「第2章 遠い遠い紙の匂い」

「第2章 遠い遠い紙の匂い」(1)

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 季節は秋の始め。


 鬱陶しい夏が終わり、涼しい風と遠くに見える山々が赤く色付き始めた頃。


 放課後の図書室に、高校二年生の内田透の姿があった。彼は図書室内にある半透明のパーティションで区切られた自習スペースで教科書とノートを広げて勉強をしている。だが、広げた教科書はペンの線引き後どころか、ページに捲り跡すらない美品であった。


 ノートは提出用に機械的に書いた物であり、透個人の意思は感じ取れない。本来、彼の意思を向けるべき ノートは、これではないのだ。


 内田透は一冊の特別なノートを持っている。


 それは、目の前にある紙のノートではなく、彼の頭の中に存在していた。


 そのノートは透だけの宝物。一度書いたら、自分で消すまではずっと残り続け、上手に使えばテストは敵ではない。


 このノートを発見したのは、中学に入ってからだった。


 もし、もっと早く手にしていたら、中学校は間違いなく、私立に通っていた事だろう。その無敵のノートに透は沢山の事を書いてきた。定期テストが近くなると、発表された範囲を全て書き写す。


 それだけで高得点を獲得獲得出来た。


 しかし、あまりに高得点を連発してしまうと、周りからカンニングを疑われてしまう。(もっとも実質的には、カンニグと同じ事をしているのであながち間違いではない)よって、ある時期から満点は取らず適度に間違える術を覚えて、目立たずけれども平均点よりは上に留まった。


そんなポジションを中学時代は常にキープしつつ、去年、S大学の付属高校へと進学したのだった。


 高校に入り範囲が膨大になったので、作業に手間を感じるようになった事と抜き打ちの小テストを除けば、学校生活において勉強は問題ではなかった。


 透はノートがある限り、勉学は一生安泰だと自負していた。


 ところが現在、今まで放課後に図書室で勉強という、人生で一度も経験のない、実に不慣れな作業を行っている。


 その理由は一つ。


 数日前から、ノートが消えてしまったからである。


 勉強=ノートに書き留めておく。そう認識していた透にとって、現状は耐え難い苦痛であった。毎夜、布団の中で発狂しそうな程の不安感に追われて、誰にも相談出来ず、一人で苦しんでいた。


 ノートが消えて分かったのは、これまでに書き留めた事のある内容は、一つも知識として何も染み込んでいない事である。


 用済みとなり、消してしまえば勿論。消さずに残していたとしても、効果は同様である。ノートは、ただの記録に過ぎない。


 記憶の彼方に飛ばしていたが、透は消したノートの内容が身になっていない事を過去に一度味わった経験がある。


昔、自分が消した内容が突発的な復習テストと称して出てきた事があり、両親にまで心配される程の点数を獲ってしまった事があった。


 それからは、ノートに書いた事をなるべく消さないでおく習慣を身に着けていた。年月が経つにつれて、その記憶が消えて習慣のみが残ったのである。その為、ノートに記載された内容は非常に膨大で、中学校時代まで遡る。


 それが今、空になってしまったのだ。外見は高校生男子だが、頭は小学校レベルの学力があるかないか。そこまで落ちてしまっている。


 よって現在、透が現在図書室に通っているのは、ノート復活に僅かな望みを賭けた復元作業として、紙媒体のノートを見て頭に刺激を与える為であった。


 今度の定期テストまで、あと一ヶ月と少し。ココ最近は、放課後になると図書室に通っているのだが、成果は一向に現れない。半透明のパーティションで区切られた周囲からは景気の良い書き音が聞こえてくる。


 閉室までの時間、一回もシャーペンを動かさない生徒は自分のみだろう。透はそんな事を考えていた。


 放課後の図書室は、これまで訪れた経験がない為、金曜日は利用者が少ない事、逆に月曜日が多い事等、知らなかったいくつかのルールを透は知った。


 利用メンバーも大体決まっており、誰が決めた訳でもないが、各々が毎日、同じ席に腰を下ろしている。


 図書室の一角にある自習スペースには、縦横合わせて、十六席が設けられており、全ての席に小さなスタンドライトが付いていた。


 透は一番左端の前から三番目を二週間通って指定席にしている。


 左を向くと図書室の無機質な白い壁。その壁を沿って、真っすぐ進むと、奥に小さなドアがあった。


 そのドアの先には大学図書館へと繋がる廊下があり、途中に出納準備室と言う部屋がある。


 付属高校と大学間で図書館資料のやり取りをする為に必要な部屋である。


 そう透は入学時のオリエンテーションで聞いたが、特段興味もなかったので、注目はしていない。たまに開いて図書委員が重そうな本を運んでいる。その程度の印象である。もっとも今の彼にはそこを通る彼らの足音に集中力を軽く阻害されてしまうので、あまり良い印象はない。(この問題があると知っていたら、ココを指定席には決してしなかった)


 午後七時半になると、最終下校のチャイムが鳴り響く。


 透の成果は今日もゼロだった。周りが勉強道具を学校指定のカバンに片づける中、彼は焦った様子で片付けている。


 このままでは洒落にならない。成績低下が原因で留年すらあり得る。少なくとも、再度この高校に入学出来る自信はない。


 どうにか打開策を考える必要がある。いっそ本当にカンニングでもしてしまいたい気分だが、リスクを考えるととても出来なかった。


 結果、他にまともな策も浮かばす、こうして図書室に通う日々を送っている。


 最終下校のチャイムが鳴ったので、図書室内の生徒は、全員速やかに退室しなければならない。


 出入口隣に設置された下駄箱から、各々が上履きとスリッパを履き替える。


 この時間になると、授業の疲れが顕著に生徒の表情に現れた。誰もが最低限の動きだけで、事を済まそうとする。まるで、決められた動作しか許されないブリキ人形のように、生徒達は連れ立って出入口へと向かう。


 そんなブリキの群れに、決まって声をかける人物がいた。


その人物の名前は、湊慧一郎。この学校の司書教諭である。文系だと言わんばかりの優男ぶりに、細い黒のフレームの眼鏡と細い黒髪の癖毛。


この時期になると、ワイシャツの上から灰色のカーディガンを羽織り、首からネームプレートをぶら下げている。


 この図書室の主とも言える湊は、一部女子生徒の人気を呼んでいた。その人気が図書委員会の男女比を表している。


 湊は見た目通りの性格と男性にしては高めの声を持つ。そして、決まって閉室時になると、出入口に立ち、ブリキ人形達一人一人に笑顔で「さようなら」っと告げていくのだ。


 ブリキ人形達には、その言葉に返す余力など残っていない。しかし、湊は教師であり、決して無視をする訳にはいかない。なので、精一杯の愛想として、ペコリと頭を下げるのだった。


 図書室を出て行く際、生徒にさよならと言い、言われた生徒は頭を下げて返す。


 その光景も透が図書室に通うようになって、知った事だった。きっと、彼がココに通い始める前から、このルールはあったに違いない。さよならと言い慣れている湊の口を見てそう感想を抱いた。


今日も変わらず、ブリキ人形と湊の一連の動作の応酬は行われる。


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