「第3章 秘密のルール」(2)

(2)

 勉強の効率的な教授は勿論。詩織自身の考え方や話し方は、実に魅力的だった。


 自分みたいな紛い物ではなく、本当に頭が良い人というのは、詩織の事を指すのだと、透は彼女と接して学んだ。彼にとって放課後の喫茶スペースでの時間は貴重な時間だった。彼女と話す時間は、自分を更に上へと高めてくれる成長期間と取れたのだ。


 いつも必ず訪れる終わり際の寂しさがその証拠。その寂しさがまるで酒に酔った状態に近い、人恋しさを生み出す。そのせいもあって、透は詩織と別れた帰りの地下鉄車内で一つの決断をした。


 それは、詩織にノートの事を全て話してしまう事である。


 自分より遥かに頭が良く、知識も豊富な詩織ならばきっとノートの事を話せば、最適な解答を教えてくれるに違いない――。






「うわぁ~。何か凄いですね。先輩がその詩織さんをどれだけ好きだったか。怖いくらいに伝わって来ます」


 彩子は自身を抱きしめる仕草を取り、軽く震えた。


「茶化すなよ。実際、あの時の俺は詩織に夢中だった。他に楽しみがなかったって言ってもいいくらいに」


「きっとその喫茶スペースでの先輩、鼻の下が凄く伸びてましたよ」


「そうだろうな。一応、毎回会う時は必要以上にテンションを上げ過ぎないように注意はしてた。まあ、詩織の前ではそんな事、無駄な足掻きだろうけど」


「そこまで頭が良い人なら、先輩の姑息な足掻きなんて、お見通しでしょう。きっと、懸命に隠す先輩を微笑ましく見ていたんだろうなぁ~」


 透は当時の自分の浮かれ具合を思い出す。


 無意識の内に話していないだけで、現実はもっと酷いモノだったのかも知れない。当時の二人の様子をビデオ等の第三者目線で記録していなかったのは幸いだった。残っていたら、ガムテープで固めた銀箱に詰めて、海底深くに沈めている。


「それで、その後はどうなったんです?」


「ノートの事を詩織に話す決心をした俺は、いつもの喫茶スペースで彼女に話す事を決める。その日は予め、彼女から0ってメールが届いた時、相談があるって送っていた」


 透は視線を左にズラして、曲面になっている窓ガラスから外の景色を眺める。


あの日も確か今日のような天気だった――。






 今日、詩織にノートの話をする。そう決めて彼女に相談があると書いたメールを送ってから、いつものように勉強をしなかった。彼女から渡された手製プリントを放置するのは、心が痛んだが、とても進む気がしなかったのである。


 その日の放課後。透は待ち合わせの駅に到着すると、そのまま街へ出た。


 余裕を持って早く来たので、空き時間を潰す為に久しぶりに書店に行く事にした。喫茶スペース下にある書店に行っても良かったが、もしそこで詩織に会った場合を考えて、別の書店にする。


 駅の改札を出て少々歩いて、センター街にある五階立ての大型書店に入り、二階にある文庫・文芸コーナーへと向かう。軽く店内を散歩してから、新刊の文庫が平積みされているスペースへ。そこで、知らない内に発売されていた好きな作家の新刊の文庫を一冊購入した。


 レジ袋は必要ない旨を伝えて、書店名が入った紙製のブックカバーだけを掛けてもらい、透は再び駅方面へと戻る。


 パン屋に入りレジで、何度も飲んで定番化しているコーヒーを注文し、細長い階段から喫茶スペースへと上がった。案の定、今日も誰もいない。


 透は指定席と化している、一番奥のイスに腰を下ろした。小脇にずっと抱えたままになっている文庫本の輪ゴムを外す。


 緊張からか、ページを追う透の目は遅かった。確実に一行を読んでいるはずなのに中々、話を頭の中で上映出来ず、何度も一時停止を繰り返してしまっていた。こんなに読書が苦戦したのは、生まれて初めてだった。


 二章目に入り、ようやく話にアクセルがかかってきた時、視界の左奥にある階段を上がって来る足音がした。足音を聞いて、透は自然と顔を上げる。


「お待たせ、透。ちょっと遅くなっちゃったかしら?」


 そこには手にトレイにミックスジュースを載せた詩織の姿があった。


透き通るように肌が白いのも、ストンっと重力に逆らわずに肩まで落ちている黒髪も見る者を引き込む茶色の瞳も全部透の知っている詩織だった。


透が首を横に振ると、詩織は微笑む。耳にしているいつもの白いイヤホンを取り、彼女が向かい側に座った。


「詩織が来るまで、さっき書店で買った文庫本を読んで待ってたから。丁度良い時間だったよ」


「何てタイトルの本?」


「『レモンイエローは夜だけ繋がる』この作家の本、前からファンでさ。書き下ろしの文庫が発売してたから、思わず衝動買いしたんだ」


 透は持っている文庫本に栞を挟み、彼女に渡す。受け取った詩織はページをパラパラと捲った。自分の好みの作家が果たして彼女に受け入れられるのか。


透は詩織の評価を静かに待つ。


「面白そう、文章も綺麗。読み終わったら貸してくれない?」


「ああ、勿論」


 自分の感性が認められたような気がして、透は心が軽くなる。


「それで相談って何なの? 勉強の方は今のところ順調そうに思えるけど?」


 こちらに文庫本を返す詩織。彼女から受け取った文庫本を透は膝の上に置く。文庫本の件で多少緊張が緩和された。だがいざ話すとなると、どうしても口元が渇いてくる。心臓の鼓動が煩く熱い。幸い、今この喫茶スペースには、自分達しか人はいない。絶好の好機である。自分の胸元を軽く二回叩いて調子を整えてから、意を決して口を開いた。

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