【四《惑う感情》】:二

 しとしと雨は止む気配がなく、歩道のタイルは雨で濡れて、街灯の明かりが反射して光沢を放っている。

 空は相変わらず灰色の雲に覆われている。それに日が雲の向こう側で傾き始めたせいか、街はいつもより薄暗くなっている。


「さーて、次は何処に行こうかな!」

「帰るに決まってるだろ」

「えー、小学生でもこんな時間に帰らないって」

「ダメだ」


 隣でニヤニヤと笑う八戸をたしなめる。こんな暗い時間に女子を出歩かせるわけにはいかない。八戸は良い奴だ。

 良い奴だからこそ、ちゃんとそういうのは考えてやらないといけない。


「ダメだって言うなら私一人で遊ぶからいーし」

「分かった。出来るだけ人がゴミゴミしてない所が良い」

「人がゴミゴミ?」

「人がうんざりする程居ない所が良いってことだ」

「それってー、私と二人っきりになりたいってこと?」

「出来れば、家で一人きりがいいな」


 ニヤニヤ笑う八戸が俺をからかおうとしているのは見え透いている。それに過剰に反応する気も起きなかったし、端から冗談と分かっていることに同様もしない。


 八戸は何処か目的地でもあるのか、迷わず通りを歩いて行く。


 通りには学生だけではなく、買い物帰りの主婦や、仕事終わりのサラリーマンやOLがせかせかと歩いている。そりゃあ仕事で疲れているのだ、早く帰りたいのだろう。

 そう思う俺も早く帰りたい。しかし、八戸を放って帰るわけにもいかない。


「おおっ? 八戸じゃねーか」

「えっ? ああ、宇治屋(うじや)くん」


 前から歩いてきた、いかにもチャラそうな男が、八戸に手を挙げて近付いてくる。どうやら八戸の知り合いのようだ。

 こういう時、俺のような立場の人間は居所に困る。とりあえず黙っているのが得策だろう。


 コミュニケーション能力皆無の俺が、初対面の人間とコミュニケーションを取れるわけがない。ここは八戸に任せて俺は空気に徹する。


 八戸が宇治屋と呼んだ男は、刻雨の制服を着ているが、どう見たって一〇代……いや、二〇代にも見えない。


 くすんだ金髪のロングヘアーに耳には銀色のピアス。制服はダラッと着崩して、はだけた胸元からは真っ赤なシャツと、黒光りした骸骨をモチーフとしたペンダントが見える。絵に描いたような不良少――不良中年そのものだ。


 その、不良中年宇治屋くんの後ろには同じ系統の男二人に、これまた派手な化粧の女子二人が居る。


「これからカラオケ行くんだけど、八戸一緒に行かね? 男三女ニでバランス悪いだろ?」

「ごめん、今友達と一緒だから。また今度みんなでね」


 別に友達と会ったなら遠慮する必要は無いのだが、俺も今回ばかりは八戸の判断は良かったと思った。

 人を見る目を養う機会が皆無の俺でも、この男は信用ならないと思う。


「友達ってそっちのヒョロいのか? あれ? お前……」


 俺の顔を見た宇治屋くんは、俺の顔を見て、あっ! という顔をして、そしてニヒルな笑みを浮かべた。


「お前、もやし野郎じゃねーか」

「えっ……」


 隣に居た八戸の息が漏れるような小さい声が聞こえる。そして、八戸が俺の腕を引っ張って歩き出した。


「ごめん宇治屋くん、私達用事あるから」

「まー待てって。ちっと背が高いからって騙されない方がいいぜ。こいつ小学から中学卒業するまでずっとイジメられてたヘタレ野郎だからな」


 宇治屋が俺の腕を乱暴に掴んで引き止める。

 俺は、手に持っていた傘を八戸に押し付けた。

 頭から冷たい雨を被り、傘で雨を遮ろうとした八戸を手で制す。


「うわー、マジ?」

「キモッ」


 暗く薄気味悪い笑い声と共に、明確な嫌悪が投げ付けられる。

 どうやら宇治屋は、俺のことを知っていたらしい。小中の同級生だったのかもしれない。外見的には同い年だとは到底信じられないが。


「小一の頃はビービー泣いてたんだけどよー、急に小三くらいからイジメ甲斐が無くなってな。散々イビっても何の反応もしねえの。なんか見下した目で見て来て、スゲームカついたの覚えてるわ」


 普通、いじめというのは、いじめられた側はいつまでも覚えていて、いじめた側は忘れ去っているものだ。

 だけど俺の場合は、俺に悪意を向ける人が多過ぎて、一々個人個人を覚えていられない。

 だから、悪意を向けられた記憶はあっても、誰がやってたかまでは覚えていない、覚える気もなかった。


 悪口は言わせておけばいい。悪口は人が自己顕示欲を高めたいだけに使う安易な手段だ。

 自分に誇れることが、自分に誰かより優っているものが、自信がないから、誰かを見下すことでしか自己の優位性を高められない。

 宇治屋という人間はそんな可哀想な人間だ。そういう人間相手にはその悪口を聞いてやるのが、一番効果的だ。


 悪口を直接言う奴は、悪口を言われて悲しんだり苦しんだりするのを楽しむ。そして、涙を流して泣き出せば、それは相手にとって愉快痛快だ。

 だから、そんな醜悪なものを楽しみにしている相手には、全部悪口を聞いて受け止め、平然としてやるのが一番簡単な仕返しになる。

 全部聞き終わって、鼻で笑い返してやれば尚いい。


 目の前では、どれだけ俺が小中で情けない存在だったのか、どれだけ人から嫌われていたのか。そんなことをペラペラと話している。

 それに、一緒に居る男女は愉快そうに笑い声を上げていた。その話を聞いて、俺は「よくそんなに覚えているな」と思った。


 宇治屋はペラペラと喋れるくらい俺のことを憎んでたんだろうが、俺はそもそも宇治屋という人間が居たことすら覚えちゃいない。

 宇治屋は、見下している相手である俺に、認識さえしてもらっていなかったのだ。

 それはものすごく滑稽であると言える。そして目の前では、自分が酷くバカであることを俺に曝しているとも知らず、自分が強者だと流布している。


「相変わらずツマンネーな」


 全く反応を示さない俺に、宇治屋は苛立ちを持ち始め語調が荒くなる。そうやってイライラさせられているということも理解出来ていない辺りが、本当にバカだとしか言いようがない。


「あっ、そーそー。こいつ何言ってもこんな感じなんだけどよ。一つだけ絶対泣くやつあんだよ」


 宇治屋はニヤニヤときみの悪い笑みを浮かべた。


「こいつ、親に捨てられたんだよ」


 一瞬空が眩く光り、雷が鳴った。その直後、俺はニヤリと口角を吊り上げフッと鼻で笑う。

 それを見た宇治屋は、俺を見て顔を真っ赤にして鼻を鳴らし、俺の横を通り過ぎて歩き去った。

 俺は右手をグッと握り締め、そしてゆっくりと開いた。


「多野……ごめん」


 俺はフッと息を吐こうとした。その前に、横から震えるような声が聞こえた。

 視線を上げてその方を見ると、口を手で押さえて、目からは沢山の涙を流す八戸が居た。


 なんで泣いているんだろう?

 八戸が泣くようなことは何もなかったはずだ。

 そもそも八戸には関係ない話だった。なのに何故?


 宇治屋と対峙している間も冷静だった俺の頭は、八戸の姿を見て一気に混乱する。

 どうすればいい?

 どうすれば泣き止んでくれる?

 何が原因だ?

 俺が何かしたのか?


 頭の中がパニックになり、色んなものがグルグルと回っていると、八戸が傘を俺の上に差して、片手で自分の顔を覆った。


「私が、私が多野の言う通り帰ってたら……あんな人と会わなかった……。私のせいで、多野に嫌な思いさせちゃった……。ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

「いや……えっ……八戸、なんで、八戸が謝るんだ」


 頭が真っ白になった。


 八戸は俺が傷付いたと思っているから泣いているのか?

 いや、そんなわけ無いだろ。八戸がどうして責任を感じる必要があるんだ。

 何処に八戸の非になるようなことがあった?


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 しとしとと弱い雨が降る空の下、俺は体をずぶ濡れにして、目の前に居る八戸を見る。

 八戸は未だ涙を流し、嗚咽を漏らして俯いたままだ。

 その涙を見て、俺の体にはどうしょうもない寒気がゾッと走った。

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