「第10章 早川彩子」(5)

(5)

 不謹慎ながら透は先が気になっていた。しかし、先程の彼女の態度から下手に話の先を促しても、無意味なのは明らかである。


 透は逸る気持ちを抑えて、彩子から話すのを静かに待った。


「ごめんなさい。口が止まってしまって。私は携帯電話の通話ボタンを押しました。受話器の向こうから『もしもし?』っと優しい、いつもの彼女の声が聞こえて、ほっと安堵して「はい」っと答えました。それだけで電話を受けるまでの緊張は消えていました。そのせいでつい、言ってしまったんです」


「言ってしまった?」


 暫しの沈黙を置いて彩子は言った。


「『わざわざ電話をしてくれなくてもいいですよ』って。おかしいですよね。相手は私に告白してきている。それはとても重要な事なのに、私からしたら、ちょっと厄介な応用問題の一つにしか考えていなかったです。それがきっと、私の声の雰囲気から彼女にも伝わってしまった。受話器の向こうからため息が聞こえたんです」


「詩織がため息?」


 そんな事は透にとって未体験である。彼の問いに彩子はゆっくりと頷いた。


「あのため息は今でも忘れらません。電話越しなのに。ううん、電話越しだからこそ、あれ程の無機質なため息に聞こえたのかも知れません。今、思い出すだけで、背筋から冷や汗が出ます」


 彩子はコーヒーに手を伸ばして、口を付ける。


「もう、すっかり温くなっちゃいました」


「新しいの頼むか? 奢るけど」


「大丈夫です。温くなった方が今の私には飲みやすいですから」


 彩子の言葉に「分かった」と返事をすると、彼女は微笑み再び話の続きを語り始める。


「その無機質なため息一つで、私の心は一気に奈落の底へと突き落とされました。言葉を失い何かを言わなければと思うのに、一向に出てこない。詩織さんのため息は大人とも子供とも違う。全く違う生き物から発せられたと錯覚を起こす程の代物でした。何も言えずに固まっていると、彼女の声が受話器から聞こえてきました。あの時程、彼女に恐怖を感じた事はありません」


「詩織は何て言ったんだ?」


「『彩子ちゃんは、自分で考える力を取り戻すべきだわ。今の貴方は私なしで物事が決められなくなってしまった。その責任は私にある。だからもう、貴方と接触は止める。一方的になってしまってごめんなさい。けれど、そうする事がきっと将来的に貴方の為になるから』私が喋り返す間もなく、彼女はそう言いました。その時の声は優しかった。いつも通りの詩織さんでした。なのに、まるで段々と下がっていく舞台の幕を見ている観客のように、彼女が私に興味を失っていくのが手に取るように分かりました」


 人が何かに興味を失っていく瞬間というのは、どうしようもなく怖い。


 ほんの少し前まではそれが大好きだったのに、あれが嘘だったのかと言いたくなる程、いとも容易く冷たい目をする。


 透自身は人生で何度かそういった事態に遭遇した経験があるが、どのケースも恐怖という受け取り方は同じだった。それをよりにもよって、あの詩織から彩子は受けてしまった。彼女の話を聞いていると、一つの物語を読んでいるかのように風景が頭に浮かぶが、それは楽しいという感情からは、程遠い。


「私が何とか声を絞り出す事が出来たのは、詩織さんが『じゃあ、さようなら』っと言った時でした。本当に繋がりが切れてしまう。その形容し難い恐怖が私の喉を強制的に震わしたのです。実際は、「あっ」とか「ちょっと」とか言っていたでしょうが、無意識下で行っているので、私の意思はありません。それでも、最後にどうにか言えたのは「切らないでください」という訴えでした。思考が働いていなかった分、本音のみが絞り出たんです。だけど、彼女は私の訴えに応じてくれる事はありませんでした。黙って電話を切ったのです。それが、私が詩織さんと最後に連絡を取った出来事です……」


 彩子はそう言って、残り少ないコーヒーにまた口を付ける。もう中身は残っていないのか。彼女はカップを傾けなかった。あれでは喉元に何も流れて来ない。


 透はその行為が心の深呼吸だとすぐに分かった。彼は目線を下にして腕時計を見る。特別時間を気にしていた訳ではなかったが、彼女と目線を合わせ辛かったのだ。この彼の行為もまた、心の深呼吸だと言えるだろう。


「さようならと言われてから、私はとても詩織さんに連絡する勇気はありませんでした。彼女は決して自分の発言を曲げるような人ではない事は、重々分かっていたので、向こうからの連絡はまずあり得ない。それなのに私は、彼女からの連絡を待っていました。ちなみに告白してきた男子は断っています。それどころじゃない気持ちが勝ったのです。それに彼のせいで、詩織さんとの繋がりが切れてしまったと、彼を恨んでいたくらいでした。一週間、二週間と日付が経過するにつれて、私は詩織さんのいない日常に体が順応していきました。何だかんだで、私が彼女と接触していた時間は、他の人と比べて一番短かった訳ですから、離れるのも困難ではなかったのでしょう。そんな時です。ある、一通のメールが佐野綾子さんから届きました」


 その内容は透にも予想が付いていた。


 透の表情を見て、彩子は黙って頷く。


「先輩も察しの通り。綾子さんからのメールには、詩織さんが自殺したと書かれていました」


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