「第4章 森野詩織」(3)
(3)
そのせいで焦ってしまい、上手に返せないでいる間に、詩織は立ち上がり、イスを本来の位置へと戻した。そして、元々座っていた正面のイスに腰を落とす。
「さっきも言ったけど、私は透のノートを元に戻す方法を知っている」
「どんな方法だ?」
「そんなに難しい事じゃないわ。でもそれは、残念だけど今すぐには出来ない。最低限、三日はかかる」
難しくないと言いつつ、三日は必要。まるで、雲を掴むのような詩織の説明に透の頭には疑問符が浮かぶ。
そんな透の様子をすぐに察した詩織は、笑顔を見せた。
「そんな顔しないの。大丈夫、きっと上手くいくわ。ただ、今ココでは出来ない。三日は時間が必要というだけ。三日だけならテストには充分間に合う」
「まあ、そうだけど……」
微妙に納得のいかない透に詩織は優しく微笑んだ。
「今まで私が透に嘘をついた事なんてないでしょう? ねっ、私を信じて?」
「分かったよ、詩織を信じる」
渋々透がそう認めると、詩織は笑顔で一回頷く。
そして詩織は通学カバンから、MDプレーヤーを取り出した。それを透は良く見ていた。彼女は一人の時間はいつも両耳にイヤホンを挿している。
このタイミングで取り出したという事は、今日はもう帰るのだろうか。透がそう考えていると、詩織は予想を裏切り、こちらにMDプレーヤーを差し出した。
「私の使っているMDプレーヤー。透に貸してあげる」
「えっ? どうして?」
突然の詩織の行動に透は疑問を飛ばす。
「お守りよ。三日間、待っているだけなのも退屈でしょうから。中には私が一番好きな曲が入ってるの。それを聴くと、きっと透も元気になる」
「詩織が一番好きな曲?」
MDプレーヤーを受け取りつつ透が尋ねると、詩織は笑顔で頷く。
「『Queen』の『Killer Queen』」
「どんな感じの曲なんだ?」
「一言で表すなら、寂しがり屋の女性の曲」
「寂しがり屋の女性?」
「この曲をフレディは高級娼婦について作詞したと言っているけど、自由に解釈してもらって構わないとも言っているわ。だから、あくまで私の解釈。曲が進むにつれて、彼女の趣味嗜好がより詳しく描写されていき、聴いている人は彼女に恋をしていく。そして、最後に彼女が言った一言がたまらない。この曲は、僅か三分しかない短いものだけど、とてもそうとは感じないわ。聴き終わると、実は恋をしていたのは、自分だけじゃなく彼女もだって分かるのよ。だから、それを踏まえてもう一度聴くと、寂しがり屋の女性の曲になって聴こえる」
詩織がココまで熱弁を振って話すのを透は初めて聞いた。
そこまで言われると、この曲がどんな曲が気になってくる。
「ありがとう。大事に聴かせてもらうよ」
「今度、感想を聞かせてね。あっ、そうだ。それの充電器とか他のディスク、あと色々役に立つ物を纏めて、明日にでも透のロッカーに入れておくわ」
「でも、三日しか借りないんだから。沢山借りても聴ける時間はないぞ?」
いくら待機していると言っても、何もしない訳にはいない。最低限の勉強はするつもりである。
「大丈夫。全部役に立つ物だから。それで透のロッカーの暗証番号っていくつ?」
「えっと、1002」
「分かった、ちなみにこの数字は透の誕生日?」
詩織の質問に透は頷いて肯定する。
「そうだ。よく分かったな、この四文字の並びだと連想し辛いと思ったけど」
「だって、透のメールアドレスにもこの数字が入ってるもの」
「そう言えばそうだった。じゃあ、今回の定期テストが終わったら数字を変えるか。勿論、それまでは変えないから。好きにロッカーを開けてくれて構わない」
「了解。では、今日はココまでにしましょう。良い感じに話も纏まった事だし」
「いつもより時間経ってるけど、大丈夫か?」
時間は結局、いつもよりも三十分程過ぎてしまっていた。普段なら流石にこの時間には別れている。透が心配そうに尋ねるのと、詩織は手首を返して自身の腕時計を見た。一瞬だけ、彼女の瞳が不安げに揺れる。
だがすぐに笑顔で首を振った。
「うん、大丈夫。ウチはこの時間に帰っても誰もいないから」
「両親が働いてるのか?」
「そんな感じ。だから家に帰ったらいつも私が夕食を作るの」
詩織の料理。何でもそつこなす彼女の事だ。きっと美味しいのだろう。
そんな事を考えている透を見て、詩織は笑顔を見せる。
「私の料理、美味しいわよ。機会があったら一度食べてみる?」
「ああ、その時を楽しみにしてるよ」
そんな機会は、果たしていつ訪れるのか。
透は返事をしながらそんな事を考えていた――。
「ちょっとっ! すっごく良い感じじゃないですかぁ! 話す前はあんなに勿体ぶってた癖に!」
眉間にシワを寄せて不満をぶつける彩子。
彩子の訴えを透は苦笑して受け流す。
「大体、高校生なのに詩織ちゃんって凄いですね。精神年齢たかそー」
「実際高かった。仮に今の俺でも彼女に会ったら緊張すると思う」
「そんな精神年齢高い詩織ちゃんと放課後に会う約束をしていて、尚且つ手料理まで食べる約束をする。ああ、なんてリア充な先輩」
最後の方になるにつれて、呆れ顔になる彩子。ただ、透自身も彼女の主張はもっともだと思った。高校生の内田透は、間違いなく環境に恵まれている。
「それでそれで? 手料理まで食べる約束をした詩織ちゃんが言ったノートを元に戻す方法って何ですか? って言うか、今更ですけど頭の中のノートって超便利じゃないですか。やり方、私にも教えて下さいよ」
彩子のその言葉を聞いて、透の心臓は微かに怯える。
しかし、それは決して表には出さない。
何ともない顔を維持して、顔を横に振った。
「無理」
「えーっ! どうしてですか? 私みたいな馬鹿には覚えられないとでも?」
彩子の自虐混じりの訴え。それが透にはとても可愛く見えて、つい鼻息が出て、口元が緩んだ。
「違う、そうじゃない」
「じゃあどうしてです?」
頬を膨らませて、なお不満を口にする彩子に透は、先程とは毛色が違う息を鼻から出した。
「俺も知らないんだ。知らない事は教えようがないだろう?」
透のその言葉に彩子は目を見開いて驚く。しばらくの間、両者に沈黙が流れた後、彼女はおもむろに口を開いた。
「……それって、詩織ちゃんが教えてくれなかったって事ですか?」
「それどころか、俺が詩織と会って話をしたのは、その日が最後。あれから今日まで、一度も会っていない」
「一度も会ってない?」
「より正確に言うなら、もう会えない。さて、どうしてだと思う?」
透の質問に彩子は腕を組んで答えを探す。今まで話した内容を参考に最適な答えを導き出そうとする。
「転校しちゃった、とか?」
「わざわざテスト前に?」
「そっか。じゃあ違いますね。正解は何ですか? もう、焦らさないで教えてくださいよ」
「死んだんだ」
短く簡潔に透は真実を口にする。
彼の口から出た真実を聞いて、彩子の顔は一時停止した。そして、すぐに暗い表情を作り、彼に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はないさ。知らなかったんだから」
最初から透には彩子を責める気など毛頭ない。それどころか、久しぶりに話す機会を得て、感謝しているくらいである。
「それで詩織ちゃん。どうして……、交通事故とかですか?」
「違う」
交通事故ならどれだけ良いか。透は、心底そう思いながら否定した。
「自殺したんだ。俺と話してから三日後に。図書室にある出納準備室で」
詩織の死因を口にした時、透の鼻は熱くなっていた。いつかの時と同じように、彼の二つの瞳には水が湧き始めている。
喫茶店で話せる程、自分は成長したと考えていたが、実際はまだまだだった。
透はポケットからハンカチを取り出して、自身の瞳に押し当てる。
「ごめん、ちょっと待ってて……」
顔を下にして、涙を染み込ませる透。そんな彼に上から彩子のお穏やかな声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。いくらでも待ちますから。あっ、今度は私がトイレに行ってきますね」
そう言って、彩子は席を立って行った。下を向いていた透は、彼女が立ち上がった気配を感じてから、ゆっくりと顔を上げる。
店内を見回すと一人の男性客が丁度トイレへと入って行った。
どうやら彩子は外のトイレを使うようだ。透は彼女に感謝すると共に、再びカバンからイヤホンを取り出して、iPhoneへと繋ぐ。
一曲分くらい聴く時間はあるだろう。
ミュージックアプリから『Killer Queen』を選択して、再生する。
詩織が一番好きで、いつも聞いていた寂しがり屋の女性の曲。いつでもあの時代に戻してくれる音楽に耳を傾けながら、透は目を閉じて、視界を暗くした――。
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