「第11章 エゴイスティックな手記が語るあの日」(11)

(11)

 容易く自分の意思を変える。安い天秤のような湊の心境に透は、ついていけなくなってくる。それでも手記に目を通しているのは、真実が記されているからだ。


 そして、ついてはいけないが湊自身も混乱しているのは流石に想像が付く。


 殺そうした人物を諦めたら、最終的に本人が自殺していたのだ。


 まず、生きていて味わえない体験をしている。この日の湊の脳は、とっくに容量をオーバーしているに違いない。


 リアルタイムに書いている訳ではないこの手記ですら、整理する事が出来ず心境が崩れている。ひょっとしたら、目まぐるしく変化する状況についていっているように見せて、一つ一つの出来事の正確な心境は、無なのかも知れない。ただ反射的に、その場その場で対処しているに過ぎない可能性が高い。


 この後の湊の行動からもそれは明白だった。


 湊は、詩織の自殺をより絶対的なモノへと昇華させる補助をしている。


 具体的に述べれば、湊はそのまま室内には入らなかった。


 余計な足跡や髪の毛を残さない為である。無論、普段から入っている為、両方ともない訳ないだろうが、例えば、このまま彼女に駆け寄って出来る足跡と普段から歩いている跡では、意味が天と地ほど違う。先程までに詩織の傍にいた為、出来た足跡に付いては、後になっても対処は可能だ。


 とにかく今は、余計な事はしない方が良い。指紋については、ドアノブと使用中の札程度しか触れていない。この二点については、どうにでもなる。


 湊がした事はとても単純な事だった。


 ただ、そのままドアを閉めたのである。


 施錠すらしていない。


 使用中の札がある限り、用務員の墨田はまず入ろうとしない。彼にはそこまでの勤労意欲はない。大学図書館からの者も入らない点は同様だ。


 使用中プラス電気が点いている。


 それだけで周囲は出納準備室に誰かがいると考える。


 その状態が後二時間程、続けば完成だ。


 その後の様子は容易に浮かぶ。墨田が自分を尋ねに司書室を訪れる。そこで鍵がない事、加えて出納準備室が施錠されていると演技をすれば、彼が予備の鍵を持って来る。年寄りの男性一人騙す程度、造作もない。


 鍵を持って来た墨田と緒に堂々と中に入る。警察には簡単に説明が出来る。さらに自分から詩織を降ろす役割を果たす事で、足跡の件は誤魔化せる。


 最後に、墨田に警察への連絡と人を呼びに行かせる、この両方をさせている隙に鍵を彼女が持っているかも調べる時間も作れる。


 ミステリー小説のような奇想天外なトリックは必要ない。


 必要とされるのは演技力だけだ。


 最大の難関は今から司書室で待機する二時間弱。普段は発生しないイレギュラーが一つでも起こってしまえば、何もかも水の泡となる。


 この時間だけは賭け以外の何者でもない。自分が出来る事は精神を集中させて、いつも通りに仕事をする事。


 湊は全ての予定を組み立てたのち、職員通用口を通り司書室へと帰った。


 これ以降のページには付箋は貼られていなかった。


 どうやら読むべき所はココまでのようである。


 透は手記を閉じてテーブルに置く。それに反応してこちらを向いた彩子に深々と頭を下げた。


「貴重な物を読ませてもらった。お蔭で今日まで知らなかったあの日の真実を知る事が出来たよ。ありがとう」


「頭を上げて下さい。先輩がお礼を言う事なんてありません」


 そう言われて頭を上げる透。目の前には瞳を潤ませた彩子の顔があった。


「不快な物を見せて申し訳ありません。決して楽しい気分にはならなかったはずです。それにこんな短時間で読んでもらった事にも感謝しています」


「そりゃ確かに、不快な部分は多々あったけど……」


 流石にその点を否定する訳にはいかず、透は後頭部を掻いた。だがすぐに「けど」っと言って言葉を繋ぐ。


「高校の頃から考えていた事に決着が付いた。結果として残念なモノになっているが、今後の人生知らないで過ごすよりも遥かにいい。得るモノはあったよ」


「そう言っていただけると、本当に助かります」


 笑顔を作り彩子を安心させる透。彼の笑顔の効果により弱弱しくではあるが、彼女もまた笑顔を作った。


 透はテーブルに置いた手記に目を向ける。彼は手記に挟まれた付箋の意味を良く理解している。


 これは必要最低限のみに付箋を付けただけではなく、今日読む自分の負担を軽くする為でもある。おそらく付箋以外のページにはもっと酷い事が記されているのだろう。彩子は全部読んだ上でガイドを付けてくれているのだ。


 負担は彩子の方が圧倒的に多い。


 だから、もう手記の内容について。付箋以外の部分まで尋ねない。聞きたい事がないと言えば嘘になる。しかし、我慢をするべきである。モヤモヤとした感情が胸に湧くも透は理性を用いて強引に封じ込めようとした。


 そんな透の様子が彩子には筒抜けだったようだ。


「手記について、何か聞きたい事があるのなら、何でもお答えしますよ?」


 彩子の声に透は思わず驚いた顔で彼女の方を向いた。それが決定的な証拠を作る。目が合った彩子は微笑んだ。


「だって、先輩私に聞きたい事があるんでしょう? それくらい分かりますよ。大丈夫、どんな質問にも答えます。たとえ、付箋に関わらずとも」


 一枚上手だった彩子に透は、降参のため息を吐き、ソファに深く体を預けて、紙コップを手に取り水を飲んだ。多少は小さくなった氷だったが、それでも、冷たさは充分に保たれていた。


 リセットした思考で透は、彩子に質問を投げかけた。


「じゃあ一つ聞くけど」


「はい、何でもどうぞ」


「湊先生は学校を辞めた後、どうしたんだ?」


 透の知っている湊の最後は、学校を辞めた部分まで。それ以降は全く知らない。


 手記の内容からは、決してその後の人生が円滑だとは感じ取れない。


 それは短い部分しか読まなかった透にも分かる。


「あの人は、学校を退職してから、しばらくは株やFXで生活費を作り家族を養っていました。でも、そんなのは長続きしません。先輩なら察する事が出来ると思いますが、その時点でもう精神的におかしく、情緒不安定でしたから。夜は毎日、酒を飲むようになりました。また株やFXでは、安定したお金を得られませんでしたから。徐々に借金をするようになります。その借金は、最終的に家を売って返済しました」


 淡々と湊のその後を話す彩子。透は彼女の口調に感情が殆ど込められていない事を怖く感じていた。まるで、架空の人物について説明しているような口ぶり。


 何か言いたくても、どう言っていいのか分からず、透は曖昧な相槌を打つ事しか出来なかった。


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