「第4章 森野詩織」
「第4章 森野詩織」(1)
(1)
二人の間に沈黙は依然として流れている。透は次の言葉を探そうと視線を周囲に泳がすが、当たり前ながら答えはどこにも落ちていない。
詩織の様子を窺ってみると、彼女は右手人差し指を唇に当てて、何かを考えているようだった。その様子を見た透は、言葉を探すのを止めて、彼女の口が開くのを待った。
ややあって、詩織が唇から右手人差し指を離して、そのまま立てる。
「まず一つ。どうして私に話してくれたの?」
吸い込まれそうな詩織の二つの茶色い瞳が透を捉える。体に緊張が走るのを感じつつ、透は質問に答えた。
「普通、こんな事を話したら、周りに気持ち悪がられる。でも、詩織は違う。きっと真剣に話したら、ちゃんと聞いてくれる。数日の付き合いでしかないけど、人の話を全否定するような人じゃない。そう思ったから話したんだ」
「あら、随分と信頼されているのね。じゃあ、もう一つ」
「何?」
「透の相談は今のところ、事前情報のみ。肝心の内容が、まだ何か分からないわ」
「あっ、そうか」
詩織に指摘されるまで、透はそこまで頭が回らなかった。ノートの説明に思考を使い過ぎていたのである。
聡明な詩織の事だ。自分が相談したい内容について、大よその見当を立てているだろう。それでも敢えて尋ねてくるのは、彼女なりの優しさだ。
「ノートの力を回復させたい。この歳までノートに完全に依存してしまった以上、もう今から通常通りに勉強しても、とても周りには追い付かない。このままでは、大学入学の進学テストに落ちるのは確定だ」
「それは現役での話でしょう? 例えば年単位の時間を消費すれば、周りに追い付く事も出来るのではなくて?」
詩織の指摘はもっともだった。充分な時間をかければ、これまでしてこなかった勉強を取り戻すのは可能に違いない。しかし、それは出来ない選択だ。
小さく笑って、透はかぶりを振る。
「無理だ、今更そんな事。これまで俺は、テストは全部ノートの力でやってたんだ。当然、家族や友達は、俺が勉強の出来る人間だと認識している。それがいきなり馬鹿になったら、まず心配されるよ」
自嘲的な笑いを浮かべつつ、透はそう説明する。彼の言葉に、詩織は珍しく理解出来ないと言った表情を浮かべて首を傾げる。
「それは全部透の想像じゃない。仮に私以外の、そうね。御両親に話してみるとか。そういう試みをしてみるのも手だと思う。貴方が真剣に話せば私のように、きっと聞いてくれるわよ」
「あり得ない」
詩織の口から出た案を透はすぐさま否定する。
「そうかしら? そもそも透は元々、凄く勉強が出来る子だったんだと思う。 それは教えてる私が一番実感している事なの。だから一年程度、集中出来る環境で丁寧に勉強をすれば、すぐにこの高校に入り直せるくらいの力は付くはず」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、不可能だ。第一、今まで勉強してこなかった人間が一年間もまともに続けられるとは、とても思えない。そりゃココ数日間は、勉強が楽しいって思えたよ。だがその気持ちは、一年間継続するだろうか? すぐに枯れてしまうかも知れない」
透は詩織の話を否定し続ける。彼は初めて話を理解してくれない彼女に憤りを感じていた。こんな感情は、今まで自分の言葉を素早く理解して、最優の言葉をくれる彼女との付き合いで一度もなかった。
一通り話を終えた透は、鼻から熱くなった息を吐く。中途半端に乾燥した喫茶スペースはすぐに喉が渇くのが難点だ。
透の熱意に押されたのか、詩織は話をこれ以上広げる気はないようで、また右手を唇に当てて何かを考え始める。
やがて、ゆっくりと詩織が口を開く。
「テストまであと、三週間程よね?」
「ああ。それまでに何とかしないと。このままじゃ全教科赤点だ」
軽く話すものの、×で埋め尽くされた答案用紙が容易に想像出来て、透は背筋がゾっとする。そんな未来が実現してしまったら、何もかも終わりだ。
それだけを確かめて、詩織はまた右手を唇に当てて考え始めた。彼女の結論が中々出ない。これもまた、透が知る中では初めてである。邪魔をしてはいけないと彼女の答えを待ち続けた。
そして、待つ事数分。ようやく結論が出たらしい詩織が、右手を唇から離した。
「私は、透のノートを元に戻す方法を知っている」
その言葉を聞いた時、透は一瞬呼吸を忘れる程の衝撃を受けたのだった――。
「えっ! 戻るんですか!? 流石、先輩が相談するだけの人ですね」
「あの時の詩織の言葉は忘れられないよ。本当、家に帰ってもその衝撃の余波は、寝るまで続いていたからな」
当時を思い出して頬が緩む透。高校時代の自分は、今のように振り返って話す機会があるなんて、夢に思っていない。
「早く続きを聞かせてください。救いの蜘蛛の糸が垂らされた先輩のその後は?」
「すぐに話す。だけどその前に一度トイレ」
キャラメルマキアートと水のダブル攻撃は、透にそこそこの尿意を催させた。実は、数分程前から兆候はあったのだが、話の腰を折るのはどうかと、ずっと我慢していたのだ。
「ざーんねーん。今トイレ使用中ですよ。さっき人が入って行きました」
男女兼用の個室トイレはこのスターバックスに一つしか存在しない。客の人数と合わせて帳尻があっていないのだ。結果、トイレの取り合いになる。
彩子は透の話に夢中になりながらも、周囲の観察は怠らなかったようだった。彼女は大学時代にも、友達と話しながらノートは真面目に板書していた。
全体的に要領が良いのである。
ニコニコと笑顔を浮かべて、無言で続きを促す彩子に透も微笑んで返す。
そして、透はその場から立ち上がった。
「え~。まさか並ぶ気ですか? 流石にそれはどうかと思いますよ。さっき入って行ったの女性でしたし」
「馬鹿。そんな事する訳ないだろう。すぐそこのホテルのトイレに行くよ」
よくこの店を利用する透は、付近にトイレがどこにあるか把握している。
「早く戻ってきてくださいね、待ってますから」
諦めがブレンドされたため息をついた彩子は、テーブルに置いていたiPhoneに手を伸ばす。メールのチェックか、大学時代から夢中になっているパズルゲームか、そのどちらかだろう。
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