「第2章 遠い遠い紙の匂い」(5)

(5)

 ただ、肝心の座席に腰を下ろす事は叶わなかった。降りる乗客が意外に少なかったのと、乗って来る乗客が多かったのである。階段近くの列に並べば、まだ少しは希望があったかも知れない。終わった事を後悔しつつも透は、つり革に手を伸ばす。先程まで誰かが掴んでいる知れないので、ベージュのドーナツ型のつり革を一度回転させてから、右手で掴んだ。


 隣には駅のホームで話した流れから詩織が立っていた。彼女は透とは違ってつり革を回転させなかった。 それを横目で見た透は特に何も言わない。


 二人を乗せた地下鉄はホームを出発して、すぐにトンネルに入り景色を黒いコンクリートへと変えた。


 地下鉄が出発してからしばらくは、ホームの時のように二人の間で会話が交差する事はなかった。二つ目の駅を出発した時、詩織が口を開く。


「そう言えば、自己紹介をまだしてなかったわね」


「ああ。そうだった」


 透からしてみれば、詩織の名前は知っているので、言われるまで特別意識していなかった。


「あれ? でもさっき貴方、私を森野さんって名前で呼んでいた。知り合いだったかしら?」


「違う。こっちが一方的に知ってるだけだ。森野さんはウチの学年じゃ有名だから。本人には自覚がないみたいだけど」


「確か自覚はなかったかも。だけど、どうして私は有名なの?」


 自分が有名な理由を知りたがる詩織に、透は小さくため息を吐く。


「定期テストは常に学年一位。全国模試は一桁台。そして学年唯一の授業料全額免除の特待生。有名にならない方が無理だ」


「へぇ~。周りは私の事をそういう風に見ていたんだ。それだけ私の事を知っているのなら、今更改めて自己紹介する必要はないわよね。貴方の名前とクラスを教えて?」


「内田透。二年二組」


 透はポツポツと名前とクラスを名乗る。自分の名前をもしかしたら詩織は知っているかも知れない。淡い期待があったが、彼女の様子から見るにその兆しは見られなかった。


「これからもよろしく、内田君」


 透の名前を覚えた詩織は、つり革を掴んでいない方の手を伸ばしてきた。彼もそれに倣い、手を伸ばす。


「よろしく、森野さん」


 詩織の手は柔らかかった。同時にもう地下鉄に乗って、随分と経つのにまだ冷えていた。透の手が温かかったので、余計にそう感じてしまった可能性もある。


 透は詩織の手の柔らかさと冷たさを感じてから手を離した。


 詩織は離れた手をそのままブレザーのポケットへと突っ込み、そこから白い二つ折りの携帯電話を取り出した。


「せっかくだし、携帯電話の番号とアドレス。交換しましょう」


「分かった」


 透はブレザーの内ポケットから、青い二つ折りの携帯電話を取り出した。


 二人は携帯電話を近付けて、赤外線機能を用いて互いの電話番号とメールアドレスを交換した。


 詩織の名前が自分の携帯電話に登録されたのを確認する。


「どう? 私の番号とアドレス届いてる?」


「ちゃんと届いているよ。ほらっ」


 そう言って、透は携帯電話の液晶画面を詩織に向けた。


「よし、安心。私にも届いてる」


 同じように詩織も自分の携帯電話を透に向けてくる。向けられた彼は頷いて、納得した。お互いの電話番号とメールアドレスを交換したので、二人は携帯電話をしまう。その時、透はふと思い浮かんだ疑問を詩織にぶつけた。


「図書室で勉強しているのは、やっぱり順位を保持する為?」


「ううん。別にそういうのは関係ないかな。そもそも私、あそこへは勉強しに行っていないの」


「勉強をしに行っていない?」


 詩織の口から出た予想外の解答に透は目を丸くして尋ねる。その様子が面白かったらしく、彼女は微笑んでから再び口を開いた。


「あの場所には放課後になったら行くの。でも、勉強はしない。いつも私、本を読んでいるか、机に突っ伏して寝ているだけ。一番後ろの隅の席だし、誰かの邪魔をしている訳ではないから。直接人に注意はされた事ないわね」


「それならどうして図書室に行くんだ? 勉強しないのに、遅くまで学校にいたら時間が勿体ない。読書も睡眠も家でしたらいいじゃないか」


 透を詩織は黙って聞いて、一回ゆっくりと頷く。


「内田君の言う通りね。でも、彼を放っておけないの。だからしょうがない」


「彼って誰?」


 そう尋ねる透に詩織は、これから悪戯する子供のような表情で答える。


「誰だと思う?」


「言っていいのか?」


 最低限の配慮を見せる透。その名前を口にしたら、もうそういう認識で物事が進んでしまう。詩織が会話の流れを止めた為、二人の間に沈黙が流れる。


透側からは、何と言っていいか戸惑っていると、詩織は観念したような短い鼻息を吐いた。


「さっきも言ったけど、彼と私は仲が良いの。少なくとも、今日の貴方よりは」


「悪目立ちした?」


「しばらくの間、図書室には行かない方がいいわ。あと、私も別に毎日図書室に最後まで通っていないわ。他にも大事な用があるもの。だからそれがない日だけ」


「それは知っている。それで? 俺は大体、どれくらい日を開ければいい?」


「うーん。最低でも三年半は時間を空けるべきね」


 大真面目にそう話す詩織に透の口元は緩む。


「とっくに卒業してる」


「あははっ」


 詩織の冗談に付き合っていると、地下鉄がまた一つの駅に到着した。透の降りる駅である。


 その駅はJRと私鉄が混合している大きな乗換駅であり、乗客の乗り降りが激しい。今まで座っていた人達も示し合せたかのように立ち上がる。ぞろぞろとドア周辺に周集まってくる乗客達。図書室の時とは違って大人もいるので、見慣れているブリキ人形には見えない。そう透は感想を抱きつつ、つり革から手を離すと、隣の詩織も手を離した。


「内田君もこの駅?」


「この次の駅は新幹線しか走っていない。降りるに決まってるだろう」


「分からないわ。貴方が新幹線で帰るかも知れないもの」


 クスクスと笑いながら、そう言う詩織。透は彼女がこういう冗談を言う人間だったのかと新しい印象を受けた。


 冗談を言って満足したらしい詩織は、首に掛けていた白いイヤホンを耳に挿す。それだけで詩織を纏う空気は、一人用になった。彼女はもう透を見ず、前を向いている。なので、横にいる彼が彼女を見ても気付いていない。


 しかし、流石に気付いたらしく、イヤホンを挿したままの詩織は急に透の方を向く。


 完全に油断していたので、目が合ってしまった事に慌てる。


 咄嗟に視線を逸らす事も可能だが、逆に不自然である。


 透は羞恥心を鼻から吐く息に混ぜて心を軽くした。


 詩織はそんな透の心境を知ってか知らずか。軽く口元を緩ませて、手を振った。


 透も合わせて手を振り返す。


 地下鉄のドアが開く。


 二人は、流れに乗り電車から降りる。並んで降りたが、すぐにホームに溢れた大量の乗客の波に流されてしまう。


 そのまま詩織は、改札へと向かう列に飲まれて、やがて見えなくなった。


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