「第3章 秘密のルール」

「第3章 秘密のルール」(1)

(1)

「それが二人の出会いですか? 青春っぽくていいですねぇ。たまに話がクドいのは難点ですが」


「しょうがないだろ。こんな経験ないんだ。どう説明したらいいのか、加減どころが分からないんだよ」


 ため息交じりに透は腕時計を見る。長針は思ったより進んでいない。続いて店内を軽く見回した。ノートパソコンを開いている者は依然として、熱心にキーを叩いている。本人が注文したコーヒーに手を付けている場面をまだ一度も見ていなかった。


「どうする? 続き、聞きたいか?」


 ココで打ち切りにしても困らない透は、そんな問いを彩子に飛ばす。


 彩子は、笑顔で首を縦に振った。


「別に良いけどさ。これ以上先はあまり良い話とは言えないぞ?」


「そんなに酷い振られ方したんですか?」


 深刻そうな表情で見当外れな事を言う彩子に透は、呆れ気味で腕を組んだ。


「……違うよ。そんな事よりも嫌な事だ」


 透は目を伏せる。言いたくないと彼の態度が主張していた。


 中々口を開かずにいる透を察した彩子は、困ったような笑みを浮かべる。


「やっぱいいです。流石にそこまで話したくない人から無理矢理に聞く趣味はありません」


 その彩子の笑顔は、透の苦手な顔だ。


 こちらに必要以上の罪悪感を与えてくる。彩子本人に自覚はないのだろうが(仮にあったら、今まで何回も使っているだろう)大学時代も透は、その苦手な食べ物を無理に飲み込んだような、彼女の表情を見せられた。


 今回の話は、大学時代から彩子には何度かせがまれているが、この顔を見せてくるのは初めてだ。今までは、それほど彼女が本気ではないのだろうと考えていたが、とうとう見る事になってしまった。透はもう少し思考を沈める事にする。


 そもそも彩子は、話す相手としてはかなりの好条件だ。


 付き合いがあるのは大学時代から。高校時代を知らない。彼女との付き合いは、あくまで先輩後輩であり、今まで一線を超えた事はない。


 互いに恋人がいた時もあったし、それ関係の相談もよくしていた。他人の話を聞いてどういう反応を見せるか、透は良く知っている。


 そう考えた時、彩子の笑顔が一部を除き伝染したらしく、透が小さく笑った。


「続きを話そう」


「えっ、いいんですか?」


 戸惑いを見せる彩子。その反応は当然である。


「いいんだ。いい加減、溜め込んでいてもしょうがない。それよりも、誰かに聞いて聞いてほしい。彩子はまさに適任だ」


自分の正直な気持ちを彩子に説明する透。その気持ちに決して嘘はない。


 それどころか、透は自分が当時の話をする事を楽しんでいる。そう感じてしまっている事に気付いてしまっていた。


 詩織の名前を口にする度に、遠くに行ってしまった彼女を身近に感じる。


 それは、百%良い事とは言えない。


 それを承知の上で、透はまた高校時代を話始めた――。






 詩織のアドバイス通り。透はあれから図書室には行かなかった。


 勉強だけならどこでも出来る。ただ、家だと誘惑が多すぎて捗らない。なので、透は最寄り駅前にある図書館の自習室を使っていた。


 そして、あの日以降。透と詩織は、放課後に度々会うようになった。


 場所は二人が降りる駅近くにある、パン屋二階の喫茶スペース。一階が書店と併設しており、階段を上がればそこに行ける。二階は、窓もなく閉鎖的であり、正直あまり学生が好むような店ではない。その為、誰かに見つかる事もなく、客自体もいつも少なかった。二人には、うってつけの場所である。


ただ、毎日会っている訳ではなかった。


 放課後前、五時間目と六時間目の休み時間に透の携帯電話に詩織からのメールが入る。彼女からのメールは、至ってシンプル。本文に数字の0か1が書かれているだけ。


 0と1の意味は、単純に今日が会えるか会えないかを示している。


 会える日は0。会えない日は1。それ以外の意味はない。


 無論、透側の都合で会えない日も存在する。その場合は詩織のメールに同じように0か1で返信する。  ルールを知らなければ、誰にも分からない。


 二人だけの暗号文を飛ばし合う日々。


 喫茶スペースにいる時間は基本的に一時間。とは言っても、絶対的ではない。その都度の進行状況で微妙なズレは存在する。


 そして、二人で会って一体何をしているのか。


 それは透が勉強を教えて貰っているのである。彼は詩織と会ってから、ノートの復元作業を行うのを止めていた。これ以上やっても、前に進む見通しすらつかない現状では、やるだけ無駄だと気付いたのだ。


 定期テスト前夜になってからでは遅い。もっともこの決断を下すまでに、透は相当脳内で会議をした事は、自明の理である。


 一番の議題は、今から正攻法で勉強を始めて、間に合うのか。という一点。


 そこを解決してくれたのが、詩織だった。


 詩織は透が急に図書室に通い始めたのは、何か勉強で詰まっているのではないかと、初めて会話した夜にメールで尋ねてきた。


透はノートの件に触れずに、“勉強について、かなり大事な事を沢山忘れてしまって困っている”と返信した。


 一見してみれば、酷く曖昧な内容だ。しかし、詩織はそれ以上、追及してくる事はなく、透に良かったら、勉強を教えようかと提案してきた。


 こうして、詩織の提案を受けて入れて勉強を教わっているのである。けれでも、今から中学時代まで遡ってからでは、追い付かない。なので、今回の定期テストの範囲のみに限定して最低限の点数が取れる勉強を始める事にした。


 知識が偏ってしまうの否めないが、贅沢をしている余裕はない。


 以上の経緯の下で透は勉強を始めたが、そこで一つの大発見をした。


 それは勉強がとても面白いと言う事。


 新しい知識を学び自分の中に蓄えていく感覚。また、分からない問題に衝突してそれを解けた時の快感。 ずっと昔、まだ分数の掛け算をしていた時代に忘却したと思っていた快感が、湧き上がって来たのである。


 そうなってくると、透の勉強する能率は飛躍的に上がる。比べる相手がいないのが惜しい中、夢中になって、勉強を楽しんでいた。一方で後悔も生まれた。


 それは、もう少し早く始めていればという事。


 ノートという絶対的誘惑に依存してしまわずに、自身の力だけで周囲の生徒と同じように勉強していれば、これまでの人生において勉強に対する見方は間違いなく変わっていただろう。だが、今更そんな事を考えても意味はない。


 自分はノートのお蔭で今の場所にいる。その事実は絶対だ。


たとえ、今回のテストは運良くクリアしても所詮その場しのぎ。いつかは必ず転落する。もうノートなしでは、遅れを取り戻せない。その事を透は後悔した。


 こういった透の心境の変化は詩織が原因であるのは言うまでもない。

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