「第2章 遠い遠い紙の匂い」(4)
(4)
透の耳にその声が聞こえたのと、袖が引っ張られたのは同時だった。目を開いて振り返ると、そこには詩織の姿あった。
詩織は白いイヤホンを耳に挿さず首に掛けていた。
「何?」
「さっきは起こしてくれてありがとう。あなたでしょ? バスの運転手が教えてくれたの」
「別にあれくらい。こっちもバスに乗る時に助けてもらったから」
初めてさようなら以外の詩織の声を聞いている。それがとても新鮮で、透は若干の緊張していた。そんな事を到底知らない彼女は尚も声を出し続ける。
「あれは私もビックリ。まさか立って寝てるなんて思わなかった。余程、疲れてたのね」
「そうみたいだ。膝がガクっとなる前に起こしてくれて助かったよ。お蔭で恥をかかずに済んだ」
透が礼を言うと、詩織は微笑む。
「あら。貴方が立って寝ている時、バス停にいた貴方以外の生徒は、全員気付いていたわ。恥ならとっくにかいてるじゃない」
「まだその程度で終わってましって事」
「成程、そういう考え方ポジティブで好きよ。もう一つ聞いていい?」
詩織は、透の苦し紛れの逃げ口上に頷いて納得したのち、人差し指を立ててそう質問した。
「どうぞ?」
「どうして今日、湊先生にさようならって言ったの? これまで一度も言ってなかったじゃない」
「それは……」
詩織の質問に透はすぐに答えられず、言葉が詰まってしまう。彼女は追求せず返答を待っていた。彼は、しばらくどう言おうか考えた後、思考が一周して誤魔化さず正直に答える事にする。
「気に入らなかったから」
「気に入らなかった?」
透の答えに詩織は首を傾げる。
「ああ。閉室まであの図書室にいて、皆声も出したくないくらいに疲れている。それなのに先生はドアの前に立って、わざわざ一人一人に丁寧なさようなら。でも、それだけなら、生徒想いの良い先生。だけど森野さん。君には明らかに態度が違う」
「確かに、湊先生は私にさようならを言う時と、他の生徒にさようならを言う時では、声のトーンが違うわね」
「毎日毎日、あんなのを聞かさせれてたら、嫌になるのは当然。だから今日、我慢出来なくなって、言ってやったんだ」
これまで溜め込んでいた鬱憤を晴らすように、透は饒舌になり説明した。
言い終わる頃には、自分の発言の愚かさに気付き始める。詩織とは今まで一度だって会話をした事がない。初めての会話でベラベラと教師の陰口を話す相手をどう思うだろうか。少なくとも良い印象はないはずだ。
五分でやって来ると言っていた地下鉄の発車標に目を通す。未だ来る気配はない。
透がそんな事を考えていると、詩織の反応は意外なモノだった。
詩織は透を訝しく思わず、クスクスと笑い出したのだ――。
「笑い出した?」
彩子の問いに透は当時の映像を振り返る。あの時の心地良い空気を記憶していた肌が震えた。今日の気温では若干寒すぎる。
「ああ、笑ったんだ。まったく、当時の俺にはそんな反応。予想外だにしたてなかったよ」
カップの蓋を開けて、まだ微かな温もりが残っているキャラメルマキアートに口を付ける。上唇に触れるキャラメルソースは甘く優しい。
彩子は話の続きを目で訴えてきた。
透は軽く微笑みキャラメルマキアートのカップに蓋をしてテーブルに置く。
「さて、話の続きをしようか」
そう言って透は物語の続きを語り出した――。
「何か可笑しかった?」
笑った理由が分からず、透は詩織に尋ねる。彼女はそれを彼が怒っているのだと勘違いして、首を横に振った。
「ごめんなさい。馬鹿にした訳じゃないの。やっぱり周りはそう事考えてたんだなあって思ったら、何だか可笑しくなっちゃって」
「あそこまで露骨だったら誰でも分かる。きっと、俺以外にも嫌な思いをしている生徒はいると思う」
「そうね。今度、直接本人に言ってみようかな。いつにしようか」
唇に右手人差指を当てて、考え込む詩織。透は、自分とは違う白くて綺麗な彼女の手が見えて多少動揺した。
「止めた方がいい。分かっていると思うけど、そんな事をしてもメリットはない」
教師にそんな事をしたらどうなるか。まず予想は付く。
詩織にしたって、それが分からない程馬鹿じゃない。学年トップの成績なのだ。冗談で言ったに決まっている。そうは結論付けても、一応透は釘を刺した。
透の言葉を聞いた詩織は、実に飄々とした態度で答える。
「平気。湊君とは仲が良いの。貴方が心配してくれてる事は、まず起きない」
「湊君?」
詩織の口から発せられた、まるで教師をクラスメイトの男子のように君付けで話す彼女に透は違和感を隠し切れず、反射的にそう聞いた。彼に言われて、彼女は自分の失言を理解して、小さく口を丸くする。
「……今のは聞かなかった事にしておく」
「ありがとう、助かるわ」
嫌いな給食のおかずを無理して食べているような、閉塞感が透の中にあった。
その気持ちを飛ばしてくれる、絶妙のタイミングでトンネルの向こうから丸目のライトを光らせた地下鉄がやって来た。
ホームのスピーカーからアナウンスが流れる。
並んでいた前方の列に地下鉄のドアが開いて、透と詩織を含めた列は降りる乗客と交代で、乗車する。
人工的に室温が調整された電車内は、透の頬と耳に安らぎを与える。
透は今まで詩織と話していたのを誰かに見られていないか心配して、軽く見回する。運良く彼の知り合いはいなかった。
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