第二章 乖離

 夢だ。夢を見ていた。

 目が覚めたとき、それがどんな夢だったのかは忘れていた。ただ、重苦しい眠りの先にあったそれが、ドス黒い悪夢だったことは覚えていた。首元に触れてみる。シャツが汗に濡れていた。でもそれだけじゃなかったはずなんだ。この違和感は何なんだ?


 朝になったみたいだ。カーテンを閉め切った部屋の中が、ぼんやりと明るくなっている。そしてオレのベッドのすぐ下から美雨の寝息が聞こえてくる。

「すぅ……すぅ……ん、ううん……んぅ……」

 ……ぜんぜん色っぽくない。まるで中学生だ。こんなのを意識してなかなか寝付けなかったヤツがいるとすれば、そいつは馬鹿だ。そしてオレは馬鹿だ。これのせいで眠りが浅くなって、よくわからん変な夢を見たんだ。ちきしょう!

 オレはそっと部屋を抜け出した。目指すは親父の部屋だ。


 親父の部屋に入る。その空気はひんやりしていた。電気を点けて見まわす。あの夜から……親父が死んだあの夜から、何も変わってない。

 クローゼットを開ける。中には親父の背広スーツが並んで吊るされていた。手入れは行き届いている。おふくろがやってるからだ。オレは一着を選んで、そでを通した。やや大きめだが、別にいい。これこそ男の勝負服だ。オレは股間もっこりスーツなんか着ないんだ。

 それから机の引き出しを探す。あった。親父がアウトドア用に持ってた小振りな鞘付きシースナイフだ。抜いてみる。錆一つない。鞘に納め、懐に入れる。

 鏡の前に立つ。わるくねえ。首からはスチーブからもらったドッグタグ。完璧だ。準備完了だ。

 昔、オレのことを『適当を絵で描いたような男』とか『その場しのぎが服を着て歩いてる』とか言ってたヤツもいたよ。でも、オレだってやるときはやるんだ。親父、オレは医者になるぞ。今は守護官としてキャリアを積むが、いつか必ず医者になるぞ。見てろよ親父。オレはやるぜ!

 そんな決意を固めていると、ドアをノックする音がした。

「誰かいるの?」

 莉奈の声だ。

「ああ、オレがいるよ」

「入ってもいい?」

「いいけど」

 莉奈が入ってくる。やっぱり姉貴の寝間着を着ている。

「おはよう、一磨くん」

「ああ、おはよう……」

 なんかドキッとした。わかった認めよう。オレはシスコンだ。オレは真知子のことを話そうと思ったが、もう莉奈は何もかも呑み込んでる気がした。それで美雨の話をする。

「美雨ならオレの部屋で寝てるぞ。どうなってんだ」

「ふふ。美雨ちゃんは人見知りしないから……」

「いや、しなさすぎだろ」

 莉奈がオレの背広スーツ姿をじっと見た。

「一磨くん、似合ってる」

「そいつはどーも」

「ネクタイ忘れてるよ。結んであげる」

「え?」

 莉奈はスチーブのドッグタグをワイシャツの下に入れ、ネクタイを結んだ。結び目がぎゅっと首元にくる。

「はい、いいよ」

「あ、ども」

 もう一度、鏡の前に立つ。いいね。異能力バトルに出てくる強キャラみたいだ。我ながら最高だ。

「ねえ、一磨くん」

「ん?」

「不安に思ってることって、ある?」

 そういや、昨日、美雨からも同じことを聞かれた気がする。

「いいや、全くない」

「そっか」

 鏡の中に莉奈が現れる。

「ねえ、一磨くん。初めは戸惑うことも多いと思うけど、でも、わたしたちがちゃんと支えるからね」

「そいつはどーも……はい?」

 なぜか莉奈が後ろからオレを抱きしめている。

「な、なんスか……」

「わたしが……わたしたちが一磨くんを守るから……だから、一磨くんの不安をわたしたちに分けてね……」

 ……え? なに? どゆこと? 重い。なんか重いんですけど? いったいどうした? 何が起きてる? しかもオレの背中にあたってるこの感触は何なんだ? わからねえ。オレには何もわからねえ……ッ。

 と、莉奈がそっと体を離した。

「……ごめんね。あ、わたし、朝ごはんの支度、手伝ってくる!」

 莉奈が部屋から出ていく。いったい何が起きたんだ。守護官ってそんなにヤバいのか? そこまでヤバいみたいな情報はあんま見かけたことないが。オレの知らない何かがあるのか?

 とにかくオレは気分を落ち着かせるために、親父の本棚から医学書を一冊抜き出して開いた。英語だ。読めない。


 リビングに行くと、莉奈とおふくろが並んで朝食を作っていた。おふくろはもはや、限界を超えて若返っている。昨日の夜、莉奈からお姉ちゃん成分を大量に補給しやがったんだ。

「あれ、一磨!」

 美雨も起きてくる。

「どしたの? 気合入ってるぅ!」

「どや? 能力者って感じ、するやろ」

 異能力バトルものでは、能力者は常に背広スーツと相場が決まっている。北極だろうと砂漠だろうと、つねに背広スーツだ。つまり、そういうことだ。

「なにそれぇ? マンガの読みすぎだよぉ~。ふふふっ」

「それにこいつは、オレの壮大な野望に必要なんだ」

「野望? 野望ってなに?」

「だからあれだよ。股間もっこりスーツを着ない、それがオレの美学だっていうアレだ」

「もしかして着らずにすむと思ってる? うまくいくといいね~」

 面白そうに笑いやがって。だが、オレには切り札がある。あれさえあればオレはもっこりスーツを着なくてすむんだ。今に見てろ……。


「いってらっしゃ~い!」

 おふくろが手を振る。いったい何年ぶりなんだ、おふくろが『いってらっしゃい』を言うのは。莉奈の運転する車で出勤するオレたち。

「んでよぉ、今日は結局、何をすることになりそうなんだ?」

「そうね。まずはあいさつ回りをしましょう。みんなに一磨くんを紹介しなきゃ」

「へえ~。ところで、オレの歓迎会みたいなのはあるの?」

「う~ん、ない、かな」

「ないのかよ!」

「一磨、社会は厳しいんだよ~! ふふふっ」

 なんてブラックなんだ。守護警察はブラックだ。


 会別市中央守護警察署に着いたオレたちはさっそくあいさつ回りを始めた。

 まずは一階の受付からだ。あいさつ回りってやつは、はっきり言って恥ずい。相手のところにノコノコ行って「よろしくおねしゃ~す」って言うんだ。こんなマヌケな儀式があってたまるか。相手の顔が直視できねえじゃねえか。ちなみに車庫ではパトカーのメンテをするオッサンどもに会った。ガッツリ握手された。

 二階は事務用のフロアになっていた。専門の事務員さんがいる他、守護官もここで報告書とかを書くらしい。影人との戦闘に命を懸けさせておいてデスクワークまでやらせるのか? 守護警察、マジにブラックじゃん。

 三階は守護官の訓練フロアだ。めちゃくちゃ天井が高い。巨大な体育館って感じだ。オレたちが入った瞬間、ざわつきが伝播して視線が集まる。トレーニングウェアを着て筋トレしてるヤツもいれば、柔道着や剣道着を着て試合をやってるヤツもいる。基本的にがっちりした体格の連中で、消防士の皆様ですかって感じだ。そんな連中を前に、莉奈と美雨はそつなくオレを紹介した。

 四階は休憩用のフロアで、食堂やプレイルームや仮眠室があった。オレは食堂のおばちゃんに食事券をもらった。こんなので買収されるオレじゃないぞ。

「五階は後にして、六階に行きましょう」

 六階は指令室だ。前方に会別市の地図が映し出された巨大なスクリーンがあって、そこからすり鉢状にオペレーター用のデスクが並んでいた。NASAかよ? こんな田舎に、こんな設備が必要か?

 七階には署長室をはじめ、お偉いさんの部屋とか巨大で豪華な会議室とかがあった。オレたちはお偉いさんの部屋を一部屋ずつ回った。愛想よく握手するヤツも、塩対応なヤツもいた。権藤署長はいなかった。

 で、オレたちは五階にたどり着いた。五階は操光術の研究フロアだ。適当に挨拶しまくりながら、オレたちは昨日の卵型カプセルのある部屋にやってきた。この部屋の通称は『ラボ』というらしい。

「みなさん! 今日から研修生として七班に配属された闇堂一磨くんです! よろしくお願いします!!」

「お願いしま~す!」

 声を張り上げる莉奈と美雨の横っちょに立って、ぺこりとお辞儀。白衣を着た連中がぱちぱちと拍手する。ゴールだ。これで任務完了だ。

「闇堂一磨君」

 昨日、オレと握手した不愛想な無精ひげの男がやってきた。名札を見ると、灰島という名前らしい。

「レベルⅢにも強化スーツが適合する例がある。試してみるかい?」

 そう言ってブレスレットを差し出す。宝玉のついた環はレベルⅡ+の人が使うのと同じものに見える。

「いや、ノーセンキューだ。着たくないね」

 そういったところに、ちょうど権藤署長もやってきた。

「一磨君、どうだ? 皆と仲良くやっていけそうか?」

「ちょうどよかった。これを見てくれ。オレがこの股間もっこりスーツを着る必要がないってことが分かるはずだ」

 オレはふところから親父の鞘付きシースナイフを取り出して抜いた。上着を脱いで、ワイシャツの左の袖をまくる。そして逆手に持って自分の左腕をぶっ刺す。

「一磨!」

「一磨くん!」

 美雨と莉奈が駆け寄ってくる。

「大丈夫だ、問題ねえ。見てろ」

 そうは言ってもマジに痛い。でも、これが大事なんだ。ナイフを引き抜くと、血がボタボタと床に滴っていく。

「よ~く見ててくださいよ……」

 ナイフを近くのテーブルに置いて、右手に意識を集中させる。治癒のイメージ。オレの右手が白く淡く輝き、オレはその右手で左腕を撫でた。傷が跡形もなく消える。誰も何も言わない。でも、連中の驚きは伝わってくる。

「もう一つ、見せます」

 今度は全身で治癒の光を意識した。これこそオレの切り札。股間もっこりスーツを着たくない。その情熱が生んだ奇跡……ッ!!

「今、全身に治癒光を充満させてます」

 そして、もう一度ナイフを手に取り、左腕を刺した。今度は血が流れない。えぐってみる。それでも、血は流れない。ナイフを引き抜こうとする。引き抜くのに合わせて傷口も消えていき、抜き終えると左腕にはなんの跡も残っていなかった。例えば、水の入った水槽にナイフを突き立ててえぐってみても、ナイフは水をかき回すだけで、引き抜けば水面は元通りになる。それと同じように、ナイフを引き抜いたオレの腕は何事もなかったかのように、そこにあった。そういう感じだ。

「物理無効、というわけです」

「だから強化スーツを着たくない、と?」

 灰島がオレの目を見る。

「そういうことです」

 灰島が権藤署長に視線を移した。

「なるほど。わかった、いいだろう」

 権藤署長が断言した。やったぜ。言ってみるもんだな。

「一応聞いておくが、どうして強化スーツを着たくない?」

 灰島が聞いてくる。

「あの股間のもっこり具合がオレの美意識に反するからです」

「そうか……」

 灰島は顎に手を当てて、考え込むようにした。


 一時間後。結論から言えば、オレの左腕には強化スーツ装着ブレスレットが付けられていた。

「……なぁ灰島さんよ。人の話を聞いてたスか?」

 歯科医院にでもありそうなでかい椅子に座らされたまま、オレは灰島からのモルモット扱いに耐えていた。権藤署長はとうの昔にいなくなってるし、莉奈と美雨も「訓練があるから」とか言ってどっか行っちまった。

「強化スーツへの適合が認められた。だからブレスレットを付けた。それだけのことだ。それから、そのブレスレットには位置情報を管制に送信する機能も付いている」

「まてまて。プライバシーはどこいったスか?」

 オレがいかがわしい店に行かないという保証はどこにもない。

「もちろん、普段は送信しない。スーツ装着時のみだ」

「ああそうスか」

 時計を見ると、正午をまわっている。

「なぁ灰島さん。腹へらね? メシ行かないスか?」

「もうちょっと待って」

 いったい何をやってやがるんだ? それにしても退屈だ。これが守護官の仕事なのか? そう思っていると、廊下から騒がしい声が聞こえて、この研究室のドアが開いた。

「お~いたいた」

 入ってきたのは三人組だ。男二人に女一人。三人ともすごいいい体格をしていて、白い守護官の制服がはちきれそうになっている。挨拶まわりのとき、訓練ルームにいた連中だ。

「よう新人」

 リーダー格っぽい短髪の男が言う。背はそんなに高くないが、体は横に広がっている。筋肉で肥大してる感じだ。

「どうも。なんスか?」

 どう見ても、新人いびりのパターンだ。

「いや、別に?」

 なにをニヤニヤしてやがるんだ。

「腕細いなぁ、そんなんで戦えるのか?」

 このウェイトリフティング体形の筋肉肥満体野郎。お前よりは遥かに戦れるよ。

「戦れるに決まってんじゃないスか。余裕っスよ」

 ぜひこのデブ野郎で試してみたいね。

「でもアニキィ、コイツめっちゃカワイイ顔してますよぉ? アタシ、ちょっと好みかも?」

 オレに顔を近づけながら、女が言った。胸のあたりがむやみに飛び出た外ハネ髪の日焼け女だ。この女は何も分かってない。

「男に向かって『カワイイ』は、ただの悪口っスよ?」

「まあ、そう尖がるなよ新人。俺たちはお前を歓迎してるんだぜ」

 そうは見えねえな。ところでゴリマッチョと日焼け女の後ろにはスキンヘッドの男がいる。背が高くて、打撃系の格闘技をやってそうな体格だ。左手で右の手首のとこを掴んでるが、その腕は筋張って、血管浮き放題になっている。こいつは会話に加わろうって感じじゃない。奥ゆかしいヤツだ。気に入ったよ。

「そういえばお前、知ってるか? 二ヶ月くらいまえ、レベルⅢが大規模な停電を引き起こしたって話」

「……まあ、知ってますけど?」

 二ヶ月くらい前、アメリカの某大都市でのこと。レベルⅢ・属性系の操光術者が街中に現れた影人を狩るために、強化スーツを着た上で、渾身の雷撃を放ったということがあった。空から落ちてきた特大の雷は影人を消し飛ばすだけでなく、道路に大穴をあけ、挙句、大規模停電まで引き起こした。影人を狩るだけなら、レベルⅢはオーバースペック。アメリカの対影人機構は、そんな感じの論調で叩かれまくったらしい。

「お前はそういうことにはならないから、安心だな」

「先輩、怯えてたんスか? よかったっスね、オレが治癒系で。属性系だったら、その筋肉ごと爆散させられてましたもんね?」

「昨日はママのおっぱい飲みながら『死にたくないよう』とか言ってた奴が、今日はやけにイキるじゃねえか」

「どこ情報だよそれ? つーか、先輩、あれだ。なんか見たことあると思ってたら、この前テレビに出てた、彼女の前でだけ語尾に『ニャン』をつけるヤツに似てんだ」

「ガリの玉無しインポ野郎。さっそくお前の初仕事だ。今すぐ署長室に行って、あのじーさんのイボ痔、治してこいよ」

「デブマッチョ先輩、影人にもチンコあるって知ってます? いっぺん掘られてみたらどースか? 人生、変わっちゃいますよ?」

「このガキィ!!」

「やんのかコラァ!!」

「ま~ま~、落ち着いてぇ~」

 外ハネ髪先輩がデブマッチョを押しとどめた。デブマッチョはオレに人差し指を突き付ける。

「おい、せいぜいお荷物にならないように気をつけろよ? 舐めた態度してるとすぐに死ぬぞ? そういうヤツを俺はたくさん見てきた」

 つまんねー脅しだな? そんなんでオレがびびって、みんなの言うこと聞くイイコちゃんになると思ってんのか? いつだってオレはオレなんだよ。

「ま、治癒光ってのがあれば自分の怪我くらい治せるだろ」

 薄笑いするゴリマッチョ。こいつはクズ確定だな。敬語を使う必要を感じねえ。

「あのよぉ、一応言っとく。オレはな、医者なんだよ!!」

 そう、オレは医者なんだ。

「さっきもよ? 署長の権藤がやってきて、オレの前で土下座すんだわ。『たのむ、一磨君! もう誰も死なせたくないんだ!! 任官してくれ!! 頼む!!』ってよ?」

 嘘でもいい。とにかくフカす。それがオレだよ。

「しゃーねーわ。オレもジジイ土下座させたら、それなり誠意見せねえといけねえって知ってっからさ。マジしゃーねー。任官してやることにした」

 舐められてたまるか。決めるぞ。

「オイ!! お前ら!! とりあえずオレに感謝しとけや!! オレがここに来た以上よォ、もう誰も死なねえんだよ!! よかったな? もうお友達とお別れせずにすむってよ!? それもこれもみんな、オレがレベルⅢの治癒系なおかげなんだよ!! わかったか? わかったら語尾に『サー』を付けろ、このクソッタレども!!」

 なんかテキトーに言ってみたけど、ちょっとイイカンジのセリフになったじゃねーか。でも、椅子に座らされたままだから、あんまカッコよくねえな。

「……へえ、そうか」

 なぜかゴリマッチョが笑った。女もつられて笑った。

「……」

 ふたりの後ろに立っているスキンヘッドは目を伏せたままニコリともしない。

「ご清聴、どうも」

 そしてオレは席を立つ。

「灰島さんよぉ、アンタもいつまでやってんだ。オレはアンタのモルモットじゃねー!」

 後も振り返らず、オレは研究室を出た。


 四階の食堂で遅い昼食をとっていると、美雨と莉奈がやってきた。

「やほ、一磨~」

 二人とも朝と同じ白い制服だが、髪の毛がちょっとしっとりした感じだ。訓練終わりにシャワーでも浴びたらしい。

「えへへ~」

 なぜか美雨がご機嫌だ。よく見ると、莉奈もなんか優しいまなざし的なものでオレを見ている。

「なんだよ? なに笑ってる?」

「ねえ、一磨。『もう誰も死なない』って言ったの?」

「あ?」

「『オレがここに来た以上、もう誰も死なない』って言ったの?」

 さっきの話か。あの連中から聞いたのか。

「ああ言ったね。それがどうした?」

 男は舐められたらお終いだ。だから適当にかましておく必要があるんだ。

「ありがと、一磨」

「あ? 何がだ?」

 なぜか美雨の瞳がキラキラしてて、感謝の念みたいなものを感じる。いったい何だ? 莉奈を見ると、やっぱり優しいまなざしで見つめられる。なんなんだ? どうしたんだよ? よくわかんねえから、食事を続行することにする。カツカレーうめえ。

 メシを食い終わって一服していると、莉奈が耳に着けてるワイヤレスイヤホンみたいなのを手で押さえた。

「お? なんだ?」

「影人出現!だね!」

「ええ。七班に出撃命令が出たわ。一磨くん、わたしたち行ってくるから」

「おい、ちょっと待て! オレも行くぞ! モルモット扱いにはうんざりしたんだ。オレも出撃する!」

「だめよ一磨くん」

「さっき見ただろ? オレは物理無効なんだ。死にゃしないし、足も引っ張らない。大丈夫だ、オレを信じろ!」

 適当に並べてみる。莉奈は困惑の表情を浮かべた。

「ねえ、莉奈さん、一緒に行こうよ! 一磨だって七班の仲間なんだもん!」

「……そうね、わかったわ」

 よし。美雨、ナイスフォローだ。

「ふふふっ、一磨、初陣だね!」

「ああ、オレに任せろ。秒で片づけてやるからな」

 治癒光でどう片づけるのかは知らんけど、とにかく初仕事だ。何事も経験だ。オレは座学だと何も学べない人間だからな。


 サイレンを鳴らしたパトカーに乗るっていうのも初体験だ。

 現場近くにパトカーを停めたら後は歩きになる。現場は会別市の中心街にある美術館の前庭らしい。現場に近づくごとに制服警官や陸自から出向してきた連中に誘導されて逃げてくる人たちとすれ違う。ちょっと余裕のある逃げ方だ。まるで軽い気持ちで怪獣映画のエキストラにエントリーした人たちみたいだ。影人が現れて二十年。この世界はどこか影人に慣れ始めてる。人の死はちょっとしたエンターテインメント。そんな雰囲気もちょっとある。

 ところでオレたちは逃げてくる人たちとは逆方向に走っていくわけだが。なんかヒーローものでよく見る光景だ。やがて警戒線が見えてきた。警察と陸自の連中がオレたちを出迎える。

「お疲れ様です! 影人はあそこです。今のところ動く気配はありません」

 確かに影人が美術館の前庭のど真ん中に突っ立っているのが見える。

「お疲れ様です。ここからはわたしたちに任せてください」

 莉奈に頼もしさがある。これが社会人ってやつか。

「あれ、カズマじゃん」

「あ?」

 全く緊張感のないその声に振り返ると、トモキだ。オレの中学校時代のダチだ。トモキの後ろにはオレの知らない連中がいる。たぶん、トモキの高校のダチなんだろう。

「おい、もしかして?」

「そういうことだ」

「マジかよ? お前、守護官?」

「まあ、そうだな」

「へええ?」

 トモキはオレを上から下まで眺めた。

「なぁ、カズマ」

「お、なんだ?」

 オレは期待した。友情あふれる言葉を。「がんばれ」とか「人類の未来を守ってくれ」とか、そういう言葉を。しかし、トモキは言った。

「お前、何色のタイツマンなの?」

 タイツマンとは、テレビの幼児向け番組に出てくるヒーローだ。彼は子供たちに運動や体操の大切さを教えてくれる全身タイツのヒーローだ。オレは返事の代わりに近くで避難誘導をしていた陸自出向組を怒鳴りつけた。

「おい! この民間人どもをとっとと連れ出せやァ!!」

 マッチョどもがダッシュしてくる。

「じゃあなーカズマー!」

 トモキたちは笑いながら運ばれていった。オレは悲しかった。友情ってマジでなんなんだ……。

「一磨! 行くよ!」

「あ? ああ……」

 警戒線を乗り越えて、美術館の前庭に足を踏み入れる。芝生の敷き詰められた広場の真ん中に、影人は立っていた。一歩一歩、影人に近づいていくオレたち。いいね。なんかイイカンジの緊張感だ。

「一磨くんはここにいて」

「おっけ」

 今日は無難に見学するのも悪くない。

「じゃ、美雨ちゃん! 準備はいい!?」

「うんっ! いつでもいけるよ、莉奈さんっ!」

 二人は影人に向かって歩みを進めていく。

「わたしたちは守護官です! あなたを討伐します!」

 莉奈が高らかに宣言した。これはいちいち言わないといけないらしい。なにしろ影人は人間の形をしている。だから彼らが出現した当時から今日まで「新種の人類ではないか」という主張が根強くあった。それに配慮した形で、こういうふうに一声かけることが法律で義務付けられている。あいつらが人語を解するかどうかは知らんけど。

「装着ッ!!」

 ふたりの掛け声に合わせて、光の粒子が二人を包んだ。そして強化スーツを着た二人の姿が現れる。

 莉奈はピンク色、美雨は青色だ。襟元、手袋とブーツは白。そして胸元には、体外に放出できる光の量を増大させられるという例の宝玉みたいなのが埋め込まれている。

 ありえねえ。それがオレの結論だ。ある意味、全裸よりも恥ずかしい。何があっても、オレはアレを着ないぞ。そのオレはといえば、背広スーツを着て、ポケットに手を突っ込み、背中を反り気味に立っていた。どこからどうみても能力者だ。めちゃくちゃ強そうだ。オレかっこいい。

 莉奈と美雨が武器を構える。莉奈は右手に光の剣、左手には光の盾。美雨は昨日オレに見せた、自分の身長くらいの光の大剣を両手持ちにしていた。

 影人が体勢を沈める。二人の光に嫌悪感を抱いたみたいに。そして莉奈の方に突進した。

「オオオ……!」

 影人から声がする。声といっても、洞窟を風が通り抜けるときの風鳴りのような音だ。莉奈は影人が振り下ろした拳をかわし、光の剣で影人の頭部に突きを入れる。切っ先が刺さった部分から、じわっと黒い煙がたった。しかし、影人の動きは止まらない。腕を振って莉奈の剣を外し、なおも莉奈に迫ろうとする。

「たああ!!」

 美雨がそんな影人の背後から斬りつけた。めちゃくちゃ敏捷な動作だ。すごいバネがある。はじめて美雨が守護官っぽい。そんな感じだ。

 影人の背中からぞわわっと黒い煙がたった。振り向きざま、影人の腕が横なぎに美雨を襲う。美雨はそれをバックステップでかわして、そのまま後ろに下がって距離をとる。

 影人は莉奈と美雨に挟まれた形だ。オレと影人までの距離は約十メートルほど。特等席で非日常を味わえてる。悪くないぜ。

 と、莉奈がオレをちらっと見た。そして、盾を前に構えたまま、少しずつオレと影人の間に入るように移動する。そんな莉奈の動きを背中で感じたのか、影人が頭部正面をオレの方に向けた。別に影人に目があるわけじゃないが、なんかオレを見た気がする。これは完全にタゲられた。

「やああああッ!!」

 影人の動きを察知した美雨が影人に斬りかかるが、オレに向けて全力ダッシュを始めた影人はギリギリその刃をかいくぐる。

「一磨くんッ! ……きゃああッ!」

 影人の全力ダッシュに、オレへの進路を塞ごうとした莉奈が吹っ飛ばされる。そして影人は、そのままオレに突進してきた。

「ふむ……」

 いやあ、今日は背広スーツを着てきて、本当に良かった。異能力バトル、はっじまっるよ~! そういうノリだ。オレはイメージする。全身に治癒光が行き渡る、そういうイメージ。オレの体が治癒光で満たされていく。それを感じる。それにしてもこいつ、いいカンしてるな。このパーティーの弱点を莉奈のあの動きだけで察知するとは……。

 衝撃が来た。

「……いた、くない」

 影人の体当たり。体感で十メートルくらい吹っ飛んだ気がするが、もしかしたら、そんなに吹っ飛んでないかもしれない。そして痛くない。いや、ほんとは痛かったのかもしれんけど、痛いと感じる前にフル回復しちまってる。

 反動をつけて起き上がる。

「オオオ……!」

 影人の左フックが迫っていた。とっさに右腕で顔面をかばう。

「……いた、くない」

 またしても吹っ飛ぶが、痛くはない。骨くらい折れたのかもしれんけど、折れたと気づく前に治ったんだろう。治癒光すごーい☆

 それにしても、ものすごい力だ。テレビで守護警察の偉い人が解説してたが、影人の厄介なところは、みんな似たような姿をしているのに、運動能力における個体差の幅がものすごく大きいことだ。下は一般人のレベルから、上は一流アスリートをはるかに超える者までいる。 この影人は……たぶんその中間よりちょい上くらいだろう。

 ちなみにオレの運動能力は並だ。でも、オレには治癒光がある。だからなんとかなるはずなんだ。

 体勢を立て直す。影人は腰を落とした姿勢のまま、オレに頭部正面を向けている。

「くっ……やるじゃねえか……」

 とか言ってみる。異能力バトル感を出すためだ。

「しょうがねえ……」

 オレは右手に意識を集中した。

「こいつを使うしかねえか……」

 だが。オレの右手に纏われた光は、まったく場にそぐわないほど、ほんわかしていた。手から離れた光がふわふわと宙をさまよったあと、ふんわりと空気に溶けていく。おい。なんだこれ。マジか。

 しかも、よく考えると、こいつは人を癒すことしかできない。どうしたもんか。

「一応、試してみるか」

 治癒光を球にする。そういうイメージ。ほんわかした光が、野球のボールのような形をとった。

「そいやっ」

 それを影人に向かって投げてみる。それは影人の頭にあたって、ぽよんと跳ね返り、芝生の上に落ちてぽわんと弾け、空気に溶けて消えた。

「ですよね~」

 ここでみたび影人が突進してくる。オレの実験に付き合ってくれてありがとう。そういう気持ちだ。そして渾身の右ストレートが飛んでくる。左腕で防ぐ。ゴツッと音が鳴る。折れた。でも治った。オレはお返しの右ストレートを放つ。初タッチの影人の体は硬かった。まるでデカいトラックが履いてるゴツいタイヤみたいな感触だ。

 当たり前だが、オレの右ストレートは全く効かなかったようだ。影人はオレの両肩をつかんだ。そして膝蹴り。影人の膝がオレの腹にめり込む。我ながら、めっちゃ痛そう。でも痛くない。オレが前かがみになったところを、影人はオレの首に腕を回して絡みつかせ、後ろに倒れこんで、そのままチョークスリーパーに入る。

「ぐえ~」

 変な声がもれた。ただ、特に意識はもうろうとしてこない。治癒光がオレの全身に酸素を送ってくれてるみたいだ。ありがたいこった。それにしてもどうしよう? オレときたら、特に攻撃のための手段を持ってない。完全に手詰まりだ。しっかし空がきれいだなあ。透き通るような青ってやつだ。首を絞められてなきゃ、お昼寝でもしたい気分だよ。

「……一磨くん! 一磨くん、だいじょうぶ!?」

 莉奈の声が聞こえる。

「……ぐええ」

 首を極められてるせいか、うまく声が出ない。はやいとこ、何とかしてほしい気分。

「一磨ッ!」

 美雨の声も聞こえる。影人の野郎はいっこうにオレの首から離れる気配がない。真面目なヤツだ。

「一磨……」

 美雨がオレの顔を覗き込んだ。その表情は、やがて何かを決心した人間のそれに変わった。

「一磨、いくよっ!」

「ぐえ?」

 美雨は自分の大剣を逆手に持ち、その切っ先をオレの胸板ぴったりに狙いを定めた。

「ぐええ!?」

 いや、ちょっと待て。ふざけんな、おいやめろ。おいこらあああああ!!??

「ぐえええええええええ!!!?」

 美雨は光の大剣で、オレごと影人を刺し貫いていた。オレの背中の方から黒い煙が立ち昇りはじめる。その間も美雨はぐいぐい剣を押し込んでいく。

「~~~~~ッ」

 背中に感じていた影人の感触がなくなっていき、やがてオレはしりもちをついた。最後までオレの首に絡みついていた腕も、黒い煙になって空に舞い上がり、そのままふっと消えてしまった。

 起き上がって後ろを振り返ってみた。影人は影も形もなかった。

「一磨くん、だいじょうぶ?」

「あ、ああ。全然だいじょうぶ」

 オレは常にフル回復するからな。

「本当に?」

 莉奈がオレの体をあちこちまさぐる。ちょっと過保護な気がする。でも悪い気はしない。

「やったね一磨! 初勝利!」

 そしてこいつには一言いっておかなくちゃならない。

「美雨、てめえ! 味方をぶっ刺してんじゃねえよ……ッ!」

「え~? でも一磨、平気なんでしょ? ボク、信じてたもん! 一磨はだいじょうぶだって! ふふふっ、信頼の勝利だね!」

 いったい何を言ってやがるんだ……。ぜったいあたまおかしい。そんな思いを視線に乗せて美雨を見てみるが、美雨はまったく気にした様子もなく、耳にあるワイヤレスイヤホン状のものに軽く触れる。

「討伐、完了しましたっ!!」


 撤収だ。オレたちは再び莉奈の運転する守護警察専用のパトカーに乗っていた。

 オレの初仕事はまあまあだったはずだ。それなのに、現場から引き上げるとき、警官どもや陸自出向組がオレに向けた視線が、ずいぶんと怪訝そうだった。「え? なんだあいつ……」みたいな視線。なんなんだよ。オレだって頑張ってただろ。お前ら見てたじゃねえか。ふざけんじゃねえよ。

 というわけで、今日はもう頑張れない。莉奈に甘えてみたい気分だ。

「なあ、莉奈ぁ。今日はこのまま直帰しねえ? オレ、今日はもう頑張れないかも」

「え? う~ん……」

「ほら、背広スーツの上着も裂けちまったしさ。あ、そうだ莉奈。さっきあいつに体当たり食らってたよな? だいじょぶだった?」

 そう言いつつ、オレは球状にした治癒光を莉奈の後頭部めがけて投げつけまくった。治癒光は運転席をすり抜けて、莉奈の中に入っていく。

「もぉ、一磨くん、やめて。……わかったわ。今日だけ特別よ?」

「やったぜ」

 さすが莉奈だ。話が分かる。昨日の覆面パトじゃなく守護官用のパトだけど、ガレージに突っ込んでシャッターを閉めれば何の問題もない。

「ふふふっ……」

 突然、オレと一緒に後部座席に座っていた美雨が一人で笑い出した。

「……どうした美雨。なんだよ、なに笑ってる?」

 ついにイカレちまったのか? 美雨は笑いを含んだ眼でオレを見た。

「あのね、ちょっと思いついたことがあるんだけど……」

「なんだよ?」

「一磨、怒らない?」

「あ?」

「怒らないって約束して」

「わかった。で、なんだ?」

「あのね、今度から一磨をおとりにすればいいんだよ! それで今回みたいに相手が関節技を仕掛けてきたら、一磨ごと突き刺すの! ね? そしたら簡単に倒せるでしょ?」

 ひどい。ひどすぎる。あんまりだ。

「て、てめえ……」

「ふふふっ、冗談冗談☆」

 なんて女だ。かんぜんにあたまおかしい。オレは影人のサンドバッグじゃないんだ。闇堂一磨っていう、れっきとした一人の人間なんだよ。

 とはいえ、たしかに。莉奈と美雨の腕前からして、このままだとオレの役割はデコイくらいしかなくなる。なんとかしないとな……。


 帰ってくると、オレの家の前に黒塗りの高級車が停まっていた。なんだこの車? マジ邪魔っす~。

「お客さんかなっ?」

「みたいだな」

 それにしても、ウチに客って、マジに久々だ。

 応接間に行くとそこには、女王様然としたおふくろと、オレの知らない男がソファに向かい合って座っていた。入ってきたオレたちを振り返ったその男は、ふっくりした丸顔に愛嬌のある笑顔を浮かべた、白髪のジイさんだ。

「娘たちですわ。それと息子」

 実の息子はついでかよ。まあいい。オレの存在を思い出したというのは進歩だ。

「やあ、こんにちは。お邪魔してますよ」

 ジイさんがオレたちに会釈する。

「一磨、あなたにお話があるそうよ」

 オレたちは顔を見合わせて、そして適当にソファに座る。

「じゃあ、君が一磨君かな?」

「あ、そーっス。ども」

「わたくし、こういうものです」

 差し出された名刺を見た。


【東皇大学医学部付属病院 事務局長 伊賀いがすすむ


「あ、ども。……で? その東大病院の人がどんなご用事で?」

「一磨君、君は操光術レベルⅢの治癒系なんだってね」

 莉奈を見る。機密扱いとか言っといて、めちゃくちゃ漏れてんじゃねえか。

「それ、どこで聞いたんスか?」

「まあ、我々には我々のネットワークというものがあるからねえ」

 愛想よく笑うジイさん。もしかしてウワサの上流階級ネットワークってやつか?

「なるほど。それで? だからどうだって言うんです?」

「見せて……もらえないかな?」

 なるほどな。たしかに医者だったら一度は見ておきたいだろうな。そのためにわざわざ来たのか。まあ、天下の東大相手に張り切っておくのも悪くない。将来的に、何らかの利益につながるかもしれないしな。

「わかりました。そいじゃ、見ててくださいよ」

 オレは懐から本日二度目の出勤になるナイフを取り出し、自分の左腕をぶっ刺した。流れる血が応接間にしつらえられたガラスのテーブルに落ちていく。ナイフを置いて、オレはイメージを練る。この傷を癒す、光のイメージ。

「ほう」

 ジイさんが声を上げた。オレの右手から淡い光があふれてゆらめく。

「これが治癒光っス」

 そして右手で左の腕を撫でる。傷はあとかたもなく消えた。

「……と、ゆーことです」

「なるほどね」

 ジイさんは二度、大きくうなずいた。ちなみにオレが腕を刺したときも、おふくろの接客用の微笑には微塵の動揺もなかった。おいババア、木の棒にナイフ突き立てたんじゃねえんだぞ。

「どうやら……本物のようだね」

「どうも」

 ジイさんが姿勢を正す。

「一磨君。実は君に教授のポストを用意したんだ。ウチに来ないか?」

「はい?」

「ウチの教授にならないか?」

「ウチ? ウチっていうのは東大っスか?」

「そう。君に東大医学部の教授になってもらいたい」

 いったい……いったいこのジイさんは何を言ってるんだ? 頭おかしいのか? イカレちまったのか? いやしかし……オレは治癒光が使える……。そうか、もしかしてそのくらいの地位は望んでもいいと。そうなのか!? そういうことなのか!?

「どうだろう?」

 どうだろう? このオレが東大の教授になる? 夏の模試じゃ、東大医学部を第一志望にして、普通にF判定をくらってたオレが? 東大生を通り越して東大医学部の教授になる? それって……それって最高じゃないスか!!!! やったぜ!!!!

「年俸は……少なくて申し訳ないが、五億円というところで、どうだろう?」

 ついに……ついに巡ってきやがった! このオレにも運ってやつがよ……! ひゃっふー!! 東大医学部の教授で年収五億円! これって人生勝ち組じゃないスか!! 完全に勝ち組じゃないスか!! やった! やったぜ……!! 「あ、ぼくですか? 東大の教授で年収は五億円くらいですかね」「キャーすごい! 抱いて!」ついにやってきたわけだ。人生の春ってやつが……!!

「ちょっと待ってください!!」

 と、美雨が立ち上がった。

「一磨はもう、ボクたちといっしょに戦うって決めてるんですよっ! だって、『もう誰も死なない』って言ってくれたんです! だから、一磨は東大の先生にはなりませんっ!!」

 美雨、何を言ってるんだ、そんな勝ち誇った顔で。違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。ちょっと落ち着こう。オレたちの間には誤解があるようだ。あとでゆっくり話そうじゃないか……。

「ね、一磨!」

「あ? あ~……」

「あの……」

 と、莉奈が口を挟む。

「あなたが一磨くんのことを誰から聞いたのか、それは聞かないことにします。でも、あなたがここに来ることを、守護警察上層部の方は知っているのですか? 一磨くんは操光術者です。操光術者の管轄は、影人討伐法により守護警察にあると定められています。いくら東皇大学でも、独断でそれを覆すことはできません!」

 莉奈。こちらさんはね、そんな正論を聞きに来たわけじゃないんだ。オレに心意気があるかどうかを見に来られたんだよ。そして、ほら、見てごらん。オレの心はこんなにも燃えている。使命感に燃えちまってるんだな。患者さんを救いたい、そういう使命感にさぁ。

「しかしねぇ、他の国でレベルⅢの治癒系といえば、一人を除いて大学病院や国立の医療センターにいるからねえ……」

 莉奈の言葉にも、全く動揺してない。愛想のいい笑顔をまっすぐに莉奈に向けてる。世慣れたジイさんじゃねえか。つーか、一人を除いたらあと二人しかいないじゃん。まるで百人いて、残り九十九人は病院にいますみたいな言い方するじゃん。言葉の印象を操作してやがる……。だが、いいぞ。その調子で説得してくれッ!

「それに影人討伐法が制定されたのはレベルⅢの治癒系が現れる前だ。彼らはイレギュラーな存在だ。彼等の操る治癒光は、影人ではなく人間に対して効果を発揮する。こういった事情を考えると、法の解釈次第で例外的な取り扱いが認められることもあるんじゃないかな?」

 なるほどね。きわめて説得的だ。これはもうしょうがないな。どうやらオレは東大に行くしかなさそうだ。莉奈、美雨、すまない。オレを許してくれ。

「と、とにかく一磨くんは渡しません! どうしてもと言うなら、正式に守護警察長官に話を通してください!!」

 莉奈、形勢が不利と見て、正論をごり押しするつもりか。まずいな。おい、おふくろ。なんとか言ってくれよ。息子が東大医学部の教授になれるかどうか、そういう話なんだよ。医学部進学すら無理そうだった出来損ないの息子が東大医学部の教授になれるかもしれねえんだよ。ほら、言え。言えよ。美雨と莉奈を説得しろ。

 オレの視線を感じたおふくろは、接客スマイルもそのままに言った。

「一磨。お姉ちゃんの言うことを聞きなさい」

 ……終わった。何もかも。伊賀のジイさんよ、あんたがもう少し来るのが早ければ……。いや、これでも最速か。なにせ昨日の今日なんだからな。そうか。それは本当にうれしい。オレの存在を知った瞬間に、教授のポストを用意してくれたってことなんだからな。上流階級ネットワークに感謝だ。でも、そうか、そうだな。それでも、もう少し。もう少しだけ早ければ……。そしたら何もかも違ったかもしれない。オレの人生も、何もかも、まったく違ったかもしれない。そう思うと、悲しい……。


 暇を告げた伊賀のジイさんを、オレは玄関先まで見送った。

 車に乗り込む直前、ジイさんがオレを振り返る。その視線は、たしかにオレに語り掛けていた。

『一磨君、私は君をあきらめないぞ……!』

 オレも視線に想いを込めた。

『はい!! 信じて待っていてください!! オレは……オレは必ず医者になります!!』

 車は去った。

 オレは玄関先で走り去る車の後ろ姿を眺めていた。

「一磨、どしたの?」

「……ちょっと出かけてくる」

「え? どこに?」

「美雨の胸を探す旅だ。見つかるかどうか分からない。長い旅になりそうだ」

「一磨? ボクのおっぱい、ここにあるよ? 見る?」

「いいや、見ない。とにかく行ってくる……!!」

 オレは悲しみとともに駆け出した。


 たどり着いた先はケイトリンズカフェだ。店内は若い女性客やカップルでにぎわっている。

「いらっしゃいませえ! 一名様ですか?」

 ウェイター姿のスチーブ。なぜいるんだ。学校はどうした? と思ったら今日は土曜日だった。どおりでトモキたちが街をうろついてるわけだ。仕事やってると曜日の感覚がなくなっていきやがる。まだ初日やけど。

「相席でいいですか?」

 意味深な笑顔とともに案内された先は一番奥の席。そこには深太先生がいた。さすがスチーブだ、気が利くぜ。オレは向かいに腰掛ける。

「ご注文は?」

「この店で一番高いコーヒーだ。二つ」

「かしこまりました~」

 客の女どもにチラ見されながらカウンターの方へ歩いていくスチーブを見送り、オレは深太先生に向き直った。

「なあ、深太先生。聞いてくれ。ヤバいんだ」

「うん」

 オレは今日の出来事を物語った。いろんなことがあった。でも、最後の東大医学部事件がすべて持って行った。そう感じてた。なにしろオレの人生の中で、オレが最も医者に近づいた瞬間だったからだ。

「その伊賀ってジイさんはよ、昨日の今日で来てくれたんだ。オレがレベルⅢ治癒系だと分かったのが昨日、そして今日には教授のポストを用意して来てくれたんだ。嬉しいじゃねえか。そうだろが?」

「たぶん、守護官たちと個人的なつながりができる前に、って思ったんだろうな。良い判断だと思う。でも、一磨は行かなかったんだ?」

「行きたかったさ。でも阻止されたんだ。護衛どもによ。あと真知子」

「なるほどね……」

「おまたせしました~」

 スチーブがやってきた。オレと深太先生のテーブルに三人分のコーヒーが並ぶ。

「なんで三人分?」

「休憩もらってきた! で、何の話してたの?」

「オレの初出勤の話だよ。いろいろあったんだ……」

「へえ。あ、カズちん、背広スーツ似合ってるよ!」

「どーも」

「でもなんで前が裂けてるの? あ、背中にまで貫通してる」

「それは聞くな。聞くんじゃねえ」

「一磨は東大医学部の教授になり損ねたそうだ」

「え? なにそれ?」

 オレはスチーブにも今日起こった悲劇を説明した。

「へえ~! 上流階級のネットワークってすごいんだね! で、どうして行かなかったの?」

「だから阻止されたんだよ。オレの護衛どもによ。『一磨くんは渡しません!』ってさ。あと真知子」

「……ねえ、カズちん。護衛の人って、もしかして女の人?」

「あ? ああ。二人いて、二人とも女だな」

「へえ、そっか~そうなんだ~」

 なぜかスチーブにジト目で見られる。なに考えてるか知らんけど、たぶん見当はずれなこと考えてる。

「おいスチーブ。オレは女のケツに敷かれるような男じゃねえぞ……」

 オレは筋を通そうとしているだけだ。操光術が使えるようになったのは守護警察の連中のおかげな部分がある。だから最低限の恩返しはしておく。それだけのことなんだ。そして恩返しを終えたとき、オレは心置きなく羽ばたいてやるんだ。

「なぁ二人とも。マジに聞いてくれ。大切なことだ」

 そう言って、オレはコーヒーを一口飲んだ。きっとこの味を、オレは一生忘れないんだ。

「お前らだけでも、覚えていてほしいんだ。あの東大医学部がオレに教授のポストをオファーしたってことをよ。たぶん、これがオレの人生のピークになるだろうからな。お前らは、この先、オレがどんなに落ちぶれたとしても、絶対にこのことを忘れないでほしいんだ。そしてオレを馬鹿にするやつがいたら言ってやってくれ。『アイツは昔、東大病院から教授のポストをオファーされたこともあるんだぜ』ってな。いいか? たのんだぜ……」

 オレという小舟が、人生とかいう暗い海に漕ぎだした。オレはそれを感じていた。オレは残りのコーヒーを一気にあおった。


 ケイトリンズカフェからの帰り道。オレの頭はぐらついていた。カフェインに酔ったんだ。あーあ、か。やれやれだ。悲しいなぁ。そんなことを思いながら、とぼとぼと歩いていた。

 すっかり日は落ちて、街路灯に照らされた道を行く。そのときだ。全く突然だった。オレはなぜか今朝見た夢を思い出したんだ。それも鮮明に。

 夢の中でオレは犬になっていた。野良犬みたいにあてもなく街をさまよっていた。そして立て看板を見つけた。矢印の形をした看板だ。そこにはこう書いてあった。

『カネ、権力、すぐそこ』

 オレはうれしくなってキャンと鳴いた。そして勇んで看板の指さす方向へと走り出したんだ。でもなぜだ。前に進めない。どうしたんだ? 見れば、いつのまにかオレの首には首輪が巻かれてる。そうか、誰かがこの首輪を引っ張ってやがるんだな? 誰だ! 誰が引っ張りやがってるんだッッ!!

 オレは振り返った。そこには美雨がいた。その傍らには莉奈もいる。そして美雨は笑って言うんだ。

「そっちじゃないよ! ほら、こっちだよ!」

 ぐいぐい引っ張られる。オレは引きずられる。おい、オレをどこに連れていくつもりだ!? カネと権力がすぐ目の前にあるのによ!? オレはカネと権力が欲しいんだッ!! おい、そのヒモを離しやがれッッ!! カネっ、権力っ……! よこせっ……!!

 息苦しくなるほどあがいて、そこでオレは目を覚ました。あの首元に残っていた違和感の正体は首輪だったんだ。あの夢は正夢になったんだ。おい、そんなことってあるか? 

「か~ずまっ!」

「あ?」

 顔を上げると美雨がいた。

「おかえり~」

「お前……何やってんだよ?」

「ちょっとお散歩だよ! で、一磨? ボクのおっぱいは見つかった?」

 そういや、そんな口実で出かけたんだなオレ……。

「いや……見つからんかった」

「当たり前だよぉ! だってボクのおっぱい、ここにあるんだもん!」

 そう言って美雨は、ない胸をポンと叩いた。なんつーか……かわいそうだ。

「で? ほんとはどこに行ってたの?」

「まぁ……ダチのところ、だな」

「そっか。今度さ、ボクも連れてってね? 一磨のお友達に会ってみたいもん!」

 オレの憩いの場であるケイトリンズカフェに来るだと? ちきしょう、勝手にしやがれ……ッッ!! 

 オレたちは並んで歩いた。美雨は足取りも軽くて人生楽しそうだ。オレはその隣で悲しみを引きずりながら歩いていた。やがて、家の灯りが見えた……。

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