「第10章 早川彩子」(4)

(4)

 自分の知らない所でそういう風に名前が広まったのか。詩織も曖昧な態度を取らずにきちんとと否定すればいいのに。透は戸惑いつつも、そう感想を抱く。


「それ詩織に騙されている。態度はともかく、彼女は否定したんだろう? 多分、俺の事がある程度噂になるようにしたんだよ」


 透がそう答えると彩子は口をへの字にして「えー。ウソぉ……」っと声を出す。


 先程までこの席に漂っていた緊張感が一気に緩んだ。


「なんだ。そうだったんだ」


「付き合う暇なんてない。俺はあの時はとにかく勉強しないと。って躍起になってたから。彼女に恩こそ感じても、恋愛感情はない。それは、今も一緒」


 詩織と恋愛関係になってなどいない。透は彩子にそう説明しながら、当時の自分の心情を回想していた。 他人に恋愛感情を抱く程の心の余裕はない。


 大人達に対して、演じるだけの余裕が出来たのも、全ては彼女が亡くなってしまった後だからだ。もし生きていたら、そんな必要はなく、そもそもあんな交換日記すら存在しなかったのだから。


 そこまで透が考えていると、彩子は腕を組み、何やら考え事をしていた。時折、自問自答している小声が聞こえるが、詳しくは分からない。


 透は話の続きを聞こうと彼女の名前を呼ぶ。


「彩子」


「えっ、はい?」


 ふいに名前を呼ばれて彼女は弾かれたように顔を上げる。それから数秒間の沈黙の後のため息。どうやら思考世界から現実世界へと帰って来たようだった。


「また話が逸れちゃったけど、彩子が詩織に相談してからどうなったんだ?」


「ああ、はい。そうですね、何度も話が脱線してすみません。でも、最後に詩織さんが、先輩に恋愛感情を持っていたかどうかだけ言わせください」


「……構わないけど」


 透が今まで詩織についてそんな事、考えた事もない。それを彩子は話そうとしていた。


「確認は不可能なので、確証はありませんが、詩織さんは先輩に対して、少なからず好意を持っていたのだと思います。それも恋愛感情寄りの」


 幼稚な彩子の意見に透は呆れて、今日初めて出す種類のため息を出した。


「適当に言ってるんなら怒るぞ?」


「いえいえ。ちゃんと根拠はあります。だけど、具体的な解説は控えさせてください。本人のプライバシーに関わるので」


「なんだそりゃ」


 肩すかしを食らって、透はもう一度大きなため息をついた。


「分かったよ。もう聞かない。それより話を進めてくれ」


「はい。私は男子から告白された事。それにどう返事をしたらいいのか悩んでいる事。詩織さんが決めてくれた決断に従う事。そう言った旨を書いたメールを送りました。いつも彼女はメールの返事には最低でも十五分程度、時間がかかります。無論、その事に微塵も怒っていません。だって、それだけ真剣に考えてくれているんですから。私は、返事がすぐに来ない事は分かっていたので、お風呂に入ろうとしたんです。そしたら、携帯電話が鳴りました」


「それで?」


「いつもなら考えられない速度の返事。私は携帯電話に飛び付きました。一体、どんな事を書いてくれたのだろうか。そう思ってワクワクしていたのです。ところが、携帯電話はメールではなく、電話を着信していました」


「電話? 普段からよく詩織とはしていたのか?」


 これまで一度も出てこなかった電話という単語に驚いて、透は尋ねる。すると彩子は首を振り否定した。


「いいえ。詩織さんとは番号こそ交換していましたが、ずっとメールのみで電話なんてした事がありません。初めの頃は何度かしてみようかなと思った時期もありましたが、緊張が勝ってしまい出来ませんでした。先輩はどうですか?」


「電話か。俺もメールだけだったな。勿論番号は知ってるが」


 透にも詩織と通話した経験はない。よって、彼はこの後の展開がとても興味深かった。


「意外ですね。きっと毎晩しているのだと思ってました。私の緊張の中には彼氏と電話中だったら悪いなって気持ちも入っていたんですよ?」


「だから彼氏じゃないって。これでより証明になっただろう」


「そうですね。電話がかかってきた時、私はとっても緊張しました。心臓がカーっと熱くなり、気持ち悪かったです。本当ならすぐ電話に出るよりも、一杯だけ水を飲みたかったですが、それでは詩織さんを待たせてしまう。その思いで私は電話に出ました」


「彼女は何て?」


 透が話の先を尋ねると、それまでテンポ良く話していた彩子が(多少の脱線はあったとはいっても)急に言葉に詰まってしまった。表情から本気で話辛そうにしているのだと伝わってくる。


「無理強いはしないが……」


「いいえ、話します。そんなに難しい話じゃないんです。ただ私が彼女に怒られたというだけで」


「怒られた? 詩織に?」


 詩織が怒る姿は、透にはとても想像が付かない。


 怒るという感情は持ってはいるだろうが、その対象はもっとずっと上な気がする。それこそ、同年代相手には使わない。


 そんな事をいつかの昔、酒に酔った夜に意味もなく考えた事がある。


 そんな詩織に怒られたという彩子。どんな怒り方だったのだろうか。


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