夏を知らない

沙英

夏を知らない


  彼は「夏」を知りませんでした。

 春の次は秋が、秋の次は冬がきます。それは彼にとっては至極当然のことで、次の1年もそのまた次の1年も同じように季節は巡ってゆきました。


 だから彼は焦げるような暑さも、太陽に照らされてきらりと光り輝く海辺の綺麗さも、夜空へ打ち上がる鮮やかな花火も、それを観終わった後になぜか心の片隅が切なくなることも、眠れないような熱帯夜も、夏の終わりが近づくとどうしてか物寂しくなってしまうことも知りませんでした。


 皆は彼にこう言います。

「夏を知らないなんて、君は人生を損しているよ!こんなに心が踊る季節は他にないのさ。」

「夏なんて知らなくていいよ。暑さだけが体をじりじりと焦がして、全部を奪われてしまう。それなのに最後には何も残らない。虚しいだけだ。」

 どちらも嘘をついてはいません、でもどちらが正しいのか「夏」を知らない彼はには検討がつきませんでした。


 けれどもそんな彼は「夏」のない自身の人生をとても気に入っていたのです。

 満開の桜が町中を染め、時がくれば桜は宙を自由に舞います。心地の良い風に吹かれ、新しい年度が始まり期待と不安が入り交じる、なぜだかそんな気持ちでさえも心地よく感じる春が大好きでした。

 ピンク色の桜が舞った後は、山々の美しく色付いた紅葉が季節の移り変わりを知らせてくれます。読書、食欲、芸術、様々な娯楽をいっぺんに楽しめ、夕暮れが街をオレンジ色に染める、そんな秋が大好きでした。

 そして光に反射して煌めく銀世界を眺めながら温かなスープを飲む朝、お気に入りのコートとマフラーを身にまとい白い息を吐きながら静かな街を歩けば、どこからかしんしんと雪の振る音が聞こえてくる、心が落ち着くそんな冬が大好きでした。


「夏」を知らなくとも彼の人生は十分なすぎるくらい幸せでした。どの季節にも欠点の一つや二つはあります。それでも、彼はそんな欠点さえも含めてその楽しみ方を熟知していました。他の人なら見逃してしまうようなささやかな幸せを見つけることに長けていたのかもしれません。皆の目にはいつもにこにこと笑っている彼が映っていました。

 こんな風に季節が巡り、時が流れて彼はすっかり年老いた彼は自分の足では歩くことが難しくなってきていることを感じていました。それでも春、秋、冬は平等に訪れます。その度に今の自分にできる楽しみ方を模索し最後の最後まで、その人生を謳歌しました。



「彼は最後まで知らずにいたんだなあ」

 友人は呟きました。すると隣いたもう1人の友人続けて言いました。

「知ってるか?『恋のない一生は夏のない1年と同じ』って。」

「あぁ、だから彼は知らなかったのか。」

「でも、いつも笑っていた。いつも、幸せそうだった。それが全てじゃない。人生には色んな形があっていいとこの歳になって彼に気付かされたよ。「夏」を知らない彼は綺麗だった。汗でベトベトになったことなんてないんだろうなあ。ははっ。」 

「確かにそうかもしれないな。おっともうこんな時間だ。…なんだか最近日が伸びてきたと思わないか?そろそろ夏が来るなぁ」

「あぁ、夏が来る合図だな。」

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夏を知らない 沙英 @sae_17

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