1-2 薄い快楽
イノシシが化け物の胴に向かって飛びつくように突進する。見た目からは考えられないほどの突進力。しかし、化け物は何もしようとはしない。彼は衝突の瞬間、そのイノシシを抱くように受け止めた。かなりの衝撃のせいで、彼は後ろに何度かステップして、その衝撃を殺しきった。イノシシは彼の腕の中で、足を動かしているが、その足は何も捕まえることはできない。
「そうですか。なるほど。前の世界より力も動体視力も良くなってるみたいですね。ふむふむ」
彼はイノシシの素早い動きを認識していた。それも、その動きを速いとは思っていなかった。そして、それは勘違いではない。この世界に来た時点で、元の世界の能力をこの世界に置き換えられている。彼はその手でイノシシの背を撫でる。気持ちいい感触が彼の手に伝わる。
「いいですね。ペットにしてしまいましょうかね」
彼は両手でイノシシを持ち、足を地面につけさせる。イノシシは彼の彼の方を向いたまま地面に付けられ、そのまま進もうと足を動かす。しかし、進むことはできない。イノシシの脚力より彼の腕力の方が強いのだ。
「ふむ。どうも、ペットにするには頭が悪いようですね。少しは足しになると良いのですがっ」
両手の指をイノシシの胴に突き立て、握りつぶすように力を入れる。最初こそ、肉が抵抗して指が浸入するのを守っていた。しかし、その抵抗がなくなり、彼の指がその肉をえぐる。イノシシは苦しそうに鳴き声を上げて、一際大きな声を上げたかと思うと全身を脱力した。彼はそれが絶命したということを指を通して理解した。
「ああっ、素晴らしい!」
彼は体を震わせていた。イノシシを殺したことで、彼は快楽を感じているのだ。しかし、それは一瞬のことであった。
「はぁ、生殺しに近いですね。はぁはぁ、ああ、興奮してきました。次に出てきたものはすぐにでも殺しましょう。そうじゃないと、我慢できない……」
口角を歪め、次の快楽を想像して、体を震わせる。折り畳みのナイフを取り出して、その刃に血と肉をつけるのを想像するだけで、その震えが大きくなる。
「ああっ、あと少し、あと少し、あと少しっ」
イノシシの最期と同じく、一際大きな声を上げると彼は脱力した。その場に座り込むまではいかなくとも、膝を曲げて、両手を重力に任せてうなだれているようにしか見えない。そんな時、近くで何かが動いて、枝の折れる音や草の揺れる音がした。彼はその生物である可能性の高い者が近くにいることに歓喜する。想像を超えた快楽が現実にはある。その快楽の中毒者である彼は我慢することなどできるはずがないのだ。
しかし、すぐには動かない。殺すということは自分が殺されても仕方がないということである。死んでしまえば、快楽を得ることはできないのだ。彼はそれも理解している。
「いねぇなぁ、トラストボア。お前も探してくれよ?」
「探してるよ。でも、魔獣のわりに美味いけど、小さいんだよな」
会話を聞く限り、二人組であると予想できた。イノシシという単語から先ほど殺した物と同じものを探していることもわかった。
――落ち着け、落ち着け。殺すのはいつでもできる。まずはこの森から出た方がいい。
快楽に支配されている脳でも、先を見ることはできた。彼が殺人鬼として、多くの人を殺しても捕まらなかった理由の一つは目の前に快楽を用意されていても、思考のどこかで冷静な判断をしていたからだった。そのせいで、無茶な殺しをせず、証拠もほとんど残さない。快楽を得続けるために、その場では我慢するのだ。
――さて、迷っているのは事実だし、声をかけてみるか。
そう考えて、まだ音のする方向へと向かっていく。すぐにその二人組の姿が見えた。彼はその二人を人間だと思っていた。そう思っていたからこそ、いつでも殺せると考えていたのだ。しかし、その二人組は人型ではあったが、明らかに人間ではなかった。二人は青い肌で、角を有していた。顔や目などは人間と同じ位置についているようだが、手には長い爪を生やしていた。服を着ているため、胴体がどうなっているのかは見えない。人間と同じ位置が急所なのかもわからない。
――殺すには下準備が足りないな。
殺人の衝動をコントロールし、冷静になる。いつでも殺せる状態ではない以上、殺せないのと同じだ。さて、どうしたのものか。彼は見た目は完全な人間である。パーカーで顔を隠しても人間だとばれるかもしれない。そもそも、人間と魔物の戦争を終わらせろと言われたのだ。人間が魔物の前に姿を現せば、殺されるのは簡単に予想が出来る。しかし、先ほど殺したイノシシを食料として探しているのであれば、望みはあるだろう。そう思った彼は、イノシシを拾ってわざと、近くの草を揺らした。
「お、そこか」
「ゆっくりな」
彼の作戦通り、二人組はその茂みに近づいてくる。そして、まるで偶然を装い、二人と出会う。
「なっ。人間っ!」
先頭を歩いていた青肌が腰に付けていた刃渡りの短い剣を抜き、その切っ先を彼に向けた。彼はそれを見て、微笑んだ。
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