「第11章 エゴイスティックな手記が語るあの日」(5)

(5)

 手記にもこの行為に意味はあるのか? と言った自問自答する文章がある。透はこれで湊が馬鹿な事を止めてくれるだろうと思った。


 一応、湊だって教師の一人。自身の行いの無意味さを自覚したのなら、すぐに止める。透は少なくとも本気でそう信じた。彼がそう考えたのは、この手記に自分が登場人物として出たからである。このままの流れで穏やかに終わってくれたらと切に願う。


 だが、そんな簡単な話で終わる訳がない。


 こんな所で終わる話ならば、彩子はもっと早く話している。今日まで長引いたのはそれ相応の結末が用意されているから。


 透は深いため息を吐く。


 手記では、その後も湊は詩織との関係を維持したままであった。


 その理由は二つ。


 一つは、もう自分は引き返せるような場所には立っていないという事。


 そしてもう一つは、詩織が誰かに告発する可能性があるという事である。


 関係を止めたという解放感から、詩織が現実的思考を取り戻した時、真っ先に考えられるのは、周囲に話す事。無論、証拠を残すような事はしていない。


 彼女が記録を取っているような素振りはない。また、目撃される、不審に思われる。といった行動も取っていない。


 外部に発覚するとしたら、詩織の口から言われる他ない。


 透はそこまで読んだ時、ふと疑問が浮かんだ。どうして詩織は周囲に言わないのだろうか? っという疑問である。二十四時間監視されている訳ではないのだから、話すチャンスはいくらでも存在していた。それなのに話していない。


 どうしてなのか?


 本人がいれば直接問い詰めたいものだが、こればかりは叶わない。せめてこの手記を読み進める内に解決出来ればいいのだが……。


 そう思いつつ透は更にページを捲る。


 詩織を叩いてから彼女は一切、透の名前を出す事はなくなった。


 そして、何事もなかったかのように湊の好きな笑顔を見せるようになる。その詩織の行動に流石の彼も動揺を隠せないでいたものの、月日が経つというのは恐ろしく、次第に気にしなくなっていった。


 湊はその事を詩織との二人だけの世界が再構築出来た事による、安心感だろうと自己分析していた。


 湊の精神も安定して、しばらく彼の中から透は消えていた。


 再び、詩織を出納準備室へと呼び出す毎日が続いていた。そして、いつしか彼女に世間話をしなくなり、ただ行為のみを行うようになった。


 湊はある日、珍しく有給休暇を取り繁華街を一人で散策していた。会社員時代とは違って、休日が不規則な彼は、誰かと遊ぶ事はしなかった。学生時代との街の変化を楽しみながら、買い物を済ませてそろそろ帰ろうかと駅に向かう。


 そして地下鉄に乗る前に駅前にある書店へと寄った。そこで、湊は目撃してしまう。書店と併設しているパン屋の二階、まるで隠れ家のような喫茶スペースへと続く階段を上がる詩織の姿を。


 ココに来るまでに湊の帰る時間が、丁度学生達が下校する時刻と被っており、知っている顔の学生達何人かとすれ違っている。だが、今日は休日な事もあって、特別彼から声をかけるような真似はしなかった。


 しかし、詩織は別だ。


 湊は詩織に声をかけようと、レジでコーヒーを注文して、彼女が上がった階段を上がっていく。その際、驚かせようと自身の足音を消していた。それは結果的に功を奏する。一人で階段を上がったので、てっきり誰もいないと、考えていた。


 ところが、湊の考えは大きく外れる。足音を消して、ゆっくりと階段を上がり、途中で背伸びをして、詩織の様子を窺う。そこには彼女の向かい側に誰かがいるのが分かったのだ。彼女の背中に隠れて正確にその姿を捉えられない。


 二人で下を向いて、勉強をしている。ただ、二人以外に客がいなかった事から、自然と耳に入る話声で、 相手の正体が分かった。


 相手は内田透。気付かぬ内に湊の頭から消滅していた彼だった。


 手記には状況説明の後。湊の心情が細かく記されている。


 心臓がやたらと熱くなり、三半規管が狂って、酔っているようなふらつきに襲われる。それは、詩織の笑 顔のせい。以前に名前が出た時と同じく、その笑顔は出納準備室でいつも自分に見せる笑顔ではなかった。あと、数段階段を上がれば、確実に二人に気付かれてしまう。


 これ以上、上がると自分の体に悪影響を与える。そう判断した湊は、ふらつく体をどうにか動かして、店を後にした。


 店を出て外の新鮮な空気を吸い、手元に持っていたコーヒーを喉に流し込み、心臓の火照りと体のふらつきが治まってから、湊は駅の改札を通った。


 ホームで電車を待っている時から家に帰るまでの間、休まずひたすら考えて最終的に一つの決断をする。


 透はそこでまた次の付箋が遠くにあるのを確認する。そろそろ物語は転換期に入る頃だろう。そう判断して手記を置き二度目の水分補給に入った。


「今、どの辺りですか?」


 水を飲んでいたタイミングで彩子が尋ねてきた。透は紙コップを口から離してから答える。


「えっと、喫茶スペースで俺と詩織が会っていたのを彼に見られた辺り」


「そこ読むのって嫌になっちゃいますよね。本当、独りよがりで」


「確かに。頭が痛くなってくるよ」


「分かります。私だって何ヶ月もかけてじっくり読んだんですから。先輩がいくら付箋を貼った箇所のみを読んでいても疲れるのは当然ですよね」


「こんなのを全部読んだ彩子には感服するよ。本当に凄い」


 透が心から思った事を述べると、彩子は笑った。


「初めてこの苦行を理解してくれる人が現れました。嬉しいです。それで先輩、もう予想は付いているとは思いますが、この後の展開は、相当キツいので、覚悟して下さい」


「分かってる」


 彩子の言葉に透は頷いた。


「何度も言いますけど、無理ならいつでも止めて構いませんから。その場合は、ココを出て、美味しい物を食べに行くだけです」


「ははっ。それはどーも」


 彩子の気遣いに透は笑う。彼女との会話で体内に溜まった手記の膿は、ろ過されたようだった。今の彼の心は大分軽い。


「さて、それじゃ続きを読むとしようかな」


 透は再び手記の世界へと想像力を没入させていく。


 湊は二人が会っているのを知ってから、多大なショックを受けていた。


 そのショックは相当で、あの日から一度も詩織との行為に至っていない程である。あの笑顔を見てしまった後では、自分に向けられる笑顔なんて、苦痛でしかなかったからだ。次第に彼女から逃げるようになってしまう。


 詩織が時間になり出納準備室の前に立っていても、湊はその場には行かない。そんな日が何日か続いていた。


 解放感から詩織が周囲に告発するのではないかと考えていたのは、所詮あの日の前の事。今となっては、そんな事は些事でしかない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る