第五章 帰還

 演劇ってのは虚構だ。登場する連中は全員、自分の役を演じてるだけなんだ。それなのに、その結末が気に入らないと、しんどい気持ちになるのはなんでだろうな? 演劇ってのは不思議だよ。そしてそれ以上にヤバいのは、なんとなく目の前で繰り広げられてたモノが実は演劇じゃなかったときのことだ。実はリアルで、それは現実だったんだ。それが望まない結末だったとき、人はどんなことを考えるんだ?


 暗い廊下を、オレは歩いていた。全身黒タイツという格好でだ。

 行く手に剛田一強が現れた。妹分のシユウ姐さんと弟分のマジローちゃんも連れている。武闘班でおなじみの五班だ。

「よぉ……」

「おう……」

 お互いに気まずい挨拶を交わす。

「なぁ、オレに借りを返したくないか? 今ならまだ間に合うんだよ。ほら」

 予備に持ってた全身黒タイツを剛田に差し出す。

「いや……」

 剛田は拒否った。片手で。

「……へっ。見損なったよ。お前はちゃんと借りを返せる男だと思ってたんだがな? しかもオレは命の恩人だぞ? そのオレが、頼んでるって、のによ……」

 咽喉に何かが詰まってる。

「すまない……」

「ほんと……お前終わってるわ。しょーもな」

「待ってよっ! アニキを責めないでっ!! アニキだって本当は借り返したいよ!! でも、だからって……ぐっ、そ、そんな……そんなカッコ、ヒヒ、で、できるわけ、アハッ、な、ないじゃ~ん!! アハハハハハハ!!! ごめん、もう無理っ!!!!」

 シユウ姐さん……。マジに、マジで許さねえからな……。

「そういうことだ」

 オレの視線を避けるようにして剛田が言った。その肩は震え始めてる。とんだクソ野郎だよ!!

 オレは二人に見切りをつけ、二人の後ろに立つ打撃ファイターの男に声をかける。

「おい、マジローちゃん! お前は違うよな? こんな恩知らず共とは違う。お前のアニキを治療したのはオレだ。返したいよな。借り、返したいよな?」

「いや……」

 マジローちゃんはオレの差し出した全身黒タイツをちらっと見て、目を伏せた。

「無理だ」

「無理ってことはねえだろうよ? な? 頑張ってくれ」

「……」

 マジローちゃんはうつむいたまま動かない。オレの差し出した全身黒タイツは誰の手にも渡らない。

「それじゃ、頑張れよ……クク……」

 剛田たちは去った。その背中にオレはぶちまけてやった。

「この恩知らず野郎ども!! この……この、恩知らず野郎どもがあああああああ!!!!」


 そして悲劇は幕を開けた。

 時は秋も深まる木枯らしの日。場所は会別市中央守護警察署二階の大会議室。そこには手作り感満載の舞台が設えられていた。

 オレは全身黒タイツという出で立ちで登壇し、大勢の幼稚園児どもの目に、自分のこのみじめな姿をさらした。床に体育座りした幼稚園児どもは、あっけにとられてオレを見た。オレの第一声は台本によって決められている。美雨の書いた、ろくでもない台本によって。

「オレは影人だぁ!」

 一発目からこれだよ。イカレてる。幼稚園児どもの遠慮会釈ない笑い声が轟いた。「うそつけ」とか「バーカ」とか、いかにもガキらしい罵倒も混ざってる。なんなんだよ。

「今日も悪いことをしてやるぅ!」

 あ~、死にたい……。

「さあて、今日はどんな悪いことをしてやろうかなぁ!?」

 影人は人を殺す。人を殺すために生まれてきた。つまり、殺人一択だ。

「オレの餌食になるヤツはどこだぁ!?」

 などと言いつつ、オレは舞台を降り、幼稚園児どもを物色する。連中の笑い声はさらに大きくなるし、甲高い声も混じる。そして誰もオレを怖れちゃいない。オレのすねを蹴ってくるヤツもいる。ちきしょう。全身に治癒光を充満させてやる。痛くねえ。痛くねえぞコラ。

「そこまでだっ!」

 美雨の声が会議室に響き渡る。そして舞台に上がる美雨。莉奈も一緒だ。

「な、なにものだ~!?」

 台本にあるから言うが、でも思い出せ。オレたち、影人と会話成立したこととかなかっただろ! というか、そもそも影人って話さないだろ! 要するにこの話にはリアリティがない。でも、客は喜んでる。ショービズの世界なんてこんなもんだ。客に受ければ何でもいんだよ。

「わたしたちは守護官です! あなたを討伐します!」

 莉奈がいつものセリフを言う。若干、照れてる。

「世界の平和はボクたちが守るんだ!」

 一方の美雨は堂々としている。堂々としすぎている。恥ずかしいという感情が欠落しているみたいだ。

「「装着ッ!!」」

 二人が掛け声を合わせ、ブレスレットを胸の前に持ってくる。光が二人を包んだ。そして強化スーツに身を包んだ二人が現れる。ほんとに装着しやがった。

「影人、覚悟ッ!」

 美雨と莉奈はラボ特製の操光兵器のおもちゃを構えている。美雨は大剣、莉奈は剣と盾。いつものやつだ。おもちゃとはいえ、さすがに客のいる中でぶん回すのは怖がらせてしまうかもしれない。なので台本上、ここでオレは舞台に戻ることになってる。

「ぐへへ。お前らなんか、すぐにやっつけてやる~。げへへ~」

 黒タイツ姿で疾走するオレ。もし……もし親父が今のオレの姿を見たら、どう思うだろうな……? 親父、違うんだ。これは違うんだよ親父ィッ……!!

「いくぞ影人ッ!」

「かかってこい守護官め~」

 ここからは殺陣パートだ。

「ぐえ~!! ぐは~!!」

 守護官がピンチなところを見せるのは教育上良くない、という意味不明な方針のもと、ひたすらオレがズタズタにされてくだけな感じだ。脚本家は何を考えてるんだ。こんなんで盛り上がるのかよ……。いや、盛り上がってた。幼稚園児なんて単純なんだ。

「とどめだぁっ!」

 美雨が最後の最後においしいところを持っていく。

「ぐえええええ~~~~」

 ばったり倒れる。時代劇の切られ役もできそうな、そのくらいの名演だ。これで任務完了だ。裏方がオレの足を引っ張って、舞台袖に引っ込ませる。ちょっと鼻がこすれた。悲しい。

 舞台からは美雨の声が聞こえてくる。

「ねえ、みんな!! ボクたち、とっても頑張ってます! いつの日か影人との戦いに勝つ日が来るって信じてます! だからみんなも明るい未来を信じてね! だいじょうぶ! その日はきっとやってくるんだよ!!」

 美雨は全く悪くない。悪くないが、無責任なことを言ってる。影人による死者数は守護官制度が整備された後も増加し続けている。美雨の言ったことはある意味、嘘だ。ただ責めることもできねえ。毎日、影人狩りやってるオレたちは、いろいろポジティブに考えるしかねえもんな。

「は~い。ここで質問コーナーだよ~。守護官のお姉さんたちに質問のある人~」

 だるそうなノリで司会やってるのは千景姐さんだ。なんでだよ!? なんでみんな命の恩人を裏切るんだよ!?

「はいはい! 彼氏はいますか!?」

 最近の幼稚園すげえな。ついでにピンクスーツ着てる綺麗な方はオレの姉ちゃん(予定)なんだが?

「えっと、ボクはいない、かな~」

 美雨、そんなことはわかってる。

「わたしもいないです」

 莉奈のカレピになりてーヤツ、マジにまずオレの面接受けさすから……!!

「はいはい! さっきの人は何ですか!?」

 何ですか、ってなんだよ!?

「さっきの黒タイツの人~?」

 美雨、邪悪な笑顔だ。

「あの人はね~守護官のお兄さんだよ~! 影人の役、かっこよかったよね~?」

「え~、なんかキモかった」

 やめろ~。ハハッ、おかしいな。黒タイツ補正がでかすぎたかな? オレもたぶんイケメンの端くれなはずなんだけどな。

 舞台袖の幕のあいだから、客席を見回す。なんて連中だ。目がキラキラと輝いてやがる。幼稚園の年長組とか言ってるから、まだ五歳とか六歳だ。始まったばかりの人生が楽しい。そういう時期の連中なんだ。

 一人の女の子が手を挙げた。当てられて立ち上がる。

「……」

「なにかな?」

「ならないといけないんですか?」

「えっ?」

「しゅごかんにならないといけないんですか!?」

 こいつも五歳か六歳のはずだ。でも、その思いつめた顔は大人びてる。なんかヘンなことが始まった。場の空気も少し変わった気がする。司会の千景姐さんも戸惑ったようだ。でも、女の子も黙りこくって美雨と莉奈の方を見ている。莉奈は質問の趣旨を理解したようだ。

「守護官になりたくないの?」

「……」

 女の子がうなずく。

「他になりたいものがあるのかな?」

「……」

 やっぱり女の子はうなずいた。

「そっか……」

 莉奈は考え込んだ。言葉を選んで説明しようとしているようだ。でもそんな必要があるのか? ここはオレの出番だ。

「それはオレが説明しよう」

 ズカズカと舞台の真ん中に出る。全身黒タイツのままで。わあっと園児どもの歓声が上がった。

「おい、オレが現実を教えてやる」

 今は影人キャラだから、汚れ役もやりやすい。

「守護官になりたくないだと? なに言ってんだ。そりゃ、検査に引っかからなきゃいい。でもよ、検査に引っかかったら、ならないといけない。それが現実だ。オレだって守護官になった。お前ら、丘の上にある闇堂総合病院って知ってるか? あのデカい病院だ。あれな、闇堂あんどう一智かずともっていう偉いお医者さんが作った病院だよ。そしてオレは闇堂一磨。その息子だ。オレも親父の跡を継ぐために医者目指して頑張ってたんだ。模試を受けりゃ東大医学部もA判定で、東大の方から飛び級してウチの教授になってくれませんか、って言われたこともあるぐらいだ。でもな、そんなオレでも操光術の適性検査に引っかかって、今は守護官をやってる。医者になるためにやってきた勉強はすべて無駄になった。でも、ぐちぐち言ったりしてないぞ。しょうがねえから人類の未来、守ってやってる。どうだ? そういうことなんだ。それが現実だ。わかったか?」

「ふ……」

 ふ?

「ふえええええええええええ!!」

 女の子、泣き出す。オレ、完全に悪者。そういう流れ。おい、なんだよ。オレは本当のことを言っただけだ。ちょっと盛った部分もあるけど、でも本当のことだぞ?


 それから三十分後。オレは署長室にいた。

 権藤彦九郎、略してゴンちゃんは難しい顔して腕組みしている。ただでさえ太ってるのに、自分で自分の体を締め付けるように腕組みしてるから、ひたすら息苦しそうだ。一方オレは、来客用のソファにふんぞり返って座っている。

「おい」

「……」

「おい、ゴンちゃんよ」

 ゴンが腕組みを解いてオレを見る。

「オレは本当のことを言っただけだ。説教される筋合いはないぞ」

「たしかに。学校の成績に関する部分以外は、その通りだ」

 こいつら……オレの成績表まで入手してたのかよ。

「だが……幼稚園の方から抗議があった。それに、今日のイベントは我々の方から提案して実現したものだ。だからこそ、こちらの配慮を欠いた発言に対しては、厳正な姿勢で臨まないといかんのだ」

「なるほどね。クビ、ってことか。わかった、残念だけど仕方ねえ。あ~、オレは頑張りたかったのになぁ! 必要とされてねえなら仕方ねえよな? じゃ、今までありがとう、楽しかった」

「我々も苦慮している」

「人の話、聞けよ」

「我々も苦しいんだよ一磨君」

 この守護官制度は、始まった当初は、未成年を戦線に投入するってのはどうなんだ、という意見もあったが、結局、出来る人間がやるしかないという考え方のもと、今日まで続いている。そういうことが言いたいのか?

「あす一日、君を謹慎処分にする」

「謹慎?」

 耳慣れない単語だ。学校じゃ聞いたことない。停学みたいなもんか?

「まあ、『休日になった』くらいに考えてくれたらいい。立場上、形だけでも処分する必要があるんだ」

「へえ」

 話の分かる男だ。ゴンちゃんはいいやつだ。最高だね。

「わかった。ゴンちゃんの顔立てるわ。明日は謹慎な」

「ああ、ありがとう」

「じゃな。今日はもう帰るわ。乙ぅ~」

 謹慎処分最高じゃん!

「待ってくれ一磨君」

「なんだ?」

 オレが立ち上がる前に、ゴンちゃんが立ち上がっていた。真面目腐った顔でオレに言う。

「一磨君。君は私に『必ず任官する』、そう言った。その気持ちは今も変わってないだろうね」

「もちろん。男に二言はねえ。ただし」

「ただし?」

「ちょっとゴンちゃんの方から誠意みせてほしいかな? 幼稚園児がちらっと泣いたくらいでオタつきやがってよぉ。なに、ほんのちょっとしたものでいいんだ」

「……金か?」

「カネなんていらねえ。そうだな……」

 ふと、棚に飾られた生け花が目に入った。

「とりあえず、ゴンちゃんのケツの穴で生け花さしてくれ」

「わかった」

「なんちゃって! ほんのジョークだ。試して悪かったな」

 署長用のでかいデスクの向こうから回ってきて、ゴンちゃんはオレの前に立った。すでにズボンも下着も床に置き去りにされている。もうひとりのゴンちゃんがオレの目の前に来た。あ、あら~、ど~も~……。くるりと後ろを向き、しゃがみ込むと、ゴンちゃんはケツを高々と突き上げた。この間、約五秒。でもオレの体感では一秒にも満たない、そういう圧縮された時間の中で行われていた。

「これでいいか? さあ、早く花を生けてくれ」

 正直、オレは大人の世界を舐めてた。ゴンちゃんにとってケツ穴を見せるなんて日常茶飯事なんだ。このスムーズなムーブ、いったい今までどんな修羅場をくぐってきたんだよ!? 今、オレの目の前に一人の男のケツ穴がある。ほんのジョーク、その対価は高くついた。高くつきすぎた。

「どうしたんだ、はやく!」

「マジか……」

「はやく花を生けるんだ!!」

 終わった、何もかも……。

「ゴンちゃん……。二度とオレに任官するかどうかなんて聞かなくていい。オレは任官し、そしてオレの一生を守護官という職業に捧げるだろう……」

「ありがとうッ!!」

 ゴンちゃんはそのまま土下座に移行した。さらに見やすくなるケツ穴。

「本当にありがとうッ!!」

 ケツの穴がしゃべってる。オレはそんな錯覚に捉えられていた。

 肥満したジイさんが必死の思いでみせたケツの穴が、オレの人生のルートを固定しちまった。どうなってんだ。なんなんだよ、これ。


 人生って、マジになんなんだろうな? げっそりしつつ、莉奈と美雨の待つ食堂へとやってきた。

「……どしたの一磨? なんか疲れてない?」

「いや、ちょっと濃いモノを見ちまってさ。つーか、そっちはどうだった?」

「うん、大丈夫! ボクたちが『キミが大人になるまでに、ぜったい影人を退治する』って約束したんだ。そしたら安心して笑ってくれたよ!」

 そんな安請け合いして大丈夫か? そう聞きたい気がした。でも、なんとなくそれはオレが口にすべきセリフじゃない気もする。

「そーかよ」

「で、一磨は? めちゃくちゃ怒られたでしょ?」

「なに言ってんだ。『ありがとう一磨君、本当のことを言ってくれて』とかなんとか。マジ感謝されたし。しかも明日、休みにしてくれるってさ。……おい莉奈、マジだぞ」

 タブレットでオレへの処分を確認しようとする莉奈。

「……一磨くん、『謹慎処分』ってなってるけど?」

「ある意味休暇だって。ゴンもそう言ってたし。あと『我々も苦しい』とか言ってたぞ。アイツもいろいろ板挟みになって大変そうだよな。ま、今日のところは勘弁してやろうぜ」

「もぉ、一磨ってほんとテキトーだよね」

「それがオレだよ。つかよ、今日はもう撤収しねえ?」

「一磨くん。その前にやることがあるでしょう?」

「あ? それってなんだよ?」


 帰りの車にて。オレは死ぬほどげっそりしていた。あれからオレが迷惑をかけたらしい部署を回って、「すいませんしたー」を言わされまくった。莉奈もこうなると厳しいんだよな。やっぱ社会って怖えよ。

「あ~づかれだ~」

 運転してる莉奈がバックミラー越しにオレを見た。

「お疲れさま」

「申し訳ない。明日はガチに休暇、楽しましてもらいます」

「一磨くん」

「いや、心はちゃんと謹慎するよ? でも体までそれに拘束される必要はないって話。このクラウドとビッグデータの時代に、肉体の現在地を座標付きで知ることにどんな意味があるんだよ?」

 適当にフカす。

「ねえ、莉奈さん。ボク、寄り道して帰りたい気分。甘いもの食べたいな」

 美雨、たまにはいいこというじゃん。

「う~ん、でもわたしたち、今、守護官の制服を着てるでしょう? このまま買い食いしたら、たぶん……」

「そっか。クレームきちゃうよね」

 クレーム来るのか。そんなことで。

「でもよ、オレらが守ってやってるわけだろ? フツーそんな恩知らずな真似すっかな? そのクレーム付けたヤツさぁ、影人じゃね?」

 オレのブラックジョークも冴えわたる。でも、なんかスベった感じになる。

「一磨、影人はしゃべらないよ」

「でも、美雨の台本じゃ、しゃべってたじゃねえか」

「あれは……そういう演出なの!」

「へ、そうかよ」

 沈黙。なんとなく寄り道なしない方向に決まったようだ。あーあ、か。

「ふう」

 隣からため息が聞こえる。美雨がため息的なことをする。明日は雨か?

「……どうしたんだよ?」

「……うん。ボク、守護官になる前は何になりたかったのかな、って思ってさ」

「あ?」

 どうやらあの女の子の言ったことが引っ掛かってるようだ。そういえば千景姐さんも似たようなことを言ってた気がするな。

「いや美雨、お前さぁ、『世界の平和はボクたちが守る』とか言っちゃってたじゃん。生まれた瞬間から守護官になりたかったんじゃねえの?」

「もぉ、違うよ。一磨、いじわるすぎ」

「……つーか美雨。お前、大丈夫か?」

「……? なにが?」

「いや、お前……泣いてるぞ?」

「え……?」

 美雨が自分の頬を撫でる。そして濡れた自分の指先を見た。

「……ほんとだ。どーしたんだろ? やだなぁ。ボク、ヘンだね……」

 なんも言えねえ。どうなってんだ? バックミラー越しに莉奈を見るが、黙って運転してる。え? なになに? なんなのこの空気? オレどうすりゃいいの? 唯一の救いは車が道路を転がってるってことだ。はやく。はやくウチに着いてくれ。あのお方に……あのお方に相談しなけりゃぁ……。


 うちに帰ってきた。でもオレは家に入らずに庭へ。深太先生のケータイを取り出して『2』を押す。かなり長いことコールされた。たぶんケイトリンズカフェに出てるんだな。

「もしもし」

「よぉスチーブ。お前が忙しいのは分かってる。でもオレに一分くれ」

「いいよ。なに?」

「一人の女がいる。そいつはウチのおふくろとは別方向に振り切ってるクレイジーだ。元気すぎてイカレてる。つまり美雨だ。でもそいつが、なんでもない場面で泣きやがった。しかも本人は自分が泣いてることに気付いてなかった。これは一体どういう心理状況だ?」

「それはたぶん、ストレスがたまって弱ってるんだよ」

「あ? マジ言ってんのかスチーブ? オレに言わせりゃ、ヤツはストレスとは無縁のクレイジーガールやぞ?」

 強いて言えば、影人の腹パンくらって、ぶっ倒れてたくらいしかないよな? 他になんかあった?

「そんなこと関係ないよ。自覚のないうちに消耗しちゃってたんだね。美雨ちゃんは元気いっぱいで天真爛漫に見えるだろうけど、根のところはとても繊細なひとだよ。カズちん、気付いてあげなきゃ。カズちん、ちゃんと気遣ってあげなきゃ」

「マジか……」

「マジだよ。カズちんの節穴にどう見えてたのか知らないけどさ」

「お、おいスチーブ。どうしたんだ、今日はヤケに辛辣だな!?」

 いや、そんなことより解決策だ。

「で? 具体的にはどうすりゃいい!?」

「え? 必要?」

「当たり前だろーが! 具体例が無きゃオレは動けねーぞ。たのむスチーブ! 虫ケラ未満の愚かなオレを導いてくれ!!」

「そうだね……。美雨ちゃんって最近、何かしたいとか言ってたこと、ない?」

「そうだな……。今日の帰り道、寄り道したがってたな。甘いもの喰いたいとか言ってた」

「それじゃ、今度のお休みにお出かけしてみたら? 美雨ちゃんのホームにさ。なんだかんだで一磨の家はアウェイだからね」

「美雨のホーム? ヤツの実家にお邪魔してみる。そういうことだな!?」

「……ま、そういうことかな」

「さんきゅスチーブ。さすがだよ。その調子で女を落としてくれ!!」

「ウチ、男子校だからねえ……」

 電話を切った。一分。さすがスチーブだ。美雨の実家にお出かけ。簡単な話だな。しかもちょうど明日が休みだ。さすがオレ。この展開まで予測した上での謹慎処分だ。

「ふい~」

 一息ついて庭を眺める。ついこないだまで荒れ果ててたけど、最近、おふくろがまた庭師を入れて、今はきれいに整備されている。庭の隅には桜の木がある。姉貴が幼稚園に上がるとき、親父が景気づけに植えたヤツだ。今は枝ばかりだが、春になれば花を咲かせるんだろう。なるほどね。マジでなるほどって感じだ。オレにどうすることもできなかったことを、莉奈と美雨はやっちまったんだ。

「一磨くん」

「莉奈」

「どうしたの? おうち入らないの?」

「これから入るとこだ。つーか、今まで『人間関係の天才』って呼ばれてるヤツに電話しててさ。そいつによれば美雨の実家にピクニックに行くのがいいらしいぞ。明日はちょうど休みだし、行こうぜ」

「くす……」

「ど、どーした?」

「スチーブくんね? わたしもね、そう言おうと思ってたの」

「マジか」

 人間関係に精通してる連中の見解が一致しやがった。

「……ありがとう」

「あ?」

「一磨くんって優しいね」

「いや、それはスチーブ、だろ?」

「ううん、わたしは……一磨くんも、とっても優しい人だと思う」

 男が「優しい」なんか言われたらお終いだよ。エロに話が進まなくなる。そしてオレは言われた。オレは終わった。でも、まあいい。莉奈は姉ちゃんだからな。

「まぁ……オレは医者志望だからよ」

「そっか……」

 さりげなく莉奈の顔を見たとき、どことなく苦しそうな表情をしていた。

「……わたしたちのこと、恨んでる?」

「なんでだ?」

「東大病院のこととか。やっぱり、ほんとは行きたかったよね……?」

「気にすんな。オレも男だ。いつまでもジメジメしてらんねーよ」

 さっぱりした感じを出してみるが、本音は別にある。いずれこの家の家主になる可能性がめちゃくちゃ高い莉奈。今からでも媚を売っとく。そういうことだ。

「それによ、そんな気を遣う必要はないだろ。オレたちは同じ境遇にいる。しかも莉奈だったら、オレ以上にもっとふさわしい何かがあったはずだろ?」

「どう、かな? わかんない……」

 風が吹いて、庭木の葉が揺れた。空に薄く雲がかかった、白っぽい夕方。いい雰囲気だけど、エロトークする感じじゃねえ……。

「一磨くん、戻ろ?」

「お? おうよ……」


 朝、オレはいつもの背広スーツスタイルで、さっそうとリビングに登場した。

「あれっ、一磨、どーして背広なんて着てるの? 今日はボクの家に行くんでしょ?」

「だからだよ。今日はびしっと美雨のご両親にご挨拶するからな」

「えっ」

「きっちり正座してよ、『息子さんにはお世話になってます』ってな」

「……一磨? ボク、女の子だよ? 見る?」

「何をだ? 見ないぞ。それによ、食費についても言っとかないとな。『実は……美雨さんが来てから食費が三倍になって……ちらっ、ちらっ』みたいな」

「ボク、そんなに食べないじゃん」

 自覚がないってどうなんだ。

「あ~もぉ、せっかくちょっとドキッとしてあげたのにぃ……」

 え? そんな要素あった? まったく普段通りに見える美雨。これで消耗してる? フツーわかんねえよ。どうなんだそこらへん。

「いってらっしゃ~い!」

 おふくろに見送られて、オレたちは美雨の実家に向けて出発した。


 美雨の実家があるのは、会別市から南へ五十キロほど行ったところにある丸太市。田舎県の県庁所在地としてそこそこやってる会別市を、さらにこじんまりさせたようなまちだ。

 莉奈の運転する車が、高速道路に乗っかる。

「そういや聞いてなかったけど、青山家の家族構成ってどーなってんだよ?」

「お父さんとお母さん、それにボクと弟! 四人家族だよ」

「なるほどねえ。つーか今日、世間様は平日なんだよなぁ。ちょうど週末に合わせて謹慎くらうべきだったよな」

「もぉ、一磨ってば不真面目だよぉ」

「なに言ってんだ。美雨に家族水入らずの時間を過ごして頂きたかったっていう、オレの思いやりじゃねえか」

「うっそだぁ。ほんとかなぁ? 一磨、いっつもテキトーだし!」

 よくわかってんじゃねえか。

 窓の外を眺める。追い越し車線のロードスターが、オレたちの脇をすり抜けていく。いいな~。オレもいい車に乗りたいな~。ヘネシーのヴェノムGT欲しいな~。でも、そのためにはやっぱカネがいるよな~。カネのついでに権力も欲しいな~。権力といえば……そうだ、深太先生。ずいぶんお父様からの情報をオレに渡してくれたよな。防衛族の期待の若手か。いずれ防衛大臣とかになるんかな? つーか、国会議員ってどうなんやろ?

「なぁ、ちょっと思ったんだけどさぁ。オレが国会議員に立候補したらどーよ?」

「え~? なにそれ?」

「治癒光があれば、選挙とかめっちゃ有利じゃない? 常にバラまいてれば聴衆とかも寄ってくるやろうし、病院でパフォやって、それ生中継すれば支持率爆上がりやん」

「……ねえ、一磨。選挙は二十五歳にならないと出られないよ」

「は? そーなの?」

「そーなのっ! もぉ、一磨ってばお馬鹿さんだよね。ほんとに医学部志望なの?」

「あ~、オレさ、医学部で必要ない知識は、基本、捨ててたからね。なんつーの? やっぱ人を癒すみたいなレベル高いこと考えてると、そーゆー世俗のこととかどうでもよくなっちゃう感じなんだよね」

「……お医者さんだって、一般教養は持ってないといけないんじゃない?」

「いや、そんなことねーだろ……」

「そんなこと、あるよ~☆」

 勝ち誇った顔しやがって。美雨のくせに……美雨のくせにィィィ!!


 美雨の家に着いた。わりとボロい見た目の純和風の一軒家だ。庭の花壇に花々が咲きそろって賑やか。花の名前とか知らんけど、秋には秋の花が咲く。なかなか風情のある家だ。

 がらがらと引き戸が開いて、一人の少年が顔をのぞかせた。まだ小学四年生くらいの少年だ。じっとこっちを見ている。

「晴人! あんた学校どーしたの!?」

「……休んだ」

 なんかもう一目見て分かっちまったんだが。こいつはオレと同じ業を背負ってる。要するにシスコンだ。姉がこんなクレイジーガールだろうと、とことん慕うしかない。分かるよ、そういうもんなんだよな。

「……そっか! ただいま!」

 美雨は晴人くんの頭を雑に撫でた。晴人くんはノーガード。こういう雑な扱いの中にこそ、優しさのかけらを探しちまう。シスコンってのはそういうもんだ。そうだよな同志?

「お母さん! ただいまあ!」

 ズカズカと奥に通りながら、美雨が声を張り上げる。

「莉奈さんと一磨くんも連れてきたよぉ!」

 台所と思われる方向から、いい匂いがしてくる。やったぜ、昼メシが食える!

「おかえり、美雨」

 オレは驚いた。台所にいたのは、おしとやかな雰囲気を持つ女だった。この人が美雨の母親だと? ありえねえ。いやいや、どうやら美雨は父親似のようだ。そうに違いない。

「莉奈ちゃんもいらっしゃい。それから……」

「ども、闇堂一磨っス。美雨さんにはお世話になってまぁす」

 とりあえず無難な挨拶をしておく。

「美雨の母です」

 口元には微笑があるけど、目に疲れがあって、けだるげな感じだ。要するにお疲れモードだ。どうしたんだろうな?


 さっそくオレたちは、ちょっと早い昼メシをごちそうになった。

 カレーなんて久しぶりだ。オレの大好物だ。でも、姉貴がなんか苦手にしてたから、ウチに食卓にのぼることはほとんどなかった幻の一品だ。

 ところで食卓には、カチャカチャという食器とスプーンの触れ合う音しかない。とにかく誰もしゃべらない。美雨のお母さまはお疲れモードだし、晴人くんは人見知りっぽいし。でも美雨も莉奈も全く気にしてない。すっかりくつろいでいる。つまり、これが青山家のノリなわけだ。だったらオレも食うのに専念しよう。おかわりはあるんだろな、おい。

 晴人くんが食い終わって、居間でゲームを始めた。オレたちも食い終わる。

「ボクのお部屋に行こうよ!」

 美雨が言う。晴人くんはゲーム画面から目を離さない。でも、全神経をこっちに集中させてる。オレにはそれが分かった。上下するだけのカーソル。たしかに晴人くんはシスコンだ。オレの同志だ。


 美雨の部屋は二階にあった。オレは何のこだわりもなく、その領域に足を踏み入れた。なぜなら美雨の部屋だからだ。自分の中に「女の子の部屋に入るなんて緊張する~ドキドキ」なノリが生まれることを、誰よりオレが絶対に許さん。

「うーん!」

 美雨が大きく伸びをする。そしてベッドにダイブ。

「莉奈さん、ちょっとお昼寝しようよ」

「うん、そうね」

 莉奈も、美雨の隣に横になる。

「さあて、オレもお昼寝するか」

 ベッドの上に乗っかりたいが、スペースがない。

「なあ、ちょっとずれてくんない?」

 莉奈の背中ごしに美雨が悪い笑いをのぞかせた。

「やだよ」

「いや、オレも同じ七班の仲間じゃん? そこらへんどーよ?」

「一磨はだめだよ。へんたい。ふふふっ」

「ふふ、そうだね。わたしも恥ずかしいし」

「え? なにそれイジメ?」

「ばーか☆」

 なんてケチなヤツらだ。許されるもんじゃねえ。どうやらほんとに寝ちまうようだ。オレはヒマになった。さて、どうしたもんか。美雨の部屋を見回してみる。

 美雨の部屋ってのは、なんとも奇妙なシロモノだ。青山家は純和風の建築物。和風の骨格に和風の肉付けがなされてる。美雨の部屋はそれに全力で抗っていた。机はゴテゴテとファンシーな小物であふれて、寝るところなんか床に布団でも敷きゃあいいのに、なぜかベッドが投入されている。布団の柄もカワイイ系のマスコットキャラが乱舞しまくってる。とことん似合わない。

 机の上の写真立てには、サッカーのユニフォームを着た美雨がチームメイトと笑顔で写っている。真ん中のヤツがトロフィーを持ってるところを見ると、どっかの大会で結果を出したようだ。なるほど、そんなことが。また無駄な知識が増えちまった。

 本棚を見る。一番下の段。卒アルがあった。二人の方を見る。よく寝てやがる。見るなら今だ。美雨の弱みを握るなら、今しかない。禁断の書を開く。そして分かったことと言えば、『小学生時代の美雨は男子に紛れても分からない』というどうでもいい情報だった。最後のページの寄せ書きにも、心はこもってるけど、ありふれてる、そんな言葉しかない。

 他に何かねえかな? もっとエグい何かを……。いや、これ以上やるのは、さすがにシャレになんねーか? ガチでストーカーの領域に入っちまうのか?

 ふと視線を感じてドアの方を見た。木製のドアに顔を挟むようにして、晴人くんがこっちを見ている。

「……どうしたんだ、晴人くん」

 視線に吸引力を感じる。廊下に出ろ。そう言ってる。

 オレは廊下に出た。

「で、なんだ?」

「ねえ、何、してるの?」

 めっちゃムスッとしてる晴人くんだ。

「ふつー、女の、部屋に、居座らないよ? ねてる、ときに」

「マジか。そういうもんなの? オレ、男子校だからさ。そこらへんには疎いんだよな」

「したで、げーむ、しよ?」

 無理してんなあ。男を姉の部屋から遠ざけるためなら、人見知りも克服できちまうのか。さすがだよ晴人くん。君はやっぱりオレの同志だ。

「スモブラできる?」

「任せろ。タカケーショーについては十両に上がったころから注目してた」

 大相撲スモッシュブラザーズについては、ずいぶんやりこんだ。押し相撲オンリーのピーキーキャラ、タカケーショーをオレほど使いこなせるヤツはいない。真修館高校史上最高のタカケーショー使いと言われてるオレだ。久々にヤツを目覚めさせてみるか。


 スモブラ開始。晴人くんはチートキャラのハクフォーを使って、何が何でもオレを負かそうとしてくる。いいねえ、若いねえ。でもまだ甘い。普通ならいなされて前にばったりいくタカケーショーもオレが操るなら、そんなことはない。圧倒的電車道作って押し出しだぁ!!

 台所では美雨のお母さまが夕飯の支度にとりかかっている。昼もあれだけのごちそうだったってのによ。どうやら夕飯も期待できそうだ。

「よぉ、晴人くんよ。楽しいなあ」

「……」

「楽しいなあ?」

 晴人くんは必死だ。オレをここに引きとめようとしてる。二度と姉ちゃんの部屋には行かせないぞ。そういう気迫がみなぎっている。まるで昔のオレを見ているみたいだ。晴人くん、君はオレだよ。

 美雨のお母さまがやってきて、オレたちの後ろに座った。チラ見してみる。ゲーム画面を見ちゃいるが、中身にはまるで興味ない、そういう目だ。ウチのおふくろを基準にする思考形態を捨てて見てみれば、美雨のお母さまが今どんな感じなのか、すぐに分かるってもんだ。つまり娘がいつ死んでもおかしくない仕事をしているのがしんどいんだ。しょうがねえ、ちょっとアレを見せるか。

 オレはゲームを一時停止した。スモーレスラーがにぎやかに飛んだり跳ねたりしてた音が消える。晴人くんがけげんそうにオレを見た。

「なぁ、お二人さん。いい機会だし、ちょっと見せたいものがあるんだ」

 オレはいつも脇の下に吊るしてあるシースナイフを取り出して、二人に見せた。そして、鞘から抜く。つまり、いつものアレだ。もう完全につかみのための手品みたいな扱いになってる。でも、いい。ウケるんだからしょうがない。

 オレは背広の上着を脱いで、ワイシャツの左腕部分をまくった。

「見てろよ……」

 ツプッとナイフの先端が腕の中に入る。二人は怯え半分、不思議半分の表情でそれを見ている。

 それにしても最近、自分の腕をぶっ刺すのが快感になってきた。このビリビリしびれていく感じ。あ~いいっスねえ~。

 血が腕を伝ってぬるぬると、てのひらの方へ流れていく。オレはナイフを置いた。そして治癒光を呼びだす。もうほとんど意識してない。ただ、漠然と光を想うだけで出てくる。

「奥さん、これね、治癒光」

 ふわふわと湧いて出る光たち。オレの腕の中へ入って行く光が傷を消していく。

「これひとつでケガもビョーキも完璧完治。すごいっしょ?」

 二人にも光を飛ばす。二人の中に入っていく光は、少しでも二人の疲れや緊張を癒せたはずだ。

「美雨は運がいい。オレと同じ班にいる。美雨が死ぬことはない。オレが美雨を死なせない」

 美雨のお母さまは、ぼんやりした目でオレを見ている。でも、オレには分かる。オレの言葉、「もっともっと」って欲しちゃってる。

「なぁ奥さん。美雨はいつも頑張ってる。オレもあいつの笑顔に助けられてるんだ。本当にいい奴さ」

 こいつはちょっとしたリップサービスだ。気持ちよく受け取ってくれ。

「そうだな、娘が自分の手の届かないところに行っちまった。十五歳。まだ子供なのによ。不安だよな。でも、不安になった夜はこの光を思い出してほしいんだ。こいつがいつだって……美雨を守ってる。本当だ」

 そろそろ決めるぞ~。いえーい☆

「だから奥さん、オレを信じろ。美雨は帰ってくる。何度でもここに帰ってくるんだ。本当だ。オレを信じろ!!」

 完璧フィニッシュ。美雨ママ完堕ち。嗚咽しはじめた美雨ママに、晴人くんが抱きついていく。いい光景だ。オレの好感度爆上がり案件だ。これで夕飯にも期待が持てるってもんだ。なにしろオレは飢えてる。飢えてるからよ~。

「おにいちゃん……」

 ちょっと待て。なんかオレ今、すごい新鮮な呼ばれ方したな?

「ありがとう……」

 晴人くんも完堕ちしてるぅぅぅ!? いや~やっぱすごいわ。治癒光あると好感度上げたいとき、めっちゃ便利やな。

「お母さん……?」

 いつのまにか美雨が起きてきてた。

「お母さん? どうしたの?」

 どうしたのじゃねえ。おい見ろよ、この美しい光景をよ。

「だいじょうぶ。だいじょうぶよ、美雨」

 涙のきらめく瞳のまま、お母上様は美雨に微笑んで見せた。美雨も安心したように晴人くんごとお母さんを抱きしめる。さすがのオレも気を利かすしかない。さて、莉奈の寝顔でも見に行くか? オレも真知子の息子だからな。いや、やっぱ止めとこう。いま美雨の部屋に戻るのはまずい。晴人くんになに言われるかわかったもんじゃねえ。しゃーない、ちょいとお庭でも拝見させていただくとするか。

 こっそりと玄関経由で庭に出ると、適当に花でも眺める。鉢には種の入ってたらしい袋もぶっ刺さってる。オレは花のことはよくわからねえ。ただ手入れが行き届いてるのはなんとなく感じる。

「一磨」

「ん? 美雨?」

 なぜか美雨がやってきた。

「どうしたんだ? もっと甘えてきていいんだぞ?」

「もうたっくさん甘えたよ」

 そう言って美雨はオレの隣に並んで立った。

「ねえ、一磨。お母さんになんて言ったの?」

「あん?」

「お母さんに……なんて言ってくれたの?」

「ああ。『ムスメさんは朝、自分で起きられるようになったんですよ』だったかな? そしたら感動して泣きだしちまってよ……」

 バシン!

「いでえ!!」

 背中をはつられる。

「もぉ! 一磨のバカ! 超バカ!」

 超バカってなんだよ!?

「ねえ、一磨」

「……なんだよ?」

「ちょっとさ、そこらへん、歩こうよ」

「なんだ? 散歩ってヤツか? オレは実益のないことはやらない人間だからなぁ。ただ歩くだけってのは性に合わねえ。わりいな」

「実益? あるじゃん。かわいい女の子といっしょに並んで歩けるんだよ? うれしいでしょ?」

「うん……いや、んなわけねえッ!! ノリつっこみが決まっちまったじゃねえか!!」

「ほら、行こ? 甘酸っぱぁい気持ちにさせてあげる!」

「それはない……」

 さすがクレイジー。人の話なんざ、まるで聞いちゃいねえ。しょうがねえから、いっしょに散歩することになる。


 わりと新しい壁と苔むした石垣のつらなる住宅街を歩く。静かだ。遠くから下校中らしい小学生のにぎやかな声も聞こえてくる。でも静かだと感じるくらいには静かだ。なんとも風情のあるまちだな。

「ねえ、一磨」

「あ?」

「昨日ね、ボク、急に泣き出しちゃったでしょ? 変なヤツ、って思った?」

「うんにゃ、ぜんぜん? むしろ美雨がいとおしくってたまらないね」

「もぉ、一磨ぁ!」

 ふざけてる場合じゃないって言いたいのか? なに言ってんだ。オレはもうジョークの一つも言わなきゃ体内のブツをオールリバースしちまいそうだよ! この……デートチックなシチュエーションによ!!

「そういや美雨、守護官になる前の夢が思い出せないとか言ってたな」

「うん。でも……もういいの! 今はたくさんの人が影人に怯えなくていい世界にするのがボクの夢だよ!」

 さすがクレイジー。クレイジーすぎて立ち直るのも早いな。

「言うほどみんな怯えてるか? 自分が死ななきゃ、それなりに楽しめるだろ。人の死ってヤツはよ」

「ちょっと、一磨ぁ?」

 美雨がオレに軽く体当たりする。

「ねえ、そこのやさぐれ一磨! この世界で大切なことって何だと思う?」

「どーした急に?」

「それはね、情熱だよ!」

「情熱ぅ?」

「そ! 情熱を持って生きること! ね? ステキでしょう?」

「じゃあ、お前は今、影人討伐に情熱を燃やしてんのか?」

「そうだよ! だってそれで沢山の人が助かるんだし……」

「いや、まじめな話、もっと自分のことを考えろよ。本当は何やりたかったのか思い出せよ。お前がどうあろうと他のヤツは勝手に生きていくんだ。誰かに感謝されようとすると自分がみじめになるぞ」

「もぉ……」

 美雨はすねる。

「一磨ってときどき、いじわるなこと言うよね?」

「誰がいじわるだよ? 美雨、お前だって影人討伐だけで一生を終えるつもりないだろ?」

「でもやれるのはボクたちだけなんだし、だからボクたち、頑張らなきゃ!」

「だからな? 言うほどパンピーどもはオレたちのことなんか気にしてないんだぞ? だからこそつまんねえことでクレームだって入れてくるわけだろ? 別にそれが悪いわけじゃないし、誰しも自分のことで手一杯で、それで社会が回ってんだからな。お前が守護官やめて自分のやりたいことやっても、誰も文句なんか言わねえし、言う資格ねえ。そうだろ?」

 オレはどうして急にこんなことを言い出したんだ。それはたぶん、美雨の言うことを本気で受け止められないから、だな。情熱とか、やらなきゃっていう使命感とか、美雨が自分に言い聞かせるようにしてるのは、そうしなきゃ抑えられない自分の気持ちがあるからじゃねえかって思っちまってる。

 ……て、オイイイイイ!!! なんでオレが美雨のことをこんなに真剣に考えてなきゃいけないんだよ!! キモイ!! オレキモイ!!!!

 ふと見れば、庭の手入れをしてるジイさんと目があった。

「あ、ども」

 とりあえずお互いに会釈。そしてオレたちは通り過ぎる。なるほど、あのジイさんは引退して今は悠々自適の生活を送ってるってやつだろうな。で、オレは美雨に言った。

「な? テキトーなとこで引退して自分のやりたいことやろうぜ。オレはそう思うね」

「でも……引退制度なんて、ないよ?」

 なんだよ、ないのかよ? だったら。

「これからオレがつくったるわ。任せろ!」

 美雨から返事がない。オレたちはだんまりのまま並んで歩いてる。空の向こうの方が赤みがかって、もうすぐ夕方ってわけだ。

「ねえ、一磨」

「あ?」

 美雨がそっとオレの背広のすそをつまんだ。いや、なにしてんだテメー……。美雨を見た。美雨は真剣そのもののまなざしでまっすぐにオレを見た。

「やっぱりボクたちがなんとかしなきゃ。ボクたちにしかできないんだもん。みんなが安心して暮らせる世界に、しようよ? ね?」

 いや、ボクたちってなんだよ? なんでそこにオレも入ってんの? でも……反論できる雰囲気じゃねえよな。

「ま、まあ、そうだな……?」

 いつの間にやら公園にたどり着いていた。生垣に囲まれた小さめのグラウンド、それにすべり台、ブランコ、鉄棒の三点セットがそろってるヤツだ。

「さて、ここいらでちょいと座らせてもらうか」

「……うん」

 オレたちは並んでベンチに座ることになる。はた目から見たらカップルみたいだろうな。でも……ないない。美雨だしな。にしてもこれが知らないまちの匂いってやつか。

「あ~」

 オレは後ろに両手をついて、伸びをする。それから空を見る。風が吹いている。雲が流れていく。時間も流れていく。後戻りが利かなくなる。それが人生ってやつさ。そういやこの公園も美雨が小さいころによく遊んだ公園なのかもしれねえな。

「青山?」

「え?」

オレが視線を戻すと、一人の……高校生らしき制服を着たオレと同い年くらいのやつが美雨を見ていた。

「あ、奥寺くん!」

 美雨はぱっとベンチを立って、男に駆け寄った。

「ひっさしぶりぃ! ひっさしぶりだよねえっ!!」

 キャッキャしてる美雨。

「ああ、久しぶり。戻ってきてたんだ?」

「うん、ちょっとね!」

 奥寺くんは朴訥なサッカー少年みたいなヤツだ。日焼けしててスポーツ刈りで。いちばん気になったのは美雨を見たときのおずおずとしてしあわせそうな視線だ。ほほう、こいつは面白えな? おもわずニンマリしちまわぁ! さて、と。オレも挨拶しておくか。上司としてなぁ!!

「青山君の友達かね?」

「うん! サッカークラブで一緒だった奥寺くんだよ! って、どしたの一磨? そのしゃべり方?」

「こんにちは、奥寺君。オレは……」

 と言いつつ左腕のブレスレットを見せる。

「青山くんの上司で闇堂という者です。今日は休暇でですね、同じ班の人間で青山くんの故郷を訪ねてみた、というわけなんですよ。さあ、遠慮することはありません。どうぞ心ゆくまで旧交を温めていただいて。オレは向こうにいますので……」

 オレはごく自然な感じで公園の中をぶらぶらする。美雨と奥寺くんは、奥寺くんの持っていたサッカーボールで遊び始める。リフティングしてからパス、リフティングしてからパス。オレはそんな二人を眺めている。美雨が意外にうまい。二人はすぐに昔の勘を取り戻して、動きはどんどんダイナミックになる。そして二人には笑顔が。うん、いいね。そうだよ、これだよ。美雨の恋愛についてはオレは上司として応援したいと思ってるんだ……グヘヘ。

 二人がサッカーに興じているのを眺めながら、オレはさらに考える。

 オレは医者になる。医者になるしかねえ。オレにはそれしかねえんだ。でも、オレ、なんとなく分かっちまった。美雨みたいに家族や周りから愛されてると、周りのしあわせのために自分の夢を忘れることもできてしまうんだ。オレみたいなクズの出来損ないだけが生まれたことに意味を求めて、たった一つの生き方に人生のすべてをかけてしまうんだ。悲しい話だな。それでもオレは自分の人生を完遂しないといけない。

 まずは……引退制度と任官拒否制度から整備してみるか? じっさい影人との戦いで心を病んじまったヤツは多いって深太先生も言ってたからな。そうとも、これがオレの医者としての見解ってヤツだ。もしかしたら、いつかは美雨だって必要とするかもしれない。ま、選択肢は多い方がいいだろう……。


「バイバーイ!」

 美雨が奥寺くんに手を振った。オレは一礼。そしてオレたちは家路につく。家と言っても美雨の家だが。

「なあに? 一磨、なにニヤニヤしてるの?」

「べっつにぃ? いや、いい雰囲気だったじゃねえか?」

「えっ?」

「オレの見たところ、あいつ美雨のこと、好きなんじゃねえのぉ?」

「!」

「おっ、もしかして両想いなのか?」

 その方が面白いぞ!!

「か、考えたこと、なかったよ……」

 大切な思い出を胸に抱くようなしぐさをしてみせる美雨。な、なんかムカつくぜ……。美雨のくせによぉ。

「でもよぉ、今日は来てよかったよ」

「え?」

「美雨がいろんな連中に囲まれて、このまちで生きてきたってことが分かったからな」

「……そ、そうなんだ」

「ああ、そうだよ」

 空は茜色。そこかしこから夕飯のにおいがする。ベタな夕方だ。でも、オレはこういうのが好きだね。

「ねえ、一磨?」

「ん?」

「ボクってね、いま、好きな人、いるんだよ?」

「おいおい、悪いオンナだなぁ。さっきまで奥寺くんを誘惑してたってのによぉ」

「もぉ! 誘惑なんてしてないもん!」

「ま、いいけどぉ? とにかく、その圧倒的な行動力で告ってこいよ!」

「やーだよっ。ボクだって女の子だもん。告白してほしいのっ。だから待つよ! もっと好きになってもらえるようなボクになって、告白してもらうんだからっ!」

 めっちゃ乙女路線じゃねえか。なに? キャラ変すんの?

「つーか、その好きな人って、オレも知ってるヤツ?」

「うん! よおく知ってる人だよ!」

 お!? スチーブか!? それとも深太先生か!? どっちだよ!? がぜん盛り上がってきやがった!!!

「おい、相談したいことがあるなら、いつでも言ってくれ。オレが完璧な助言をしてやるからな!」

「……うん!」

 美雨の家の前までくると、出かける前にはなかった車が駐車場に停まってた。

「あ、お父さん、帰ってる!」

 美雨はパタパタと家の方に駆け出して、玄関の扉の中に消えた。

「おお~美雨ぅ~~!! よく帰ったなぁ~~!! お父さん、さみしかったぞぉ~~!!」

 美雨の家の中から、隣近所への遠慮会釈ない大声が聞こえてきた。

 美雨のお父上様について言えば、ひたすら濃いキャラのお人だったとしか言いようがない。美雨はお父さん似だった。いや、なんとなくそんな気はしてた。美雨とはしゃぎ倒すお父上様を見てたら、なんかデカイ犬とじゃれ合ってるブリーダーのオッサンにも見えてくる。そして夕飯はひたすらににぎやかだった。なにしろ美雨と美雨パパがしゃべり倒してる。なるほど、これが青山家のノリか。でも、そんなことはどうでもいい。オレは食った。これでもかってくらいに喰った。オレは家庭の味に目がないんだ。


 帰りの時間が来た。玄関先で見送りを受けるオレたち。

「じゃね、晴人! ちゃんと勉強しなさいよっ!」

 美雨に言われて、こくりと晴人くんがうなずく。

「晴人くん、またね!」

 莉奈に言われて、こくりと晴人くんがうなずく。

「あばよ、晴人くん!」

「……」

 晴人くんはじっとオレを見た。

「バイバイ、おにいちゃん……」

 オレはめちゃくちゃサムズアップした。

 オレたちの乗った車はゆっくりと走りだした。後ろを振り返ってみる。両親に挟まれた晴人くんが力いっぱい手を振っていた。美雨もリアガラス越しに手を振る。家族の姿が見えなくなるまで。

「なぁ美雨。泊まらなくてよかったのかよ? レベルⅢのオレがゴリ押しすれば、もう一日くらい休み取れたぜ?」

「ううん、いいの。なんだか気持ちがすっきりしたし! 充電完了だよ!」

「そうか? 今からユーチューブアカウント作って、守護官のブレスレット付けたまま裸踊りすれば、明日の朝までにもう一日、謹慎処分くらう位には炎上させられる自信があるんだが」

「もぉ、やめてよ一磨!」

 車は高速道路に乗っかった。道路灯に追いついては追い越す、単調な景色が続く。

「ねえ一磨、聞いてもいい?」

「なんだ?」

「晴人、一磨にすっごく懐いてたよね? 何かあったの?」

「あーね、あったあった。いきなり『あなたみたいなイケメンは見たことがない。兄貴って呼ばせてください!!』とか言い出してさ。オレとしてはイケメンなのは事実だから、『あ~まあ、いいよ』って答えておいたけどね」

「うっそだぁ!」

「嘘じゃないんだよなぁ。姉と違って、見る目あるわ」

「……ねえ、一磨。ボクだって、見る目あるかも知れないよ?」

「あ? どういう意味……」


 地面が震えた。何かとてつもなく重いものが、空から降ってきたような。

 行く手に火が見えた。近づいていくと、それは横転した大型トラックとそれに追突した乗用車だ。燃えているのは乗用車の方だ。窓を開ける。風にガソリンのにおいが混じっている。

「一磨っ!」

 美雨が声を上げる。炎上した車の近く、炎に包まれた男が走り回っていた。車を降りて駆け寄り、治癒光で包む。火が消えた。

「一磨くん」

「一磨っ!」

 ふたりも駆け寄ってくる。

「あ、ああ、あ……」

 火は消えた。火傷も治った。でも、男は目を見開き、怯えて言葉にならないうわ言を繰り返す。

「他にもいねえか探してみる。こいつを頼む」

 体を治癒光で包み、燃え盛る車の中に入ってみる。助手席にも人がいた。引っ張り出して、治癒光を流し込みながら、莉奈たちのもとに引きずっていく。

「こいつも頼む」

 こっちは女だったようだ。服までは治せない。莉奈が自分の上着を脱いで着せた。

 横転したトラックの方にも行ってみる。運転席のドアによじ登って、中を見てみる。人影はない。ドアは……開かない。治癒光を球にして中に投げてみる。中が治癒光に照らされる。やっぱり誰もいない。あたりを見回す。道の端に誰かが倒れている。近づくと、その人には顔がなかった。誰かが顔の前半分を毟り取ったみたいだ。手を取って治癒光を流し込む。当たり前だけど、手応えはない。

 莉奈たちのもとに戻る。

「どうだ?」

「うん、怯えてるの。一磨くん、なんとかならないかな?」

「いいぜ」

 眠りをイメージして、その光で乗用車に乗ってた二人に触れる。すぐに眠りに落ちた。

「これでよし」

 これはただの交通事故じゃない。誰かがやらかしやがったんだ。あたりを見回す。白いガードレールの外側には穏やかな起伏のある草原が広がっている。オレの中の治癒光がかすかに身じろぎした、そんな気がする。一つの方角に向かって伸びる、殺意のような、憎悪のような、そのドス黒い感情の痕跡を、なぜかオレは感じ取ることができた。重い荷物を引きずった跡のように、その感情は草地に跡を残していた。

「あ~なるほどね~」

 治癒光はたぶん、オレを導こうとしている。あの黒い感情を癒してあげたいとか、そんなことを考えちまってる。だからオレをそっちに行かせようとしてる。

 莉奈と美雨は、乗用車の二人を介抱してる。『今日オレたち休暇やし、他のヤツに任せて帰ろうぜ』そういう軽口が叩ける感じじゃなくなってる。

「莉奈、美雨。これさぁ、影人っぽいわ。オレの治癒光がそう言ってる」

 二人がオレを見る。

「莉奈、応援を呼んでくれ」

「うん、わかった」

 オレたちの車の後ろには渋滞ができ始めていた。野次馬もこっちに来る。いま影人に戻ってこられると、ちょっとしたパーチーになりそうだ。血の雨が降っちまうぜ。

「応援、すぐ来るって」

「おっけ。莉奈、美雨、聞いてくれ。いま影人に戻ってこられるとヤバいことになる。今回のヤツは並じゃない」

「一磨くん、どうするの?」

「短期決戦するしかねえだろ。具体的にはオレが囮になる。影人はたぶん向こうに行った。治癒光がそう言ってる。というわけで、オレが行ってみる。影人にオレを襲わせるんだよ」

「一磨、ボクも行くよ!」

「いや、美雨はここであの野次馬どもをガードしてろ。問題ねえ。オレは物理無効だからな。死にたくても死ねない。影人に遭遇したら、これ。装着ブレスレット。これで居場所を知らせる。装着すれば、位置情報が指令室に伝わるんだろ?」

「……わかった。一磨、無理しないでね」

「一磨くん、気を付けて」

「おうよ。任せとけ」

 この中で、いちばん死んでも問題ないヤツ。それはオレだよ。悲しいなぁ。本当に悲しいなぁ。

「一磨!」

 ガードレールのところまで来たとき、後ろから美雨に呼ばれた。

「ぜったいにボクたちのこと呼んでね! 一磨のスーツ姿、ちゃんといっしょに笑ってあげるからね!」

 ナイスジョークだ、美雨。


 ガードレールを越えて、草地の中に足を踏み入れる。

 やれやれ、なんて日だ。せっかくの休暇だったのによぉ。ざくざく音がする。足元の草が硬いせいだ。風上だから、もうガソリンのにおいはしない。次第に静けさがオレを包み始める。低いうなり声は、遠くを走る車の音か? それとも影人が吠えてんのか?

 突然、その音に電子音が混じった。オレのスマホの着信音だ。見ると、おふくろからだ。珍しいこともあるもんだ。いや、珍しすぎて前回がいつだったのか、全く思い出せねえくらいだ。

「もす」

『一磨、今どこぉ!!?』

 しょっぱなから飛ばしてる。

『お姉ちゃんたちが電話に出ないのよぉ!! アンタいっしょにいるんでしょお!!? いつ帰るのぉ!!?』

 たぶん、応援呼んだり、警察呼んだり、いろいろやってるからだな。今日はあのイヤホン状のアレもないし。

『一磨、一磨、大丈夫よね? 大丈夫? 大丈夫なの? いつ帰る? 何時? いつ帰るの? 何時? 帰るの? 帰る? 帰るぅぅっ!? 帰るのぉぉぉぉッ!!?』

 やばい。おふくろが発狂寸前だ。あの夜のトラウマが再発しかけてる。どうやらおふくろは思い出してるみたいだ。あの夜を……病院の霊安室で「先生! まだ死んでません! まだ死んでません! 先生、助けてください! 助けてください!」とか泣き叫んでたあの夜をよ。もし今夜、莉奈と美雨が戻らなければ、おふくろの心は今度こそ完全に崩壊して、二度と元には戻らないだろう。あ~怖い。怖いね~。やるしかねえのかよぉ。

「問題ねえ。必ず帰る。ちょっと待ってろ」

 スマホを叩き切って、今度は深太先生のくれたガラケーを取り出し『1』を押す。一……二……三……四コール。

『もしもし?』

「よぉ深太先生。夜にわりーな。今、大丈夫か?」

『もちろん。どうかした?』

「今ちょっとヤバい影人を追いかけててさ。影人界のレベルⅢみたいなヤツだ」

『うん』

「それでちょっと事情があってさ、オレ一人で狩らないといけないみたいなんだよ。だから、ほら、深太先生がやめとけって言ってた『治癒光で影人を狩る方法』、教えてくんねーか?」

『……どうしても?』

「そう、どうしても。はっきり言っちまえば、ウチのおふくろの精神が崩壊するかどうかの分かれ道なんだ」

『……なるほどね。わかった。いいよ』

「マジありがてえ。さすが深太先生だぜ。それで? どーすりゃいい?」

『影人に直接触れて、超高密度に圧縮した治癒光を流し込む』

「……それだけ? それだけでいいのか?」

『そう。でも一磨の背負うリスクはとても大きい。この前話したけど、人間の持つ光量は有限だ。操光術を使うことは自分の寿命を削ることでもある。瀕死の重傷者を完治させるのに必要な治癒光量は、人間の寿命に換算して大体一日分だと考えられてる。そして影人を『浄化』するために必要な量は……約一年分だ』

「一年」

 仮にオレが百二十歳まで生きるとして……その他もろもろ考えても……まだ百十八歳十一ヶ月までいけるじゃねえか。

『一磨のことだから、『百十八歳十一ヶ月までいけんじゃん。ぜんぜん大丈夫だな』とか考えたかもしれないね』

 ギク。

『でも影人を狩るのにこの方法を使ってたら、二年もたない。分かるよね』

「そこらへんは大丈夫だ。うまくやるさ。任せろ。今回はちょっと特別なんだ」

『そう。イメージの作り方は大丈夫?』

「問題ねえ。一瞬でまとまったよ。治癒光も『はやく癒してあげたい』って言っちゃってる」

『そうか。頑張って』

「おうよ」

 電話を切った。なるほど一年分か。はじめて影人と対峙したとき、オレは光球を投げた。でも、弾かれた。あれじゃダメだったんだ。命と時間をかけて、注ぎ込まなきゃいけなかったんだ。人ひとり救うってのは大変なことだな。親父もそう言ってた。なるほどな。そういうことか。やっと少しだけわかった気がする。

 親父のネクタイをきつく締めなおした。さて、やるか。


 小高い丘の上に出た。風は草地を滑り、彼はそこにいた。夜の闇とは違う暗さで、夜空を人の形に切り取っている。おそらくコイツなんだろう、剛田一強をボコって、千景姐さんに大ケガさせたヤツは。

「よぉ。どーも」

 影人の方から音がする。でかいガラス瓶に息を吹き込んだ時のような、洞窟の中の風鳴のような、毎度おなじみの、低く重く、くぐもった音だ。影人の鳴き声だ。

 最近なんかマヒしてたけど、本当に不思議な連中だな。人っぽいが人じゃない。動物でもなさそうだ。人間の天敵だが、人間を食うわけじゃない。ただ殺すだけ。進化論でどういうルートをたどれば、こんな連中が出来上がるのか。オレにはわかんねえ。

「なぁ、お前らは何者だ? いったいどこから来た?」

 風鳴りの音が止んだ。


『夜ガ来ルゾ』


 なんだよ。お前、しゃべれんじゃねーか。夜が来る。なるほどね、人類はお先真っ暗ってわけか? ま、しゃーない。でも、それでも、オレたちはお前らを狩り続けるしかねえんだ。それが仕事だからな。お前らはお前らで、人、殺せばいいんじゃねえの?

「人類はお先真っ暗って言いたいのか? まあ、そうなるかもしれねえし、ならないかもしれねえ。とにかく今日のところはオレも仕事だからよー」

 体に治癒光を充満させる。ちなみに、股間もっこりスーツは着ない。男の美学ってのは、状況が切迫してるときこそ、貫くべきなんだよなぁ。それに居場所が分かれば、あいつらが来ちまう。

 影人の体が沈んだ。突進が来る。初仕事のときのヤツとはまず速さが比べ物にならねえ。派手に吹っ飛ばされる。オレに痛みは分からないが、人によってはこれでバラバラの肉片になっててもおかしくねえ。そのくらいのやつだ。

 一度バウンドして地面に仰向けになるオレ。影人がマウントをとる。そこからの連打。人間のプロ格闘家をはるかに超えてる。腕の回転率がぜんぜん違う。顔面の肉が弾け飛び、頭蓋骨ごとぺしゃんこになってるレベルだ。でも、オレには治癒光がある。目ン玉が破裂しても、鼻が圧し潰されても、すぐに治る。これならいくらでも殴られていられるな。

 感情に似た何かが流れ込んでくる。そんな気がする。そんなに人間が憎いのか? そうなのか? 早く忘れちまった方が楽になれると思うんだがな?

 オレの中の治癒光が瞬いた。催促してやがる。なるほど、準備万端ってわけか? 

 オレの命、一年分の光量。いいぜ、くれてやる。とても静かな気持ちだ。親父も、手術するときとか、こういう気分だったのか?

 さんざん降ってきていた拳の雨が止んだ。影人は、今度は両手で俺の首を絞めにかかる。オレがいつまで経っても死なないから、その方向にシフトしたらしい。ちょうどよかった。

 影人の手首をつかむ。

 オレがイメージしたのは光の奔流。地上ここからあの星空に架ける橋。オレの中に、オレの鼓動とは違う音が生まれた。圧倒的な光が、オレから流れ出ようとしている。

 光があふれた。


 あたりにまた静かな夜が戻ってくる。影人はいなくなってる。任務完了だ。

 オレは最後に見た。あいつは光の粒子になって、天に召されていった。オレはそれを見送った。なんだかんだで、あいつもいいヤツだった。そんな気がする。

 と、電話だ。スチーブからだ。

「よぉ、スチーブ。どうした?」

「カズちん、今、南の山の方に、ものすごい光の柱が立ったんだけど。カズちん、なにかやった?」

「やった。やったったよ。影人の奴をよ、『癒して』やったよ。そしたらそいつ、『救われ』ちまってよ。天に還っていったよ。……つーか、スチーブの家からも見えたのか?」

「見えたよ。っていうか、一瞬、昼間くらい外が明るくなったんだけど」

「マジか。オレすごすぎ」

 マジで最強だよ。

「つーか、よくオレだって分かったな?」

「うん、なんとなく。そんな気がしたから」

 さすがスチーブ。人間関係の天才なだけある。

「……ねえ、カズちん」

「あ? なんだ?」

「もしかして、一人で突っ走った?」

 ギク。

「心配だなぁ、カズちん。この方がいいじゃんって思ったら、そのまま自分一人で突っ走って周りを置き去りにしちゃうことあるからなぁ。それでよくみんなに怒られてたよね」

「やめろスチーブ。お前、いつからそんなレベルでオレを理解してるんだ。つーか、勝手に突っ走ったとしてどうなんだよ。今回は何の問題もない。だれが怒るってんだ。できる人間がやる。完全に合理的な判断だ。オレだって、たまにはちゃんと考えるんだ」

「カズちん、少しは人の気持ち考えた方がいいよ」

「これからちょっとゴタゴタする。そう言いたいのか?」

「そう」

 そんなことあるわけねえ。でも人間関係については、オレはシロウトでスチーブはプロだ。

「いや、でもよ、今夜は特別な事情があるんだ。あの二人を無事に家まで連れて帰らないと、ウチのおふくろの精神が完全崩壊して爆散するんだよ」

「ああ、そういうこと……。でもだったら、自分の素直な気持ちを話して謝らなきゃ。ないがしろにしたわけじゃないよってさ」

「それ、どうしても必要?」

「絶対に必要」

「マジかよ」

「真面目な話をするところで真面目な話をする。とっても大切なことだよ。ぼくに言えるのはこれくらいかな。じゃね、カズちん。頑張って」

「……ああ、そうだなスチーブ。なんとかしてみる」

「心配だなあ、カズちんは真面目な話をしないといけないときに、照れてふざけて相手を怒らせちゃうタイプだからなー」

「お前はオレの姉貴か! 冷静に分析してんな! まあ、とにかく大丈夫だ。なんとかするって。任せろ」

 電話を切る。確かにオレはこれまでに、浮かれてスタンドプレイに走って叩かれたことはあった。でもそれは男子校の暑苦しい文化のせいだ。今回、オレと組んでるのは莉奈と美雨だからな。莉奈は優しいし、美雨は冗談が通じる。どうにでもなるさ。まあ見てろ。

「一磨ぁっ! 一磨ぁぁっ!」

 オレを呼ぶ美雨の声が聞こえてくる。美雨の光の大剣が草地の中を右に左にと動くのが見えた。どうやらオレを探してるみたいだ。目印代わりに治癒光虫をそこらへんにばらまく。光虫はオレの周りをふわふわしながら回る。

 美雨が気づいたようだ。美雨の光の大剣がまっすぐにこっちにやって来る。

「一磨、一磨っ……」

「どうしたんだよ美雨」

「一磨、大丈夫なの?」

「変なことを言うな。大丈夫じゃねえか、見ての通りだ。で? あのカップル様はどうしてる? 大丈夫そうか?」

「え、うん。いちおう救急車で病院に運んでもらったよ。それに応援の人たちももうすぐ駆けつけるよ」

 言いつつも怪訝そうな顔でオレを見てる美雨。

「なんだよ?」

「一磨、何したの? さっきの……すごい光……」

「いや、ちょっとよぉ、治癒光で影人を消せる方法があるっていうから試してみた。ちゃんと消えたぞ。ま、楽勝だったね」

 光虫に照らされる美雨の顔からは、それでも不安な色が消えない。

「応援ももういらねえぞ。任務完了だ」

「ねえ……よくない気がしたの」

「あ?」

「あの光、よくない気がしたの。だって、一磨をどこか遠くに連れてっちゃいそうで……」

 おっとぉ、いい勘してるな。でもわざわざ寿命一年分削りましたとか言う必要はない。これも男の美学だ。

「なに言ってんだ。あれが治癒光ちゃんの本気やぞ。めっちゃ神々しかったやろ? さ、帰ろうぜ……」

 先に歩きだしてみるが、美雨が付いてこない。振り返って美雨の様子を見る。表情はうつむいてて見えない。なんか肩が震えてる。あ、これヤバい。なんかヤバい気がする。なんかオレやばーい。

「一磨……」

 顔を上げた美雨は……やっぱ怒ってた。そして泣いてた。光虫に照らされた美雨の涙がキラキラと光ってやがる。

「一磨っ! 本当のことを言って! 何をしたのっ!? ボクたち、そんなにたよりないかなぁっ!? ボクたちだって、一磨を守れるんだよっ!!」

 なんてこった。どうしてこんなことに? この状況の方が、影人より厄介じゃねえか。でも美雨には冗談が通じる。見てろよスチーブ。オレ流の切り抜け方を……!

「美雨、一度しか言わないから、よく聞いてくれ」

 まずは意味深な前フリだ。

「オレ……お前のことを守りたいって思った」

 この世界でこれほどツッコミを待ってるボケもない。ほれ、はよ突っ込め。

「ど、どういう意味なの……?」

 んだと? このボケ、まだ膨らませるのか? しゃーねえなあ。

「今日、美雨の家に行ってみてよ、オレ思ったんだ。美雨はこんなにも愛されててさ、帰りを待ってる人たちがいる。それにオレ、美雨のおふくろさんと約束したんだ。『美雨はまた必ずここに帰ってきます。オレが美雨を守ります』ってな」

 やっべ。口が滑る滑る。なんか冷や汗出てきた。オレきもい。

「オレのおふくろはあんな感じだしさ。オレが死んで悲しむって感じじゃないんだ。オレが死んでも、どってことない。でも美雨、お前は違う。だから……」

「ちがうよ、一磨だって……それに一磨が死んじゃったらボクが悲しいよ!」

「ありがとな。嘘でもうれしいよ」

「嘘じゃないっ!!」

 夜の風が、俺たちの間を吹き抜けていく。

「嘘じゃないよ、一磨……」

「そうか。だとしたら……マジにありがとう、だな」

 なんかおかしいな。どうなったんだ結局。自分で言いだしたことなのに、着地点が見えない。今さぁ、オレ、どこにいるの?

「まあ……とにかく戻ろうぜ……」

「え? うん……」

 ざくざくと草を踏む音ばかり聞こえる。なんか気まずい。オレは結局、何をやっちまったんだ?

「ねえ、一磨」

 けっこう歩いたところで、美雨がオレを呼んだ。声からは怒ってる感じはしない。でも、真剣そのものな感じはする。

「なんだ?」

「ボク、気付いちゃったんだけど」

「……何に?」

「さっきさ、ボクのこと、守りたいって言ったでしょ?」

 そのボケまだ膨らます気かよ! いい加減、つっこめよ!

「それってさ、やっぱり告白、なんだよね……?」

 なに言ってんだ。急にどうした。やっぱりあたまおかしい。さすがクレイジーガール。どこをどう解釈したら、そういう結論になるんだ。

「ねえ、一磨」

「だから、なんだよ?」

「ボク、いいよ」

「いいって……何がだ?」

 わかりたくねえ。わかりたくねえよ。こいつはいったい、何を言ってるんだ。オレわかんねえよ親父ィッ!!

「一磨とお付き合い、していいよ」

 そう言って美雨は腕を絡めてきたわけだが。

「えへへ……」

 何笑ってんだ美雨……。そして治癒光のみなさん、祝福するようにオレたちの周りをぐるぐる回るのやめていただけます? これは事故……事故なんだよ……。

 回転する赤色灯の群れが見えた。戻ってきちまった。事故の現場に。そして鈍感なオレにもわかった。ツッコミの機会は永遠に失われた。一つのボケが既成事実になってしまった。終わったんだ。何もかも。俺の人生は、もう終わったんだ。


 帰りは真夜中になった。玄関の前には深夜徘徊おばさんがいて、莉奈と美雨の姿を見ると、駆け寄って抱きしめた。やれやれ、まったくイカレた夜だぜ……。

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