「第10章 早川彩子」(3)
(3)
その息には、中学時代の思い出が内包されていた。
「私はすぐに詩織さんと仲良くなり、メールアドレスも交換しました。一人っ子で部活にも入っていない私にとって、年上のお姉さんが出来たのはとても嬉しかったです。詩織さんが私の人生の目標となるのに、時間はかかりませんでした」
「彼女の人を惹き付ける独特の引力は、体験しない者には分からない。俺は勿論体験者だから、彩子の言っている意味は良く分かるよ。だから、人生の目標が詩織だと言う人間を不思議とは思わないな」
「詩織さんは、メールを送ったら多少、時間はかかるけど、絶対に返事を書いてくれました。こちらが送るメールは、友達同士で送るような一行程度の物ではなく、何度も推敲を重ねて、きちんとした物を送りました。内容は、やはり勉強が中心ですが、それ以外の相談にも乗ってくれました」
「へえ。例えばどんな事を相談したんだ?」
彩子と詩織のメール。透はその内容に興味を持った。彼も彼女とはメールをしていたが、自分以外とはどんな会話をしていたのか。当然ながら全く知らない。なのでつい気になって、反射的に聞いてしまった。だが、言葉を出した直後に踏み込み過ぎたと後悔する。
聞かれた彩子は人差し指を立てて、自身の唇に当て答える。
「それはいくら先輩でも教えられません」
「そうだよな。俺が無神経だったよ。すまない」
自分でも悪い事をしたと思った透は、彩子に拒否された事に、腹を立てる事なく素直に頭を下げる。
「いーえ。そこは女子同士の秘密って事で勘弁してください。ただ、一つだけお話しします。当時、私が男子に告白された事があり、詩織さんに相談した事がありました」
「えっ? 告白?」
「はい。相手は同じクラス、まあまあ話す人でした。ある日、電話がかかってきて、告白されました。私は彼に返事を要求されて、考える時間がほしいと言って、電話を切りました。でも、実際には考える気なんてありません。電話が終わる頃にはもう、詩織さんに相談しようとしか考えていませんでした。先輩ならこの考え、理解出来るんじゃありません?」
「分かるよ。詩織に中毒になってしまうんだろう?」
詩織に何かを相談すると、ほぼ百%の確率で自身が期待する以上の回答をくれる。ところが、その万能さは余りにも優秀過ぎた。気付けば彼女に頼らずにはいられない状態となってしまう。まさに詩織中毒と言ったところか。
これは勉強を教えてもらっていた連中にも当てはまる。彼女達は、詩織に勉強を教えてもらわないと成績を維持出来ない。よって、一回教えてもらって終わりという訳にはいかないのだ。
「その時の私はもう、頭のてっぺんから足のつま先まで、どっぷりと詩織さんに浸かっていました。思い返せばよくあれだけ毎日毎日、相談していたモノです。よく彼女は一度も怒る事なく聞いてくれたと感謝しています」
「その感謝は俺にもある。だけど、それに気付けたのは今になってだ。当時はそんな事欠片も考えていなかった」
「私もです。感謝に気付いていない私は彼との電話が終わるや否や、早速詩織さんに相談メールを書きました。きっと彼女は正しく導いてくれる。そう信じていました。だから、彼女が付き合えと言えば付き合うし、振れと言われれば、振る気でした。最早、そこに私の感情はありません……」
そう言って、顔を下にする彩子。同年齢の透ですら、詩織の影響は凄かった。彼女と一緒に話す事が毎日の楽しみとなって、そこに少しの抵抗や恐怖を感じない。あの中毒性は強烈だった。それをまだ、中学生の彩子が抗える訳もない。
「もし俺が彩子の立場だったら、きっと同じ事をする。だから、全く気にするなとまでは言わないけど、必要以上に考え過ぎるな」
透がそう言うと、彩子はゆっくりと顔を上げて微笑む。
「ありがとうございます。先輩にそう言ってもらえると嬉しいです。やっぱり、詩織さんの彼氏なだけありますね」
「そこさ、訂正しておきたいんだけど。俺は詩織の彼氏じゃないよ」
「またまた、そんな気を遣わなくても大丈夫ですよ。皆知ってるんですから」
彩子は自分に気を遣っていると思ったらしく、明るい声でそう言った。
それに対して透は冷静な声で答える。
「いや、本当に付き合っていない。確かに、交換日記を持っているという事はそうなんだろ? って思われがちだけど、あれは本当に周りの大人達を騙す道具でしかない。だから交換日記の内容だって、全部デタラメだ」
透が冷静に淡々と真実を話すので、彩子の表情は段々と固まっていく。
その表情は次第に不安気なモノへと変わっていった。
「……本当に?」
「ああ。どうせ周りが噂にしていただけで詩織本人は否定しただろう?」
「でも以前、皆で勉強していた時に綾子さんが聞いたんです。そしたら、詩織さんは、普段私達に見せないような可愛い笑顔で否定したから。皆、てっきり照れてるんだって……」
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