クリスタルホワイト・アイス
綾沢 深乃
「第1章 心の隙間から覗かせる過去」
「第1章 心の隙間から覗かせる過去」(1)
(1)
秋の紅葉が終わりを迎えて、冬の寒さが吐息に混じり始めた。
そんな、とある土曜日の夕方。
内田透と早川彩子は、梅田茶屋町のロフト地下一階にある、テアトル梅田で映画を鑑賞した。その後、梅田芸術劇場前にあるスターバックスコーヒーで映画の感想戦をしている。
透と彩子の関係は、大学時代の先輩後輩であり、互いに卒業して就職してからも、都合を付けて、たまに遊ぶ関係になっている。異性が二人だけで遊ぶ行為に決して、恋人感情が生まれないのは、大学時代から変わる事はない。
周囲に何度か関係を疑われた事はあったが、言いたい者には勝手に言わせておけばいいと、二人は特に気にしていなかった。
土曜日という事もあってか、店内は客で埋まっていた。
ノートパソコンを持ち込んで熱心にキーボードを叩く者。
耳にイヤホンをして、読書に励む者。
相手とひたすら話している者。
誰もが思い思いの事をして、店内での時間を過ごしている。全員に通ずる共通点は、テーブルにスターバックスのカップが置かれている事だ。
季節柄、店内は暖かい室温に設定されている。だが、外の寒さで体が冷えた客が注文して、テーブルに置かれている飲み物の殆どはホットであり、アイスは若干名しかなかった。
入口から見て、店内左側がドーナツのように丸みを帯びており、そこをガラス張りにして、外の景色が見えるようになっている。
その窓際にあるソファ席に透と彩子は席を沈めていた。話し始めてかれこれもう、一時間が経過しようとしていた。始めの方こそ、流暢に口が動き、声が出ていた。だがそれは、大体持って三十分。残り半分は、取るに足らない雑談が中心となって、長針を弄んでいた。
大学時代、授業が重なれば話していた時とは違って、今は社会人として、仕事をしている。平日にはまず会わないし、会ったとしても夜。それも金曜日の夜である。二人共、阪急線梅田駅を通る通勤定期券を持っているから、会う場所も必然的に大阪梅田が中心となった。夜に会う時は、大抵酒を飲んでいるが、今日は時間帯のせいもあって、コーヒーを飲んでいる。酒にはまだ二時間程足りない。
数日ぶりに会うという事は、世間話が始まるのが当然で、むしろ映画の話に三十分も保ったのは、褒めるべきだ。
彩子の職場の愚痴を聞きながら、透はカップの蓋を開けて、ホットのキャラメルマキアートに口を付ける。少々冷めてスチームミルクの背が低くなっていた。
話が盛り上がる中、彩子はふと思い出したように、「あっ」と声を出す。
「そう言えば私、この前久しぶりに母校の高校の文化祭に行ってきたんです」
「へえ。楽しかった?」
「はい。卒業してから一回も行かなかったから、凄い新鮮でした」
「意外だな。彩子は、何回も遊びに行ってるイメージがあったよ」
これ以上冷めないように、透はカップに蓋をした。
「うーん。卒業式の当日には、担任の先生にまたすぐ遊びに行きますって泣きながら言ったのは覚えてるんですけどねぇ」
「そっか。じゃあ久しぶりに行って結構変わってたんじゃないか?」
透の質問に彩子は笑顔でかぶりを振った。
「私も最初はそう思ってました。もう八年は前になるし、校舎もそんなに綺麗じゃなかったから、変わったんだろうなって変に緊張してました。けど、校舎は全然変わってなくて……。だからなんでしょうね、あの場所で過ごした三年間の空気や声、そういうものを思い出して、とても懐かしかったです」
「俺も卒業してから行ってないな。そろそろ、一回くらいは行ってみようか」
透は自身の高校生活を振り返った。遠い昔、毎日スーツではなく、ブレザーの袖に腕を通していた頃。あの頃は、先の事なんて考えもしなかった。余裕とは、違う。単純にそこまで想像を伸ばす事が出来なかった。彼が過去を思い出していると、その表情を見て彩子は微笑んだ。
「先輩も思い出しましたか?」
「ああ。懐かしいよ」
再びカップの蓋を開けて、キャラメルマキアートに口を付ける。
「先輩って高校時代はどんな子でしたか?」
「一言で言うと、捻くれてるガキ。これから卒業して大学に入って就職して……。みたいな先の事を何も考えていない。まさに子供だった」
「へぇ、意外ですね、先輩は将来設計とかちゃんとしてそうなのに」
「ま、十代なんてそんなもんだろ」
「もっと教えて下さいよ。私、先輩の過去話を聞いた事ないんですから」
「そっちが話し過ぎなだけ」
彩子に透は自分の高校生活を一切話した記憶がない。
いや、彩子だけではない。同性の友人にも話していない。たまに話を振られても、適当に流していた。
よって、高校時代以後の付き合いのある周囲は、一、二度尋ねて、透が話したくないのを察し、自然と話題を振らなくなっていく。透は、そういった優しさには気付いており、充分な感謝をしている。ただ、そこまでの感謝しつつも、透には話す気はない。
何故、そこまで話したがらないのか。
それにはきちんとした理由がある。
まず、楽しい話ではない。確信を持って言えるが、話す事でそれまでの空気を壊してしまう。ならば、口にせず心の金庫に封印しておいた方が良い。そう考えて、高校を卒業してからの透は毎日を過ごしていた。
「どうしても話してくれない気ですか?」
「前も言ったけど、あまり良い話じゃないんだ」
いつものように金庫をノックしてくる他人の言葉を、透は流してより施錠を強くする。何度も行っている心のプロテクトを一段階上げる作業だ。
「……どうしても?」
「ああ、どうしても」
彩子の追及にも透は決して、屈する事はない。彼が完全に話す気がないのが伝わると、彼女から小さなため息が出た。実は、彼女から高校時代を聞かれたのは、今日が初めてじゃない。大学時代にも数回聞かれている。その度に拒否してきた。
透が拒否した事で、二人の間に流れる空気は若干重量を増している。今日はそんな事になるのが目的ではない。
金庫の施錠具合を再び確かめる。二人の空気が重くなる事と引き換えにロックはより強固になっていく。透は小さく鼻からため息を漏らした。
話す事はない。そう決めてから十年弱の年月が経過している。
墓まで持って行くつもりで、生涯誰にも話す気など、毛頭なかった。それを決めたのは、十九歳の時。今はもう、あれから大分時間が経過している。
社会人として働いて、自分で金を稼ぎ、税金を納めている。
あの時とは明らかに立場が違う。
何も金庫の扉を全開にしなくても、緩めて隙間から覗かせる程度なら……。
そう結論付けた時、透の口が開いてゆっくりと言葉が漏れ出した。
「高校二年の二学期に、一つの事件があったんだ」
「事件?」
「そう、俺の人生を変えた重大事件」
話さないと言っていたのに、突然話し始めた透に目を丸くして驚く彩子。
透は彩子の質問にそう答えてから、瞬きをした。一瞬、暗くなる視界には、まるで映画のワンシーンのように一人の女子高生が浮かぶ。その顔はたとえ自分が老人になったとしても忘れる事はないだろう。
透は静かに、高校時代を語り始めた。
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