「第4章 森野詩織」(2)

(2)

 透はテーブル上の自分のiPhoneを手に取る。そしてにカバンに入れていた、白いイヤホンにも手を伸ばした。


 彩子の視線は自分のiPhoneに向けられている。少し体の陰に隠すだけで、気付かれないように、イヤホンを取る事が出来た。


 素早く手に絡めたら、そのままポケットに入れる。


 スターバックスを出て、透はすぐ前にある下りのエスカレーターに乗った。


 地下に向かうからか、そこまで寒さを感じない。


 エスカレーターが中間に差し掛かった所で、ポケットに閉じ込めた右手を解放する。絡まっているイヤホンを解いて、両耳に挿した。iPhoneにイヤホン端子を差して、ミュージックアプリを起動、親指で選曲して再生する。選んだ曲は、『Queen』の『Killer Queen』詩織がいつも聴いていた曲だ。


 両耳に慣れ親しんだ音楽が流れ始めた。久しぶりに聞く優しい歌声は、透の心に緩やかに侵入してくる。 それは、瞬時に彼をあの頃に巻き戻した。


 油断すれば詩織の息遣いや鼻歌さえも聞こえてきそうだった。


 エスカレーターを降りて、地下に来た透は木製のベンチに腰を落とした。腕組みをして目を閉じる。視界を暗くして、手探りでiPhoneの音量を上げた。


 より深くあの頃に潜れるように。


 二曲分の時間をそこで過ごした透は、ゆっくりと目を開けた。イヤホンを耳から外し小さく絡ませて、ポケットに入れる。そして反対側の上りエスカレーターに乗り、再びスターバックスに戻った。


 数分間ぶりに入っても店内に変化はない。左手に見える曲面の大きな窓ガラスの向こうの景色もiPhoneに没頭している彩子も何一つとして、変わらない。


 透が自分の席へと座ると、彩子は顔を上げずに口を開いた。


「お帰りなさい先輩。ちょっと待っててください。このステージ、もう少しで終るので」


「ああ。分かった」


 しばらくの間、せっせと指を動かす彩子を観察する。透には、とてもあんな風に素早く指を動かすのは無理だ。現に一度、薦められて同じアプリをやった事があったがついていけず、すぐに消去した。


「はい、終わり。何か逆にこっちが待たせちゃったみたいですね。すいません」


「構わないさ」


 テーブルにiPhoneを置いた彩子が顔を上げて口を開いた。


「どうです? 沢山出てスッキリしましたか?」


「こら」


 品が無い彩子を注意する。注意された彼女には大して効果はなくクスクス笑って、マグカップに手を伸ばした。


そんな様子に透はため息をついたのだった――。






“元に戻す方法を知っている”


 その言葉が詩織の口から聞こえた時、透の全身に電流が走った。


 幾度なく足掻いた日々。どうしようもない程に追い詰められていた透のノート。それを本人以外の口から戻ると言われるとは思わなかった。しかも相手は、透が最大限の信頼を置いている詩織である。とても嘘とは思えない。


 透は確かにノートの事を詩織に相談するつもりだった。しかし正直なところ、元に戻す方法なんて彼女に分かるはずがないとも考えていた。ただ、彼女に話を聞いてほしい。その気持ちが今回の機会を設けたのだ。


 透の中を走っている電流はようやく終わり、彼はゆっくりと顔を下げた。


「透?」


 突然、顔を下げた透に詩織は心配そうに声をかける。彼はそれに対して、右手を彼女に向けて伸ばした。体を好き勝手に駆け巡っていた電流は、もう切れた。


 すると、今度は透の二つの瞳に水が湧き出したのである。瞳を閉じて、対処を試みるが、湧き出る水は、僅かな隙間から流れていく。


 重力に抗う術を持たないその水は、そのまま彼の膝にぶつかるのだった。


 その様子が見えているのか、詩織は何かを言う事はなく、沈黙を守っている。


 それが今の透には何より有難い。


 やがて、水の流れが緩やかになり、透は顔を上げる。


「ごめん。もう大丈夫」


「ちょっと気持ちを落ち着けましょうか? 今、ココには誰もいないのだし」


「はっ?」


 突然の提案に戸惑う透を余所に、詩織は微笑んで立ち上がり、空いているイスを持ち、彼の横へと座る。 そして彼女は彼の顔を両手で掴み、自身の方を向かせると、優しく抱きしめた。


 甘く安心する香りが透の鼻に強制的に入って来る。


 最近の疲れが一気に出て、つい眠たくなりそうになる。


 詩織は透の背中をトントンっと叩きながら口を開く。


「ゴ、ヨン、サン……」


 そのカウントダウンが何を意味するのか。透にはすぐに分かった。目を瞑って、彼女の言葉に耳を傾ける。


「ニッ、イチッ」


 ゼロっと言う前に詩織は透から離れた。彼女の香りが離れてしまった事に寂しさを覚えつつ、礼を言う。


「ありがとう。かなり落ち着いた」


「どういたしまして。言ってくれたら、またいつでもしてあげるわよ?」


「あまり女性からそういう事を言わない方がいい」


 いつもの詩織の冗談にそう返す。


「あら? 拒否しないと言う事は、透からまた頼んでくる時があるのかしら?」


 詩織の軽口を返したつもりが、裏に隠していた本心を見破られた。彼女の言う通り、透は機会があれば、また頼みたいと思う気持ちがあった。


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