六遍

 アーネストは思い出した。

 否、思い出したくなかった。

 十七年前のまだ若かった頃、双子の兄と共に変な女に拉致された。


 当時の記憶を辿っても、女とどんな会話をしたのかは断片的で思い出せない。

 ただ間違いのは、女は狂っていると言う表現では言い足りない程に常軌を逸していた。アーネストと兄アレクサンドロスが大学からの帰り道に、何かで尖らせたであろう木槌で二人の背後を襲い、二人とも気を失わせて古城に連れ帰り、アレクサンドロスから拷問を始めた。

 どういう意図か、アーネストは椅子にただ座らせ、拘束すらもせず狂女は兄への執拗な暴虐を楽しんでいた。

 ただ、アーネストが気付いた時には兄に狼の皮を被せられた後なのと血塗れだった事もあり、それが兄であると全く認識出来なかった。

 兄と思しき人物から発せられた声は異様な雄叫びとも言える声ともなっており、おそらく舌を切断されていたのであろう。


 兄であると知ったのは、アーネストが古城から脱出した後、警察が古城を制圧した後だった。

 現場検証では、兄はこれでもかと言うくらい、体の原型がなくなるくらい甚振られた後に、女はあろう事か自分を甚振って、悦しみながら死んでいった。

 これにより何故兄弟がこんな目に合わされたのか、理由は永遠にわからず仕舞いだった。


「なんてひでえ・・・、そんなヤバイ事日本でも滅多にねえよ・・・」


 アーネストから告白を聞かされ、尊は相当なショックを受けていた。


「だから私、兄を弔う為に、神父になった。

 だけど、余りにも辛すぎたから、記憶をわざと消していたと思う」


「いや、そりゃそうなるよ。誰だって・・・」


 アーネストが答えるが、尊は遮る。

 これ以上聞くには堪えない、との意思表示だ。


「・・・それで、記憶が戻ったのは良いとして、この後はどうしたらいいんだ?」


 尊は空気を読み、敢えて話を反らした。


「お前さん達、記憶の話に夢中だったから気付いてないようだが、彼が話した“女”が来たぞ」


 柳音が険しい声で答えた。これにアーネストと尊はびくつき、血の気が引いた。


「え、その女って、アーネストの兄貴殺した後に意味わからん自殺したんじゃないのかよ。て、そいつもしかして、悪霊化してんの?」


 尊の声が震え始めた。


「悪霊化なら全然対処出来るんだが、このレベルは予想外だ。

 魔物や悪魔でもこうはならん」


 すると柳音は上着を脱ぎ始めた。

 五十代の割には意外と体格が良く、骨が太いのが一目でわかるが、何より目についたのは、全身に字らしき模様が描かれている。

 アーネストは、この字は日本語ではないと思った。サンスクリット語でもないし、その発展形の梵字にも似ているがどこか違う。

 ひとつひとつがどこか攻撃的で、目で見るにもどこか辛い。


「山根の言う通りの準備をしてよかったよ。

 これがなかったら三人とも既にお陀仏だったよ」


 柳音がそう言うと、部屋にある椅子が突如ひとりでに激しく揺れ出した。

 誰も触れておらず、動かすにも距離があるにも関わらず、椅子が暴れていた。


「こやつの兄を甚振り通して、自分の体で愉悦を貪った挙句まだこやつに執着するか、滅却!!」


 柳音は脱いだ上着から何枚かお札を取り出していた。

 こちらも、体に描かれた模様のような文字で書かれている。

 しかし、お札に書かれた字は体の字とは比べ物にならない程攻撃的な意匠がある。

 アーネストは見ただけで目の奥に痛みを覚えた。


「まだ足掻くか、貴様のおるべき場所はここではない!滅殺!!」


 すると今度は柳音の叫びと共に椅子が燃え出した。

 ここで、あの声が聞こえて来た。



 ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ



 嫌な程に、耳に纏わりつく笑い声だった。椅子が嗤っている。


「滅茶苦茶なヤローだな!しぶてえ!!滅在!!」



 ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ



 椅子はまだ嗤っていた。

 椅子自体は燃え盛る炎に耐え切れなくなり、溶け出していた。


「滅!!滅!!滅!!」


 柳音は連呼した。お札はずっと持っていたが、滅と叫び始めると今度は燃える椅子にお札を投げつけ始めた。

 とても軽い和紙にも拘わらず、弾丸のようにお札が椅子に飛んでいく。


 どれぐらいお札を投げ続けたであろうか、柳音はお札を投げ切ると両膝に手をついた。汗だくになり、息遣いを荒くさせている。


「・・・お前さん達、失敗だ。先に、逃げろ」


 柳音はそれだけ言うと再び上着を取り、中から残っていたお札を取り、持って来ていたカバンの中から、刃渡り四十センチ程の七支刀を取り出した。


「柳音さん、何言ってるんですか!

 あんたでもどうしようもないんだったら全員で離れましょうよ!」


 尊は拒否する。しかし、


「これだけの事をやって、ヤツの、興味をアーネストから俺に、変えさせたんだ。今やった努力を無駄にさせないで、くれ」

 柳音がそう言ったのを最後に、アーネストと尊の意識がそこで途絶えた。




 夜に、アーネストは意識を取り戻した。

 古城の部屋の中は変わっていなかったが、部屋にいなかった人物がいた。


「まだ休んでて下さい。もうすぐでこちらの片づけが終わります」


 山根だった。

 同行していなかった筈だが、いつ合流したのだろうか。

 山根はそれから、椅子のあった場所に向かって一人何かブツブツと呟き始めた。

 アーネストは椅子の方に目をやると、そこに椅子はなかった。

 否、椅子らしき物は残っていた。

 高熱で溶けた、小さな鉄の塊だけがそこに残っていた。


「終わりました。全て説明しますが、尊さんを起こしましょう」


 山根はそう言うと、寝そべっていた尊の上半身を抱き起し、背後から首に拳で軽く叩く。すると、すぐに気付き噎せ返した。


「柳音さん、怪我の具合はいかがですか」


 山根は尊の背中を摩りながら、静かに聞いた。


「もう俺は引退だな。おとなしく寺の事務でもやってるよ」


 柳音は力なく答えた。アーネストが目をやると、柳音は痛々しい姿をしていた。七支刀を持っていたであろう右腕が丸々なくなっており、反撃でも喰らったのか左目に、血に染まったガーゼが当てられている。右足にも応急処置で木板と布で即席のギプスが宛がわれている。満身創痍だった。


「それでも、ヤツと対峙して生き残った事自体が凄いです。

 やはり貴方は稀代の滅却師ですね」


 山根は安堵した顔で少し微笑む。と同時に少し寂しそうな笑顔でもあった。




 アーネスト達はしばらくドイツで療養した後、日本に戻った。

 尊はあの柳音の戦いを終わる直前まで見たらしく、あの嗤い声を聞き過ぎたせいで精神のどこかがやられたらしく、神父の活動が出来なくなった。

 以来療養生活を余儀なくされ、アーネストが合間を見て看病に赴いている。

 柳音はあの戦いで相当に深手を負い、住職としての職務を果たす事が出来なくなり引退。寺の住職は若い僧が跡を継いだ。

 あの事件以来から、山根とは会っていない。

 私と会ってもロクな事も思い出せないから、会わない方がいいでしょう、と提案されたのもあり、アーネストは義務的に従っていた。

 もちろん、あの悪夢も見ていない。

 寝覚めは常に良い。

 しかし、寝覚めの良い朝を得られたのと引き換えに、友人を危険な目に遭わせた事がアーネストにとって遺恨だった。

 いくら悪夢から解放されても後味が悪すぎる。

 せめてもの償いで、尊の療養の手助けと、柳音の困り事に応えるぐらいでしか助ける事しか出来なかった。

 これで良かったのだろうか。

 アーネストは毎日自問自答するが、答えは出ない。

 ただ、あの声だけはもう聞きたくなかった。

 しかし、またあの声を聞く事になろうとは。


 ある日尊の見舞いに家を訪れると、玄関のドア越しに、尊の声で、あの声のように嗤っていたのだった。



 ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲月 - 「最悪 - 絶望・恐怖短篇集 中編版」 MAGI @magi2021

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ