「第10章 早川彩子」(2)

(2)

 佐野綾子。当時の彼女の心境なんて、透は考えもしなかった。あの時は、交換日記で大人達を騙す行為にとにかく必死だったのだ。それに佐野本人に恨みなんて欠片も抱いていない。発信源になった事は驚いたが、大人が本気で調べたら遅かれ早かれ、自分達の関係は露呈したはずである。


 それに卒業する頃には、学年中に知れ渡っていたのだ。もっとも、それは自分が付属のS大に入学せず(正確には出来ず)夜間大学に進学したせいで、一気に名前が有名になったせいでもあるが。


 その時、透はある事を思い付き、手を音がしないように叩いた。


「もしかして、彩子が夜間大学に入学したのって……」


「ええ。先輩がいるからです」


 透の疑問を彩子はあっさりと認めた。


 逆に認められた透の方は驚き隠せない。目を見開いて、自然と開いた口からは息が漏れる。大学進学といえば、人生で重要な選択肢の一つ。一生を左右すると言っても、過言ではない。間違えると、そう簡単には修正は出来ないのだ。


 それを目の前に座る彩子は、偏差値とか将来性で選ばず、ただ透がいるからというだけで、決めたと言う。とても信じられないが、現に彼女は入学している。自分の知らない所で、他人の将来に深い影響を与えてしまった。


 そう思っていると、彩子がプっと口から短い空気を吐き出した。


「な~んて、嘘です。安心してください」


「嘘? 本当に?」


 透側としては、嘘だと有難いのだが会話の流れから、ココで嘘と言われても信憑性は限りなく低い。


「本当です。だから先輩が責任を負う必要なんてありません。そりゃあ、先輩が夜間大学に入学する事は、綾子さんから聞きましたが合わせる事までは流石にしませんよ。あそこに行ったのは単に家庭の経済状況です」


「経済状況……」


 透は彩子が最後に言った言葉を呟く。確かに夜間大学は授業料がかなり安い。


 所謂、苦学生という生徒も存在する。だが、彼女もその一人とは思わなかった。


「はい。その辺りもこれから話します。そうですね、まずは私が詩織さんに会った時からでしょうか?」


「頼む」


「初めて彼女に出会った時、私は中学生でした。勉強が得意ではない。ある単元で躓いたまま、学校の授業が先に進んでしまい、取り残された状態を過ごしていました。かといって、塾に通うのは嫌だったんです。どうしてなのか? 今になって考えみれば単純に大人が嫌いだったから、ですかね」


 彩子は当時の感情を思い出し出したのか、微笑んでそう言った。


「そういう感情は理解出来る。大人を嫌いになるのは、子供なら皆かかる一種の成長痛だ」


 彩子は「おっ」っと声を上げて意外そうな顔をする。


「先輩もそうなんですか? ノートを失ってからはともかく、それまでは大人を嫌っていない印象でした」


「そんな事ないさ。しかも正確に言うと嫌っているより、見下している感じだった。あの時は机の上に置かれたテストは全部満点だったからな。大人って所詮この程度かみたいな事を考えてたよ。生意気だろう?」


「ええ。生意気です」


 彩子は透の自虐的な問いに、はっきりと答える。


「まあ、それは途中で目立つから。適当に調整し始めたんだけど」


「うわっ。より生意気」


 そう言われると反論出来ない。透自身でも分かるくらい、当時は生意気だった。


「話が少し逸れたな。修正しよう。それで? 大人嫌いの彩子ちゃんが取り残された状態から、どうやって皆に追い付いたんだ?」


「成績低下を芳しくないと思ったあの人は、私に一人の女子生徒を紹介しました。その女子生徒こそ森野詩織さんです。彼女と出会えた事だけは、あの人に感謝しています」


 だけはっと言う事は、他は感謝がないという事。透は彩子の言葉を聞いて反射的にそう思ったが、口には出さずにおいた。


「大人に勉強を教わる事が嫌悪でしかなかった当時の私にとって、高校生に勉強を教わるのは、とても不思議な気分でした。自分とたった三つしか、年齢は違わないのに。勉強を教えるという大人の行為を行う。緊張と不安と不思議が入り混じった私の心境は、もうこの先二度と味わえないでしょう」


 テーブルに置いていたコーヒーに口を付ける彩子。ゆっくりと喉を鳴らして丁寧に味わっている。透も合わせて自分のキャラメルマキアートに口を付けた。そこそこの時間が経過しているというのに、若干の温かさを残しており、口内に程良く甘いキャラメルの香りが広がる。


 両者の間に沈黙が流れた。


 先程から喋りっぱなしだったので、口休めが必要だったのだ。


 そしてコーヒーから口を離した彩子がゆっくりと店内を見回した。


「ココのスターバックスには、もう中々来れませんね。下手に来ると今日の事を思い出して、楽しめなさそう」


 店内は、今も満席状態で時折、空いている席を探して徘徊する客が視界に映る。この店の客で一番深刻な話をしているのは、まず間違いなく自分達だろう。


「それには深く同感。当分この店には来ないと思う」


「しょうがないですね。まあ、スターバックスはココだけではありません。さて、それでは続きです。私が最初に詩織さんに勉強を教わった時は、それはもう衝撃でした。学校の教師なんかよりも圧倒的に教えるのが上手なんですもの」


「確かに、あれはもはや才能の領域を超えてるよ」


 実際に勉強を教えてもらった透は彩子の意見に深く同意する。


「どこを躓いているのか。恥ずかしくて口に出せなかった私に、彼女はノートを見るだけで該当単元を当てて、そこを的確に。それこそ猿でも分かる程、的確に教えてくれた。その日に教えてもらってからは、そこが得意になったくらいです」


 目を瞑って懐かしむようにそう言って、彩子は深いため息を吐く。

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