「第3章 秘密のルール」(3)
(3)
「こんな事今まで誰にも話した経験がないから、上手く説明出来ないんだけど。冗談を言ってる訳ではないんだ。真面目に聞いてほしい」
「うん」
真剣にそう話す透に詩織もまた、深く頷く。
「俺の頭の中にはノートがある……。いや、あったんだ」
「ノート?」
「そう。普通の、いつも使っているようなノート。そのノートにはいくらでも書き込める。そして一度書き込んだら自分の意思で消さない限り、失われない」
「凄いじゃない。とても便利なノートを持っているのね。でもさっき……」
最初の説明の時に語尾が過去形になっていた事を疑問に思う詩織。透は彼女の疑問を肯定するように、ゆっくりと頷いた。
「そう、あった。あくまで過去形だ、今はもうない。俺は今まで、そのノートを勉強に使ってた。教科書や板書したノートを書き込めば、テストでは無敵だから」
自分の秘密を一から丁寧に説明する。真面目に聞いてほしいと言ったのは効果があったのか、彼女はココまで茶化さず、話を聞いてくれている。
「実は、そのノートが一ヶ月程前に全部消えてしまったんだよ」
「じゃあノートに書いた事は、もう透の知識として蓄積されてはいない。だから最近になって、図書室で自習していると?」
「その通り」
「じゃあメールで書いてた、“勉強について、かなり大事な事を沢山忘れてしまって困っている”というのは、本当だったのね」
「変な言い方だったのに、今日まで勉強を教えてくれてありがとう。詩織には心から感謝してる」
普通なら馬鹿にされていると思われても仕方がない内容だったが、詩織はそれを受け止めて親切に勉強を教えてくれた。それは、彼女から渡される手製プリントのレベルから充分に伝わる。
「白状するとね、初めは少し試していた部分はあったの。勉強のかなり大事な部分を忘れてるからって、流石にそこまで酷くなくて最低限の箇所はちゃんと覚えてるだろうって。だから、最初に私が作ったA4用紙一枚の課題プリントを五日かけて解いてきた時、ああ本当だったんだって確信したの」
「あれは大変だった。教科書とノートを引っ張り出して、何度も見直したりして。約束の期限は一日だったけど、間に合わないから延ばしてもらうメールをしたんだよな」
当時の詩織とのやり取りを透は思い出して苦笑する。今でも大変な事は変わらないが、最初は特に輪をかけて最悪だったのだ。
「でも、透はちゃんと解いてきた。だから私もこうしてずっと続けてる」
「ありがとう」
話が一息ついて、二人の間に沈黙が流れた。誰も上がって来る気配のない喫茶スペースには、自分達が使用している以外のテーブルとイスが並んでいる。
まるで、二人の話の続きを静かに聞く、観客のようだった――。
「えっ? ちょっと急に話を止めないでくださいよ。続き続き」
急に話を止めた事で虚を突かれた彩子は、右手をパタパタと動かして、透に続きを促す。彼女の瞳は好奇心に満ちていた。当然ながら、その輝きは詩織とは全く別物である。
透の目の前に置かれたキャラメルマキアートに、もうすっかり温もりはない。キャラメルソースが沈み、中途半端な甘みと苦みが重なっただけとなった。カップの蓋を開けて、口を付けたら、すぐにテーブルに置いた。
小さなため息を吐き出して、大きくソファに背中を預ける。
「ちょっと休憩。ずっと話してたから口が疲れた」
実際は、口だけではなく頭も疲れている。久しぶりに話す高校生活が、思ったより頭に負荷をかけていたのだ。この店の暖房は、設定温度を変えていないはずなのに、不快に感じるこの暖かさも余計に負荷を支援する。
「焦らさないでくださいよ~。私、こういうのって続きがずっと気になるんです」
「映画のDVDとか一気に観るタイプだろ? よく疲れないな」
「ふっふっふ。こう見えて実は集中力が凄いんですよ」
嫌味を軽くトッピングした透の言葉も彩子にはまるで聞いていない。
その得意気な笑顔に押された透は苦笑して立ち上がった。
「ちょっと、カウンターで水貰って来るよ。欲しい?」
「あっ、はい。お願いします」
「了解」
透は彩子の分の水を取りにカウンターへ向かった。緑のエプロンを着た女性店員から小さな白い紙コップに入った氷入りの水を貰う。
両手に紙コップを持って、透は再びテーブルへと戻って来た。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます。やった、氷入りだ」
「あった方がいいと思って入れてもらった」
透はソファに座り、紙コップに手を伸ばす。舌の上から喉を通る冷たい水は、頭の冷却にこれ以上ないくらいに最適だった。一気には飲まず半分程取っておいて(お代わりを貰うのは流石に図々しいので、大事に飲む)透は肺に溜まっていた二酸化炭素と酸素を交換する。
「さて、じゃあ続きを話そうか」
「待ってましたっ!」
飲んでいた紙コップをテーブルの上に置いて、彩子は嬉しそうな顔をする。彼女の紙コップは水が既に空であり、氷だけが残っていた。
透は中断していた物語を再開する。話す直前、腕時計に視線を落とした。
相変わらず、長針も短針も足が遅かった――。
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