯定されるのに。学校に行かないことが正常だと判断されるのに。


 踏み出す足の一歩一歩が重く、全然前へ進んでいる気がしない。

 こんなにも遠かったのかと思い知る。でもこれから、一日を学校で過ごさなくてはいけない。


 学校は決して楽しい場所じゃなかった。それはもうずっと昔から変わらない。

 でも、最近はその学校に少し変化があった。学校が楽しくなったなんていう、あり得ない話ではない。


 楽しくない学校を消化するスピードが速くなったのだ。


 前まではダラダラと冗長に学校を消化していた。でも最近は淡々と簡潔に学校を消化出来ていたのだ。


 その理由は分かっている。でも俺は意識的にそれから目を逸らした。

 でも無意識にそれを認識して見てしまっている。だから自分を騙すことは出来ない。俺に出来るのは、自分に言い訳することだけだ。


 学校の校門を抜けて、石膏像の隣を通り過ぎる。そして、右手の拳を握り締めた。こんな日に限って、周りからの視線が、悪意が、嫌に気になる。


 俺は無意識に、ただ淡々と簡潔にこの日を消化したいだけだ。なのに、周りは俺に無関心では居てくれない。

 嫌いなら見なければいいのに。嫌いなら意識しなければいいのに。居ないものだと、自分達は知らないと、自分達には関係ないと、無関心で居ればいいのに。周りは俺に嫌いという関心を向ける。


 俺はそれを、今日もダラダラと過ごして行く。



 昼休み、俺は久しぶりに教室から出た。何処か誰も居ない場所に行きたかった。でも、俺に行く宛てなんてそうはない。


 刻季高校の運動場、いわゆるグラウンドと呼ばれる場所の脇に体育用具倉庫がある。

 日頃、その用具倉庫は施錠されていて中に入れないから、コンクリート製のただの建造物でしかない。でも、昼休みの時間帯には、太陽の光が当たって温かくなる。


 うちの高校では、昼休みにグラウンドで遊ぶ生徒は滅多に居ない。時々、サッカー部の奴らがサッカーをやっているのを見るが、今日は誰も居ない日だ。

 だから、この温かく過ごしやすい用具倉庫の前に座って居れば、誰にも邪魔されずに昼休みを過ごすことが出来る。


 白いコンクリートの地面の上に溜まった砂を払い、ゆっくりと腰を下ろす。ポカポカと暖かいその場所で目を閉じた。


「体育用具倉庫とは新しいな」

「…………栄次」

「また何かあったのか? 八戸さんが元気がないって心配してた」


 八戸。その名前を聞きたくなかった。その名前を聞いてしまったら、嫌でも意識してしまう。八戸のことを考えると、胸が苦しくて辛い。

 栄次は俺の隣に座って、空に浮かぶ太陽を眺めた。


「何か、あったのか?」

「栄次、栄次は赤城さんを好きになった時どう思った?」

「なんだよ急に」

「教えてくれ」


 眉をひそめた栄次は、俺の言葉で真面目な表情になり、俺の顔から視線を外してグラウンドに向けた。


「俺のことを好きになってほしいって思ったかな。それで、希のことをもっと知って仲良くなりたいとも思った」

「そうか。ありがとう」


 栄次の話を聞いても何の参考にもならなかった。

 俺と栄次は前提が違う。

 栄次は赤城さんを最初から好意の対象として見ていた。だからずっとその想いに迷いは無かったし、一寸のブレも無かった。

 真っ直ぐひたむきに、栄次は赤城さんを好きだったのだ。そんな純粋な好きとは比べられない。


「それは八戸さんが心配してたことの解決にはなるのか? 希を介してだったけど、相当心配してたみたいだぞ」


 栄次に打ち明けるべきだろうか?


「話せよ。友達だろ」


 その短くはっきりとした言葉に、俺は躊躇いを押し退けて、必死に言葉を紡いだ。

 でも恐れが邪魔をして、上手く声に出せない。それでも、何とか言葉に仕立てた。


「八戸を……好きになって、しまった」

「マジか! で? 告白するんだよな!?」


 明るく嬉しそうな声。でも俺にはその声が、酷く軽い声に聞こえた。

 そして、言わなければ良かったと後悔した。


 仕方がない。

 栄次は栄次であって、俺ではない。だから、このことに関して絶対に当事者にはなれないのだ。

 当事者にはなれないから客観視しか出来ない。

 主観で考えられないから、栄次は笑っている。

 でも栄次は悪くない。悪いのは俺だ。


 栄次は俺の気持ちを読める特殊能力は持っていない。そして客観視しかしようがない栄次に憤っていることが俺の傲慢なのだ。

 俺の気持ちを理解しろと押し付けているだけなのだ。

 だけど、飲み込めなかった。もうそんな余裕は無かった。


「言える訳ないだろうがっ!」


 怒鳴り付けてしまった。怒りの矛先を向けてしまった。栄次は友達なのに。


「カズ……どうしたんだよ」

「簡単に言うな! 告白するんだよな? そんなこと出来るわけ無いだろうが!」

「でも、伝えたら何か――」

「八戸には好きな奴が居るんだっ! そんな八戸に告白したってどうなるってんだ!」


 俺は逃げた。

 八戸に好きな人が居るという根拠で、自分が逃げる理由を作った。

 告白することよりももっと恐ろしいことを回避するために、そうするしかなかった。


「好きな人が居ても、好きになったらしかたな――カ、ズ……」


 栄次の言葉は聞こえなかった。

 何か言っているのは分かっていた。音は聞こえていたけど、言葉は何も入って来なかった。


「告白なんてしたら……八戸と友達じゃなくなるんだ……」


 涙と一緒に、ひび割れた心から辛さと苦しさが漏れ出てくる。

 拭っても拭っても、それは留めどなく溢れてくる。


「やっと出来た友達なのに、もう笑って遊べなくなるんだ……。毎日一緒に話して帰れなくなる。一緒にゲーム出来なくなる。土日に栄次達と一緒に遊べなくなる。やっと出来た、友達との楽しい時間が無くなるんだ……」


 八戸と友達になってから、学校は楽しくはならなかった。でも八戸と過ごす楽しい時間が出来た。今まで、そんな時間なんてなかった。

 そんな時間が俺に出来るなんて思ってもみなかった。だから分かる。

 今失えば、もう二度とこんな楽しい時間は訪れない。


 今は俺が八戸のことを好きになってしまってぎこちなくなってる。でも、時間が経てば今まで通り笑える、はずだ。


「…………もし、八戸さんがカズ以外の男と付き合ったらどうするんだよ」

「…………八戸が好きな奴と付き合えるなら友達として喜――」

「カズの気持ちはどうするんだよ!」

「仕方ないんだ! 仕方ないんだ……どうしようもないんだ……」


 俺と同じ状況で、自分の気持ちをちゃんと伝えたいと、そう思って告白する人が居るかもしれない。

 その人はとても勇気があると思う。そして良いことだとも思う。でも俺にそんな勇気はない。


 好きな人が居る以上、俺が告白したって断られるだけだ。そして断れば、優しい八戸は多少なりとも俺に申し訳無さを感じるだろう。

 その申し訳無さ、罪悪感は遠慮に変わる。そして遠慮は疎遠になり、疎遠は無関心になる。


 俺に悪意を向ける奴らに、いくら無関心になられても痛くも痒くもない。

 むしろ無関心になってほしいと思う。でも、八戸には無関心になってほしくない。


 八戸とずっと友達で居たい。


「情けない。がっかりだ」


 栄次の冷たい声が聞こえた。

 情けない。その言葉を聞いて、やっぱり栄次には理解出来ないんだと、俺には分かった。


 友達の多い栄次には分からない。自然と人に囲まれる栄次には分からない。

 笑って話せる友達が、放課後一緒に帰れる友達が、ゲームを一緒に出来る友達が、どれだけ貴重な存在かを。


 小学校の六年間は栄次が居た。でも中学の三年間は独り。小中合わせた九年間で、俺が笑って話せて、放課後一緒に帰れて、時々でもゲームを一緒に出来たのは栄次だけだ。

 そんな俺にとって、八戸がどれだけ貴重な、かけがえの無い存在なのか、栄次には分からない。


 だから、あんな冷たい声が出せるのだ。


 栄次が立ち去る足音が聞こえる。その足音が遠くなるに連れて、栄次の存在が遠くなる。栄次の足音が聞こえなくなって、俺は空を見上げる。空から光を下ろす太陽は、無関心に俺を温めてくれる。



 終業を告げるチャイムの音を聞いてから、一切無駄な動きをせずに最短で校舎の外に出る。いつもよりかなり急いだせいか、まだ他に生徒は居ない。

 明日からも今日みたいに急いで出よう。それなら誰にも会わずに帰れる。それは、とても気が楽だ。


「お疲れさま」


 校門を出た瞬間、校門脇に立っていたベージュのブレザーと赤チェックのプリーツスカートの彼女。

 柔らかく微笑む赤城さんから俺は視線を逸らした。


「栄次は一緒じゃない」


 何時も通り栄次を待っている赤城さんの隣に八戸は居ない。それを見て残念だとも良かったとも思う。

 その二人の自分に嫌気が差した。


「そっか」

「じゃあ俺はこれで」


 俺が赤城さんの隣を通り過ぎると、赤城さんは小走りで俺の隣について来る。


「栄次と帰るんだろ」

「ううん、今日は多野くんに用事があるから、多野くんと帰るって言った」

「いいのかよ、彼氏が居るのに他の男と」

「そうやって気にしてくれる多野くんなら安心だよ。それに、栄次じゃ多野くんの気持ちは分からない」


 赤城さんの言葉に思わず立ち止まる。隣から赤城さんの落ち着いた声が聞こえた。


「ホント、女の子の気持ちはちゃんと考えるけど、多野くんには遠慮が無いよね。ちゃんと怒っておいたから、いくら親友のことでも、何でも言いふらして良い訳じゃないって。でも怒らないであげて、栄次は栄次なりに多野くんのことを心配してる」


 サッと血の気が引いた。赤城さんは知っている。栄次が話したんだ。

 多分、相談をしたか愚痴を言ったのだろう。

 でも、よりにもよって八戸の親友の赤城さんに話すなんて。いくら自分の彼女だからと言っても……。


「…………八戸には言わないでくれ」


 栄次に悪気がないことが分かってしまうから、栄次を責めることは出来ない。だからそう頼むだけしか出来ない。


「大丈夫、言わないよ。でも、ちょっとだけ、多野くんとお話したいし聞きたい。私だって多野くんの友達なんだから」


 赤城さんはそう言って俺の顔を覗き込む。


「ここの先の公園で話そっか。人が多い所だと落ち着かないし」


 赤城さんにそう言われ、俺は無言で頷き歩き出した。

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