「第2章 遠い遠い紙の匂い」(2)

(2)

 狭い図書室の出入口。出て行く生徒の数が二桁を越すので、無理に出ようとすれば、あっと言う間に渋滞となり、列を成さねば通行出来なくなる。きっと、ドア付近に置いてある展示物やパンレットを少しでも減らせば、解決するだろうが、誰一人として進言する素振りは無かった。今日もブリキ人形達は綺麗に列を作って、図書室を出て行く。


 透も例に漏れず列に加わる。自分の後方は知っている顔の女子がだった。


 彼女の名前は、森野詩織。


 透と同学年であり、三つ隣のクラスの女子である。彼が放課後に図書室に通うようになって、一番衝撃だったのは、紛れもなく詩織の存在だった。


 詩織は学年トップの学力を誇っているからである。


 全教科満点を地でいく女子生徒。廊下に貼り出される定期テストの順位のトップには、もはや固定化されている彼女の名前がある。


 ちなみに全国模試では一桁の順位を保持しているらしく、授業料全額免除の特待生という待遇となっている。


 森野詩織の名前は、この学年なら一度は耳にした名前であった。


 その大多数は、こちら側が一方的に知っている生徒達だった。


透も例に漏れず、その一人である。


 ただ、前回までの定期テスト時代の透は、詩織など気にも留めていなかった。


 少しノートの活用範囲を広げれば、全教科満点なんて当たり前のように行えるからだ。事実、中学時代に実践した事がある。その結果、どういう目で見られるかも承知の上だ。


 だからこそ透は、自分が敢えてしない事をわざわざ行い、無駄な注目を集めている詩織に対して、手抜きを知らず損をしている。


そう認識していた。


 透は、詩織が毎日放課後の貴重な時間を、こんな場所で消費してまで、あの順位を維持する価値があるとは思えなかった。


 そんな詩織について、図書室に通い始めてから知った衝撃が二つある。


 まず、詩織はいつも一人で図書室に訪れていた事。


 月曜日から金曜日までの五日間。一人でココにいるのだ。その内、三日程は一時間で帰るので、最後までいる日は二日しかない。どういう法則に基づいて、そうなっているのかは、透には分からない。


放課後に図書室を使用する全体の比率は三年生が多い。いくらウチの高校がエスカレーター式で、大学に入学可能だと言っても、本当に無試験で大学生になれる程甘くはない。


 三年生の冬になると、これまでの高校生活を統括した試験が行われるのだ。


 そこでの成績次第では、大学に入学出来ない。


基本的に真面目に勉強していれば問題ないと、学年集会で言われた記憶がある。ただやはり、無条件で乗れると思っていたエスカレーターに切符があると知らされた生徒達の多くは、衝撃を覚えた事だろう。(因みに透はこの件もついこの間まで気にも留めていなかった)


三年生になると自身の学力に不安を覚えた者達が、図書室に自習に訪れる形となっている。彼らに混じって、透達の学年がおり、それより下の一年生は、まず来ない。来るとしたら、一回グループでの冷やかしで訪れる程度だ。


正直、一年生で真面目に来ているなら、転校を視野に入れるレベルである。


 だからこそ、透は当初、図書室を訪れる事に、既にガラス細工に等しいプライドが警鐘を鳴らしていた。それだけに、図書室で森野詩織の姿を見かけた際、とても大きな衝撃を受けたのだった。


 そしてもう一つ。一つ目に負けず劣らず、大きな衝撃があった。


 ブリキ人形達に混じって、列に並ぶ透と詩織。透が前で詩織が後ろ。


 詩織は他とは違う点があった。彼女だけは、湊のさようならに首だけではなく、さようならと言葉を加えて返すのである。


 誰も返答してこない中で唯一、さようならを返す詩織。


 そんな詩織に湊が嫌な顔をしない理由はない。それどころか、彼女の時だけ、湊のさようならトーンが明らかに違う。気持ちは分からないでもない。


 ただ、教師としてそれは正解なのか。


 透は湊のトーンの違うさようならを聞く度にそ疑問を感じていた。自分は声を出して返さない事を棚に上げて、湊に身勝手な平等を求めていたのだった


 だからその日、透が行動を起こしたのは、単に作業が順調じゃない苛立ちだけが理由ではない。


「さようなら。気を付けて帰ってください」


 自分の番になり、湊は透に向けてさようならと言ってくる。


 湊からしたら、透の返事より次に控えている詩織に言う事の方が大事だろう。


 既に視線の矛先は詩織に向かっている。透は心地良い緊張を感じていた。放課後になって今まで約二時間。誰とも会話していない唇が乾燥していたので、唇を噛んで喉に唾液を走らせた。


「さようなら」


 透の声は普段に比べたら多少声量が小さかった。それでも、腕を伸ばしたら確実に届く距離にいる湊に、声を確実に届ける力は充分にある。その証拠に、彼は面を食らった表情を見せた。その後、すぐに切り換えて笑顔になる。それはまさに、これまでの社会経験で何度もした大人の力だった。


 図書室内の空気は透が言ったさようならで一時的に浮上したものの、また着陸して通常時へとシフトしていく。透は言った事に強い達成感を得ていた。更に後ろに控えている詩織にはどういうトーンで話すのか、気になった。


 透は意図的に上履きに足を入れるスピードを遅らせて、聞き逃すまいと両耳に神経を集中していた。靴下と上履きが接触する音すら、煩わしく感じる中、いよいよ詩織の番が訪れる。彼は振り返らず、両耳だけで事の様子を窺う。


「さようなら。気を付けて帰ってください」


 湊の声を背中で聞いた瞬間、透は思わず息を飲んだ。


 いつも以上に声のトーンが違う。誰が聞いても明らかだ。この図書室に残っている生徒に匿名アンケートを実施すれば、全員の同意を得られる事だろう。


 振り返らない。透はそう決めたはずなのに、つい反射的に振り返ってしまった。


 ところが、その若さ故の行為は大きな収穫となった。少なくとも耳だけではそれは把握し切れなかっただろう。


 詩織は、湊に向かってさようならを返す事はせず、ただ頭をペコリと下げただけだったのだ。彼は先程よりも倍近い面を食らった表情を彼女に見せて、何かを伝えようと口がゆっくり開き始めていた。


しかし、それを詩織は知った事ではないと言いたげに、顔を背けて拒絶する。図書室内の空気も透の時より確実に浮上が大きい。だが、そんな事は全く気にしてない表情の彼女は、スリッパと上履きを履き替えると、図書室から出て行った。


 図書室から昇降口までのルートは、透も詩織も同じである。


 途中、トイレにでも行ってくれるか。または、教室に忘れ物でも取りに行ってくれたらと祈っていた透だったが、彼の祈りは叶う事はなく、彼女は真っ直ぐ昇降口へと足を動かしていた。


 昇降口では、クラス毎に区画整理された下駄箱兼ロッカーが並び、生徒達は四桁のダイヤル式暗証番号の施錠を開けて、中から外履きを取る。


 生徒によっては、学校指定の通学カバンに入れる教科書を取り出していた。教室内には個人ロッカーが設置されていないので、生徒の荷物はこの場所に集約されるのだ。


 透は家で記録作業する予定のノートは、図書室で使用した物と変更する気はなかったので、通学カバンは開かない。


一組から順にロッカーが一面に並んでいる。


けれど、流石に端から端まで揃えると、混雑は必死なので(今のように人数が少ない下校時は構わないが、登校時は相当混雑している)四組、五組は一つ奥の区画に設置されていた。


つまり、各学年二列となって、生徒用の下駄箱兼ロッカーが並んでいる。


 詩織は五組なので、透の場所より一つ奥の区画へと入って行った。感情のない鉄の下駄箱兼ロッカーを挟んで、彼女の動作音が聞こえてくる。通学カバンのジッパーを開ける音、中からバサバサと何かを取り出している音。彼女は自分と違って、ロッカーの物を持って帰るようだった。


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