「第2章 遠い遠い紙の匂い」(3)

(3)

 透は、詩織よりも先に帰るべく、靴の履き替えだけを終えて、昇降口を出た。


昇降口を出ると、目の前には真っ暗なグラウンドがある。二ヶ月前ならココまで暗くはなかった。今の季節が秋と言う事を思い知らされる。


涼しい夜風が体を通り過ぎる。透の通っている高校はスポーツにはそこまで力を入れていない。私立宜しく、一応のグランドにはナイター設備はあるが、一つ残らず目を瞑っている。当然、外を走る生徒はいない。


 グラウンドの横を通り、透は裏門へと向かった。午後六時を過ぎると、安全上の理由から正門の鍵は施錠されてしまう。なので、それ以降に学校から出る生徒は、裏門を通って出て行く事になる。


 図書室組以外にも残っていた文化部の姿があった。彼らは通学カバンの他に管楽器が入るケースを肩から掛けている。そうか、吹奏楽部か。透は集団で歩く彼らを見てそう思った。他にもいくつかの文化部の生徒が歩いている。


 吐き出されるように校内中の生徒が、一斉に裏門へ向かって歩く。


 学校の裏門を出るとすぐに坂道になっている。透達は坂道を下り、バス停へと向かった。歩いて最寄り駅に向かうと四十分程経過する。この時間帯の通学には、殆どの生徒はバスを利用していた。特に今日のような時間帯になると、防犯上の理由も含めて、学校側が積極的にバスを薦めている。


 バス停までの道のりは体が覚えているので、透は特別意識して歩く必要はなく、自動で動かしておく。肝心の意識はノートの件で一杯だった。


 放課後に図書室に通い始めてから、二週間が経過しようとしていた。毎回、手抜きをした覚えはない。にも関わらず、一向に回復の気配はない。


 まるで、水中で手足を無造作に動かして溺れているような錯覚に襲われる。


もう既に、学校内で図書室は憂鬱な場所となり、放課後が近付くと、軽い頭痛が走り始める。


 周囲に何もかも話して、楽になれたらどれだけ救われるか。


 時折、そんな事を考えるようになる。だがそれはすぐに否定する。


こんな絵空事を誰に話すというのだ。理解などされない。


透はすぐに甘えた考えを振り払う。


「あっ」


 考えに耽っていたせいか、気付いたらバス停で足を止めていた透は、無意識の内に小さい声が出た。と言っても、誰かに聞かれるような声量じゃない。少し前のさようならの方が声は大きかった。


 バス停に一列で並ぶのは、全員ウチの学校の生徒。


 透は吹奏楽部の集団の最後尾に並ぶ。目を瞑りバスがやって来るのを待った。


ところがココで目を瞑ってしまった事は、失策だった。透は、バスがやって来た事に気付かず、絶妙なバランスで立ったまま、意識が落ちてしまったのだ。


「うわっ!」


 バス停にて二回目の声を出した時、一回目よりも遥かに大きく、周囲も何事かと振り返り透を見ていた。彼は、意識が落ちてしまっていた事、バスが来ていた事をすぐに把握して、よく倒れなかったと思った。


同時に、透は誰かに後ろから押される感覚がしたのを理解する。


 少なくとも目を瞑るまでは、自分が最後尾だったのは間違いない。誰が衝撃を加えたのか知りたくて、透は半覚醒気味のままで振り返る。


 すると、そこには白いイヤホンをした詩織の姿があった。


 詩織が真後ろに並んでいると分かった途端、透の意識は瞬間的に覚醒した。昇降口で別れてから、彼女を見ていない。バスに乗る可能性は、冷静に考えれば予想が付くが、意識を自動状態にしていた為、見落としていた。


 透を起こした詩織は、彼の驚いた顔を見ても反応はない。彼女は両耳に白いイヤホンを挿していた。新品の消しゴムのように白いコードは彼女のブレザーの胸ポケットに引っ掛かっている銀のMDウォークマンのコントローラーに繋がっていた。何の曲かまでは分からないが、メロディーが音漏れしている事から、彼女は自分の驚いた声が聞こえていなかったようだ。


 透と目が合った詩織は、右手をゆっくりと動かして、前を指差す。


 到着しているバスは、二人が乗るのを後方のドアを開けて待っている。既に二人以外の生徒は全員乗車していた。透は慌ててバスに乗り込む。


後ろに並んでいた詩織もそれに続く。最後に並んでいたのは彼女だったので、二人が乗るとプシュっと大きな音を立てて、バスのドアが横にスライドした。


 車内はてっきり生徒で満席かと思ったが、意外にも空席がいくつか存在したので、透と詩織はそれぞれ適当な席に腰を落とした。


 乗車前にもう乗っている生徒の注目を集めてしまった透は、恥ずかしさで耳が赤くなりながらも再び目を瞑った。


 ところが先程の体験からか、中々意識を落とせない。緊張から心臓の鼓動が速くなり、目を瞑って腕を組んでいるだけで、意識は覚醒している。 


 バスは最寄り駅に着くまでに何回かバス停で停車したのを、透は車内アナウンスと、ドアが開く度に乗車してくる外気で感じていた。


 そうやって、しばらく視界を暗くしていた透が次に目を開けたのは、最寄り駅のバスロータリーに到着する車内アナウンスを聞いてからだった。


 透は寝起きを装う為に、軽く瞬きしてからゆっくりと目を開けた。


 バスの前方のドアが開き、車内には外気が入り込んできた。乗客は列を作り、前方のドアに向かって少しずつ進んでいく。透も立ち上がり、その列に加わった。


 列の波に乗りつつ、ポケットから財布を取り出して、バスの乗車賃を用意した。


 自分の番までに乗車賃を用意出来た透は、そのまま両足を前に進め続ける。


 その時、視界の左端に映る単座席に座っている人物の背中が映った。


 その人物の後頭部、両端から垂れ下がっている白いコードを見て、透はその人物が詩織だと分かった。後頭部の向きから、彼女は眠っているだろう。


 詩織は前方の席に座っている。彼女の横には乗客による列が形成されており、今からその波に乗るのは難しいように思えた。そして、既に波に乗っている連中は誰一人として、彼女を起こそうとはしない。


 ただ接近の際、ちらりと横眼で詩織の姿を確認して、何もなかったかのようにまた前方を向く。全ての乗 客がバスから降りたら、運転手が起こすだろうと思っているのか、それとも単に興味がないのか。乗客達を見て、透はそう判断した。


 バスの窓から外の様子を窺う。既に後方のドアから乗り込むのをスタンバイしている次の乗客の列があった。これでは、運転手が一度席を離れて、詩織を起こすのは困難に違いない。案外、運転手自身も彼女の存在に気が付いていない可能性もある。


 先程、乗車する時に助けてもらった礼をしよう。


 そう決めた透は、波に乗ってゆっくりと前方に進む。そして、詩織に手が届くまで接近した時、前を向いたままで彼女の右肩を軽く二回叩いた。


 トントン。っと透の手の平と詩織の右肩が接触する。二回目の手が離れた時、彼女の肩が自ら動いた。どうやら目を覚ましたようだ。それが分かったので、何事も無かったかのように、乗車賃を払う。


いちいち振り返って起きたかどうかを確認する必要はない。少なくとも乗車時の借りを返せたら良いのだ。そう考えて、バスから降りる。


 体全体を外気に当てて、頭がクリアになる。財布から磁気定期券を出して地下鉄の改札を通った。左側のエスカレーターからホームへと降りる。


透が利用している路線は地下鉄だが、この駅は地上に出ているので、ホームに降りても雲の下が見える事は変わらない。


 ホームには学生達に加えて、スーツに身を包んだサラリーマン達の姿があった。皆、適当にベンチに座ったり、乗車口に並んでいたりしている。


 ホームの天井にに設置されている発車標には電車が来るまでの時間が、五分だとオレンジの文字で主張していた。五分程度なら、もう並んでいた方がいい。


 透はベンチに座らず、適当な列の最後尾に並ぶ。そして、バスでの失敗を懲りもせず、再び目を瞑ってしまった。


「ねぇ」


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