二度目、親父が僕を救ってくれた話

 2021年4月下旬。僕と母が自宅待機期間を満了する頃には、父は疲労困憊していた。


 父は初回の検査で陰性だったが、検査をした医師から「数日してから再検査してください」と言われていたので、再び検査を受けに行った。僕と母が待機期間を終えてから検査に行ったのは父の優しさだったと思う。


 そして、今でも目に焼き付いている父の姿のひとつがこれだ。


 父は帰宅時、僕の目の前で「野球の審判のアウトのジェスチャー」をしたのだ。腕だけでなく、全身の身振りで、おどけて僕に陽性であることを伝えた。


 このときの父は疲れているものの、熱や咳などの風邪の症状が一切なかったので、僕だけでなく、母も、父自身も、無事に回復できると思っていたはずだ。


 僕は今でもこの時の父の姿を極力思い出さないよう努めている。この時の父の姿が浮かんだときがいちばん苦しい。このジェスチャーには父の優しい性格が詰まりすぎている。


 この日から父にはベッドで寝ているように強くお願いした。


 新型コロナは急変するかもしれないという話は知っていたから、それからは二、三時間ごとに経過観察をした。僕と母のどちらかは少なくても起きているようにした。


「どう? 大丈夫?」


「おう。大丈夫や」


「熱は?」


「36度台や」


「俺らより軽症やん」


「〇〇〇〇〇飲んでるからな笑笑」(〇蜂由来の健康食品の商品名)


 僕と母は、待機期間を超えてもすぐには外に出なかった。僕がそうしたのではなく、母がまだ出たくないと言ったので、発症後、14日目にしてようやく買い物に出た。


 近所のスーパーでは、少数だけれどマスクをしていない人もいたし、出入り口でアルコール消毒をしない人も多く見た。これまでさほど意識しなかったところに目がいく。


 ──あぁ……そりゃ、買い物時の感染も十分ありえるよなぁ。


 率直にそう思った。


 いつもより買い込んで、いっぱいになったエコバッグをいくつか持って帰路につく。


 帰宅すると、寝室のベッドに父の姿がない。


 ──あれ? どこ?


 庭やら他の部屋やら探し回る。


「お父さん、お風呂に入ってるわ」


 母の声に少し安心する。


「風呂嫌いやのに、コロナになってなんで入ってんねん笑」


 冗談っぽい会話を母と交わした。


 念のため、お風呂にいる父に声をかける。


「大丈夫?」


「おぉ。大丈夫」


 それから30分ほどしても父が風呂から上がらないので嫌な予感がして、再度声をかけにいく。


「おぉ。大丈夫」


 嫌な予感が消えないので、風呂の扉をひらく。


「お父さん、ちょっと長すぎるわ。もう上がろ」


 湯船に体半分つかっている父にいう。


「おぉ」


 父は湯船から出ようとするが自力で立ち上がれない状態だった。


「ちょ、お父さん、自力で出られん?」


 返事をしない。この時点ですでに意識が朦朧としていたのだろう。


 ──早く、風呂から出さなあかんな……。


 父をかついで浴槽から出そうとするも、ひとりではどうにもなりそうにない。


 ──やばい、お湯、抜くか……。


 湯船のお湯がなくなれば父を担ぎ出せると思い、栓を抜く。


 だが、お湯がなくなっても父を担ぎ出せないので、母を呼び、ふたりがかりで父を担ぎ出す。父の体はお湯のせいか、発熱のせいか、熱い。やばい熱さだった。


 この時の父は、意識が朦朧としていただけでなく、ひとりで歩くどころか立つこともできない状態だった。くわえて痴呆症のような症状が出ていた。(のちに、酸欠による一時的な認知機能の低下だったと分かったが)母といっしょに体を支えて寝室に連れて行こうとしても、別の方向へ向かおうとしたり、手すりをさすったり、何か長さを測るような所作をくりかえしたり。


 仕方なく、廊下に布団を敷いて寝床をつくり、父を寝かせた。熱は38.6度だった。さらに血中酸素飽和度は82、83%あたりまで落ち込んでいた。


 ──これはやばい。入院レベルや。


 コロナ陽性者は個人の判断で救急車を呼べない。やむを得ず、保健所に電話をする。

 保健所にはすぐつながった。父の状態と経緯を説明する。すぐ入院したい旨を伝える。


「すぐ入院は無理な状況です。明日まで様子を見て、変わらなければ再度連絡をください」


 これが医療崩壊の怖さだ。


 不幸中の幸いは、翌日、父の認知機能は少し回復していたことだ。それでも血中酸素飽和度は82,83%あたりのまま。かなり深刻なレベルだから保健所に翌朝いちばん連絡を入れる。


 それでも、すぐの入院は叶わなかった。


 ちなみに、同時期、近隣の他市にすむ知人は体内酸素量90前半ですぐ入院できていた。その方も後に父と同レベルの重症化(=人工呼吸器が必要なレベル)に至ったが、無事生還できている。


 父の入院はその日(入浴事件の翌日)の午後だった。それでも入院できたのは奇跡だとか、運が良かったとか、何度も看護師や知人から言われた。まだ幸せな方なのだから文句をいうなと聞こえた。僕には心の余裕がなかった。


 いや、今も余裕はあまりない。なぜ入院できない人が他にもいたのだから入院できただけでも満足しろという論理が成り立つのか、僕は今でも分からない。


 父は後に人工呼吸器が必要な重症レベルになるのだが、そのときも「現在、神戸市では、人工呼吸器を100人以上が待っている状態なのでトリアージすることになります。おそらく年齢とか持病的に(僕の父には)難しいです」と言われた。


 そもそも医療崩壊については謎が多い。病床数世界一といわれる日本。新型コロナの感染者数、重症化数も世界各国との比較では「さざ波」である日本。医療崩壊が起こるのは医師会のせいだという評論家もいれば、自治体の長が病床数を増やすのに必要な法整備はされているから首長の責任だ、という有識者もいる。


 ──おいおい。このまま誰も原因を明らかにせず、けじめをとることもなく、「さざ波」で医療崩壊する脆弱な医療体制を続けていくつもりなのか?


 最近の僕の心の声。争いごとを好まない両親の気持ちを汲んで、ささやかな僕の抵抗がこの手記だ。


 何はともあれ、これが都市圏で新型コロナの死亡率ワースト1の兵庫県・神戸市の現状。


 話は少し変わるが、6月に入ってからテレビ番組などでも、父のような入浴事故について取り上げられることが増えた。新型コロナ(特に変異株では多いらしい)症状のひとつ「極度の寒気」。これが父にもあったのだと思う。でなければ、あの風呂嫌いの父が進んで入浴するわけがない。


 ようやく父の入院が認められる。


 家の前に救急車が停車する。


 救急隊員の方が家から救急車まで父を運んでくれた。救急隊員の方々も感謝すべき医療従事者の方々だ。


 その運ばれていく父の姿が、僕と母にとって、生きている父の最期の姿となった。


 入院後、まもなく父は一度目の山場を迎える。


 軽い糖尿病の持病があった父は、ステロイド治療がうまく効かなかったようだった。


 あれよあれよという間に吸入する酸素量が増えていき、重症病棟に転院すべきレベルに到達する。前述のとおり、父は重症病棟に転院できなかった。それだけではなく主治医から「助からない可能性が高い」との宣告まで受けた。


 ほぼ同じタイミングで、父から僕の携帯にメッセージが届く。


「もうあかん。たぶん助からない。あとは頼んだ」

 読んだ瞬間、視界がぼやける。


 ──うそやろ。親父がなんでこんなところが最期やねん。

 おそらく人生でいちばん号泣した。年甲斐もなく泣きわめいた。


 そして、気づいた。ここまで僕がうろたえ悲しむと母も見ているのがつらいだろうと。


 なんとか正気を取り戻した僕のところに、病院から電話が入る。


「お父様とiPad面会をしませんか? 少し弱気になっているのでご家族の顔を見せてあげるのもよいかと思います」


 父はスマホをもって入院できたが、機種を変えたばかりでテレビ電話ができない状況だった。僕と母は病院側の提案を受け入れ、父とiPad面会をしにいく。入院して一週間くらいした5月の半ば頃のことだった。


 病院への道中、僕と母が交わした約束は「絶対に父の前で泣かないこと」だ。


 だが、泣いたのは父の方だった。テレビドラマや映画を観て泣いている父を見たことはあるが、家族関係のことで泣いた父を見た記憶がほとんどない。その父が僕と母の姿を見てぶわっと瞬間的に泣いていた。死を覚悟するほどの苦しさと一人で戦った父。どれだけさびしかったことだろう。


 この後、何度かiPad面会をすることになるのだが、この1回目のiPad面会は父にとって効果てき面だった。


 iPad面会と、同時に開始された軽いモルヒネ治療は、ともに父の気力を回復し、新型コロナに打ち勝つためだと医師から説明を受けていた。


 まさに、その通りになった。主治医も看護師も驚くほどの回復をみせた父。


 ──生死の境は抜けられた!!!


 その後、吸引する酸素量もどんどん少なくなり、リハビリのための転院の話をされるまで回復した。


 その後1か月以上経ってから父は永眠することになるのだが、間違いないのは、父がふんばってくれたことで僕や母にほんの少しだけ心の準備、整理をする余裕ができたことだった。


 一度目の山場で父が逝っていたら、僕自身、どうなっていたか分からない。きっと市役所や県庁に乗り込んで、医療崩壊の責任追及という、もっともらしい大義名分に名を借りた「八つ当たり」をしただろうなと思う。


 以上が、二度目の、僕が父に救われた話。

(※つづきは次話になります。)

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