第3話 運命の始まり (3)

 シェダルが呪文のような言葉を口にすると、シェダルとエメルの間に黒い闇が湖のように広がった。まるで見えない手に掴まれて引きずり出されるように、一組の男女が闇の中から現れる。闇から引きずり出された2人を見たエメルは、驚きのあまり言葉を失った。


「お父様! お母様!」


 我に返ったエメルは叫んだ。闇から引きずり出された2人は、なんと父親のマルスと母親のカリーナだったのだ。


「エメル! それはシェダルではない! 絶対にアストライアを渡してはいけない――」


 アストライアを渡すなと警告したマルスに、細く伸びた闇が植物の蔓のように絡みつき、黙れと言わんばかりに全身を締めあげた。

 マルスと同じようにカリーナも闇の蔓に締めあげられる。締めあげられる2人の苦痛の声がほとばしるたびに、エメルの心は引き裂かれそうになった。いま目の前で行われている凄惨な拷問から、両親を救い出す手はたったひとつしかなかった。


「もうやめて! 剣を渡すからお父様とお母様を返して!」


 両親が拷問される姿はこれいじょう見たくない――! 血を吐くような思いでエメルは叫んだ。

 エメルに近づいたシェダルが不意に立ち止まる。エメルが見たシェダルの顔は、血の気を失ったように青褪めており、苦悶で激しく歪んでいた。まるで自分の中にいる別人格と、身体の主導権を奪い合っているかのようだ。


「だめだ……エメル……! 父上が言ったとおり、絶対にアストライアを渡すな……!」


 顔を上げたシェダルがエメルを見つめる。真紅だった瞳は澄んだ空色に戻っていた。いまこの瞬間別人だった兄は、本物のシェダルに戻ったのだ。

 汗が滲んだ真っ青な顔をしながらも、シェダルはエメルに微笑んでみせる。まさかこの微笑みが、自分が見る兄の最後の微笑みになろうとは、このときのエメルは微塵も思っていなかった。


「さあエメル! アストライアで僕を斬るんだ!」

「なっ――なにを言っているの!? 兄様を斬るなんてできないわ!」


 当然ながらエメルは拒んだ。同じ母親の胎内から生まれて、ともに惜しみない愛情を注がれて育ってきた、この世界でたった1人の兄。その兄をこの手で斬るなんて、そんなことできるはずがない。


 片手で顔を押さえたシェダルの喉から、苦しげな低い呻き声が漏れる。懸命に抑えている邪悪ななにかが、シェダルの精神を再び飲みこもうとしているのだ。しかしそれでも剣を握るエメルの手は動かなかった。

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