摘まれた花の
有理
摘まれた花の
花咲 紫(はなさき ゆかり):
早瀬 透(はやせ とおる):
花咲 慶一郎(はなさき けいいちろう):
薗田 さつき(そのだ さつき):
透N「僕の好きな人は、笑う時よく口元を手で隠す人だ。」
透N「僕の好きな人は、左の薬指に枷をつけた人だ。」
透N「僕の好きな人は。」
透N「僕の好きな人は、摘まれた花だ。」
紫(たいとるこーる)「摘まれた花の」
…………………………………………
カフェ“MUGUE”にて。
透「紫さん!」
紫「あ、早瀬くん。こんにちは。」
透「こんにちは。読書ですか?」
紫「うん、家で読んでもつまらないからお散歩ついでに。」
透「何読んでるんです?」
紫「よく分からない詩集。」
透「え?わかんないんですか?」
紫「そう。ふふ、よくわかんないの。」
透「隣、いいですか?」
紫「どうぞ。早瀬くんは?お仕事?」
透「あ、いや、今日は休みなんです。僕も読書しようかなって」
紫「そう。何読むの?」
透「え、あ、本。忘れちゃいました。」
紫「ふふふ、何それ。読書しにきたのに。」
透「はは。…実は、紫さん来てるかなーって思って来ただけなんです。」
紫「また。おばさんをからかうんじゃありません!」
透「5つしか変わらないじゃないですか!」
紫「早瀬くんが1歳になった時には私はもうランドセル背負ってたのよ。大きな差です!」
透「ははは。いつもそれ、言いますね。」
紫「あーあ。でも、本当によく分からない本を読むって大変ね。」
透「やめればいいじゃないですか。」
紫「読んでみろって言われてるからね。」
透「…旦那さん、ですか?」
紫「…うん。」
透「面白くないって本当のこと言わないんですか。」
紫「私が分からないだけで、世間一般的には面白いものかもしれないでしょう。」
透「自分の価値観で僕は決めますけど。」
紫「…そうね。でもどこかのページは面白いかもしれないし。貰ったんだから、ちゃんと読まなきゃね。」
透「…。」
透N「僕の好きな人は、出会ったときにはすでに誰かの花になっていた。」
紫「あ、もう4時ね。」
透「そうですね。」
紫「そろそろ帰らなきゃ。」
透「あの、紫さん。」
紫「なに?」
透「この前紫さんが言ってたアートフラワーの展示会が来週からあるんです。よかったら、一緒に観に行きませんか?」
紫「え、そうなの?巌水先生の?」
透「はい!」
紫「わあ、それは観たい!あ、でも早瀬くんお休みは日曜日よね。私日曜日は、」
透「有給とるので。僕が合わせますよ。」
紫「いいの?嬉しい!あ、夫に話しておくわ。」
透「…はい。待ってます。また連絡してください!」
紫「ふふ。でも私、早瀬くんの連絡先知らないわ」
透「あ、そうですね、でも」
紫「連絡先くらい、いいと思わない?」
透「へ?」
紫「やましい仲じゃないんだし。世間一般的に。」
透「…はい。じゃあ、」
紫「携帯、貸して?」
透N「渡した携帯を白くて細い指が包み込む。画面をたたくと紫さんのバックからピアノの音がした。」
紫「18時以降は駄目よ。」
透「あ、」
紫「約束、ね。」
透N「奪ってしまいたいとは、なぜか思えなかった。彼女がそれを望んでいないようにみえたから。僕はただこのひと時を噛み締めるようにコーヒーを含んだ。」
…………………………………………
さつき「とーおーるーくん!」
透「あ、ああ。薗田。」
さつき「何してるの?」
透「仕事だよ。」
さつき「こんな表通りのカフェで?あんまり印象ないけど。」
透「気分転換だよ。」
さつき「ふーん。」
透「…なに?」
さつき「べっつにー。誰かといたの?」
透「なんで?」
さつき「だって、透くんブラックコーヒーしか飲まないのに、スティックシュガーのゴミ、置いてあるから。」
透「あ、ああ。うん。さっきまで知り合いと話してたから。」
さつき「知り合い?仕事の?」
透「うーん。そんなとこ。」
さつき「ふーん。」
さつきN「私の好きな人は、嘘が下手だ。」
透「…え。何?」
さつき「通りかかったら見つけたの。一緒に夜ご飯でもどうかなーって思って!」
透「いや、今日はもう帰るよ。」
さつき「そっか。」
透「うん。また明日、会社で。」
さつき「うん。…ねえ!あのさ!」
透「ん?」
さつき「前に私が言ったこと覚えてる?」
透「なに?」
さつき「透くんの彼女に立候補するーってやつ。」
透「飲み会で言ってたやつね。」
さつき「あれ、本気だよ?」
透「僕、好きな人いるって言ったはずだけど。」
さつき「知ってる。相手は知らないけど。」
さつき「それでも、彼女に立候補するのとは関係ないでしょ?もしかしたら、その好きな人にフラれちゃうかもしれないし。そしたら私の顔、よぎるかも、ね?」
透「なんだよそれ、」
さつき「ふふ、前向き思考なの。私。」
透「さすがは営業部のエースだな。」
さつき「ふふん。」
透「どこがいいんだよ、僕なんか。」
さつき「顔。」
透「…顔?」
さつき「タイプなの、顔。」
透「別にモテる顔でもないと思うけど。」
さつき「好きな人の顔がタイプの顔だったんだよ?運命的じゃない?」
透「何言ってんだよ。」
さつき「ビビビッときたの。フィーリング!」
透「…変なの。」
さつき「よく言われる。」
透「じゃあ、僕もう行くから。」
さつき「うん。また明日ね。」
透「じゃ。」
さつきN「私の好きな人は、ヒラヒラと私をかわす一反木綿みたいな人だ。」
…………………………………………
高層マンション最上階。
慶一郎N「俺の妻は高嶺の花だった。」
紫「おかえりなさい。」
慶一郎「ああ。」
紫「はい、鞄。」
慶一郎「いいよ。」
紫の横を通り抜ける慶一郎。
紫「あ、お風呂も入ってるよ。ご飯もできてる。」
慶一郎「今日は外食のつもりだったんだが。」
紫「え?そうなの?」
慶一郎「お前が作ったのか?」
紫「うん。」
慶一郎「そんなことしなくていい。」
紫「でも、冷蔵庫のお魚、悪くなりそうだったし。」
慶一郎「家で食事をするときは家政婦を呼んでるだろう。作らなくていい。」
紫「あなた何にもさせてくれないんだもん。掃除もハウスキーパーの人が来られるし、洗濯もクリーニングだし。」
慶一郎「お前の時間は、お前の好きなことをすればいい。」
紫「…そう。」
紫「ねえ。私の料理嫌いなの?」
慶一郎「いや。」
紫「どうして作らせてくれないの?」
慶一郎「…指でも切ったらどうするんだ。」
紫「…ぷ。ふふふ、」
慶一郎「…なんだ。」
紫「そうそう怪我しないわ。それに切ったって大したことないわよ。」
慶一郎「いいんだ。別に。」
紫「本当、過保護すぎるんだから。」
慶一郎「…。」
紫「でも、どうする?夕食。お店、予約してるんでしょ?」
慶一郎「断るよ。」
紫「…勿体無いものね。ごめんなさい。」
慶一郎「ん。」
電話をかける慶一郎。
慶一郎「19時に予約した花咲です。申し訳ないが、今日はキャンセルさせてほしい。…ああ。料理長には明日伺うと伝えてくれないか。同じ時間でいい。ああ。よろしく伝えてくれ。」
紫「ごめんなさい。連絡しておけばよかったわね。」
慶一郎「気にするな。」
紫「シェフの料理には劣るけれど、食べましょうか。」
料理を取りにキッチンへ向かう紫。
慶一郎「…ご馳走だよ。」
紫「え?何?」
慶一郎「なんでもない。」
紫「あ、詩集。読んだよ。」
慶一郎「そうか。」
紫「私にはちょっと難しかったみたい。」
慶一郎「…そうか。」
紫「あなたの、好きな詩はどれだったの?」
慶一郎「片瀬の雀のところかな。」
紫「へえ。」
慶一郎「…。」
紫「可愛い詩よね。水面に映った自分を親友だと思ってたくさんたくさんお話しする雀。」
慶一郎「ちゃんと読んだんだな。」
紫「読むわよ。」
慶一郎「何渡しても難しかったってしか言わないから、てっきり読んでないものだと思ってたよ。」
紫「そんなことしないわ。」
慶一郎「そうか。」
紫「意地悪なこというのね。」
慶一郎「すまない。そういうつもりじゃ」
紫「ふふ、私も意地悪しちゃった。」
慶一郎「…着替えてくる。」
紫「待ってるね」
慶一郎N「俺はこの花を守っていくと決めた。」
慶一郎N「誰からも傷つけられないように。」
慶一郎N「俺は妻を誰よりも愛している。」
…………………………………………
オフィスビル内。
さつき「お疲れ様ですー。」
透「あ、お疲れです。」
さつき「早瀬さん、お昼、済みました?」
透「え、いや。」
さつき「行きません?隣のビルにパスタのお店入ったんです。」
透「あ、うん。」
さつき「やった!行きましょ!」
携帯と財布だけ手に席を立つ透。
さつき「何食べる?」
透「え?パスタじゃないの?」
さつき「パスタのお店っていってもパスタ以外もあるでしょ?」
透「ああ、パスタのお店ならパスタでいい。」
さつき「えー。つまんない。」
透「昼ごはんにつまんないとかないだろ。」
さつき「こう、カップルみたいな、何食べる?っていうのしようと思ってたのに。」
透「なんだよそれ。」
さつき「ねえ、透くんの好きな人って、」
エレベーター内で透の携帯が鳴り響く。
透「あ。」
透「もしもしっ、」
紫「もしもし早瀬くん?」
透「は、はい!どうしました?」
紫「ううん、用ってわけじゃなかったんだけどね。」
透「はい!」
紫「明日のお昼にまたあのカフェに行くの。もし早瀬くん暇だったら来ないかなって。あ、でもお仕事だよね?」
透「昼休みでもいいですか?」
紫「え、いいの?遠くない?」
透「僕も息抜きにちょうどいいです!あのカフェ好きだし」
紫「じゃあ、12時くらいかな?」
透「いや、13時頃でもいいですか?」
紫「うん。待ってるね。」
透「じゃあ、また明日。」
紫「うん。またね。」
終話。
透「あ、ごめん。」
さつき「ううんー。」
透「…行こうか。」
さつき「そうだね。」
さつき「今の、好きな人?」
透「へ?!いや、ちがうよ。」
さつき「ふーん。テンション上がってたし、そうなのかなと思って。」
透「そんなことなかっただろ。」
さつき「そうかなあ。」
透「…。」
透「…何食べるの?」
さつき「へ?」
透「薗田は何食べるの?昼。」
さつき「…ふふ。ピザかな」
透「パスタ屋なのに?売ってんの?」
さつき「知らないけど。半分こしようよ!」
透「いやだよ。手が汚れるだろ。」
さつき「拭けばいいじゃんー!」
隣のビルへ入って行く2人。
……………………………………………………
高級料亭“高砂”にて
慶一郎「いただきます。」
紫「いただきます。」
慶一郎「…」
紫「…」
慶一郎「…」
紫「…これ美味しいね。」
慶一郎「…ん。」
紫「なに?」
慶一郎「好きならこれも食べるといい。」
紫「ふふ。じゃあ、はい。お返し」
慶一郎「、」
紫「海老しんじょう。好きでしょう?」
慶一郎「あ、ああ。覚えてたんだな。」
紫「うん。」
慶一郎「俺は知らなかった。お前がハスが好きなこと。」
紫「ハス?」
慶一郎「蓮根だよ。」
紫「ハスって言うのね。」
慶一郎「蓮の花、のハスだよ。」
紫「へー。初めて知った。物知りになっちゃった。」
慶一郎「…ふ。」
紫「ふふ。」
紫「今度ね、巌水先生の展示会に行こうと思うの。」
慶一郎「花の?」
紫「そう。」
慶一郎「そうか。いつ行くんだ?」
紫「いつ、いつにしようかな。」
慶一郎「決まったら知らせてくれ。」
紫「お昼に行くのよ?」
慶一郎「俺は行けないけど、その日に行くって知ってるだけでも何かあったとき動きやすいだろ。」
紫「何にもないわよ。」
慶一郎「後悔はしたくないんだ。」
紫「本当に過保護ね。」
慶一郎「いいんだ。」
紫「明日は雨が降るかしらね。」
慶一郎「天気予報では晴れだ。」
紫「そう。雨が降ればいいのに。」
……………………………………………………
表通り、カフェ“MUGUE”にて
透「っ、待ち合わせしてて、」
紫「早瀬くん!」
席を立ち手を振る紫
透「ごめん、待った?」
紫「!、ふふ。」
透「あ、え、あ、あの、すみません、僕咄嗟に」
紫「ううん、今きたとこ。」
透「ああ、恥ずかしい。」
紫「恋人みたいなやり取りね。」
透「…、あ、ホットコーヒー1つ。すみません…急に雨降ってきちゃって、手間取りました」
紫「帰りは、これ使って?」
ビニール傘を差し出す紫
透「え?傘…でも紫さんが、」
紫「私自分の持ってるから。」
持ち手の細い白い傘が見える。
紫「今日天気予報晴れだったから、持ってないんじゃないかなーと思って。さっきそこのコンビニで買ったの。」
透「まさにその通りです…。よく雨が降るなんて分かりましたね。」
紫「たまたまよ。私ね雨の日ここで過ごすの大好きなの。」
透「そうなんですか?」
紫「うん。ここのガラス、雨受けがないから雨水がカーテンみたいになるでしょう。」
透「あー。本当ですね。外がよく見えない。」
紫「ね。密会してる気分になる。」
透「…密会ですか。」
紫「スパイみたいじゃない?」
透「スパイ…はは、紫さんたまに子供みたいなこといいますね。」
紫「憧れるじゃない!女スパイ。」
透「はは。確かに、かっこいいです」
紫「展示会、いつ行くの?」
透「あ、えっとですね…来月末からです。」
紫「来月末…もう寒くなってるかな。」
透「そうですね。今よりはきっと。」
紫「はあ、遠いなあ。」
透「へ?」
紫「展示会、楽しみで待ち遠しいなあって。」
透「そ、そうですよね。…巌水先生の作品みるの僕も楽しみです。」
紫「好みが分かれるかもしれないけれど、私、本当に先生の作品が大好きなの。」
透「はい。」
紫「生涯のテーマが“生と死”なの。お花って綺麗なだけじゃなくて萎れたり枯れたりするじゃない?その風化も全部考えて作られた作品なのよ。」
透「生と死…。」
紫「あまり友達にもオススメしたことないんだけどね。ほら、早瀬くんと出会ったとき、読んでた本。」
透「“恍惚”ですか?」
紫「そう!あれをあんなに熱心に立ち読みしてるんだもん。つい声かけちゃった。」
透「ちょっとみるだけのつもりだったんです。そしたらのめり込んじゃってて。」
紫「どの部分が好き?」
透「あー。そうですね。うーん。あ、でもやっぱり冒頭ですかね。」
紫「うん。」
透「“私ははじめて彼女の顔が歪んだのを見た”」
紫「“それはそれは、恍惚に”」
透「覚えてるんですね。」
紫「早瀬くんこそ。だから、もしかしたら、巌水作品も気に入ってくれるんじゃないかと思って。」
透「それは尚更楽しみになりました。」
紫「早く来ないかな。来月末。」
透「僕も、楽しみです。」
紫「…ねえ、早瀬くん。またこうやってなんでもない日にお茶してくれない?」
透「え?」
紫「退屈なの。家事も仕事もさせてくれないから。うちの夫。」
透「あ、ぼ、僕でいいなら。僕は、その、嬉しいです。」
紫「ありがとう。」
透「はい。じゃあ、僕そろそろ時間終わるので…」
紫「うん。気をつけてね」
透「あの、傘!次返しますね。」
紫「ううん。今日付き合わせちゃったお礼、あ。お詫び?」
透「ありがとう、ございます。」
紫「じゃあ、いってらっしゃい。」
透「っ…い、いってきます。」
…………………………………………………………
紫「“私ははじめて彼女の顔が歪んだのを見た”」
紫「“それはそれは、恍惚に”」
紫「“私はズルいことをしました。それなのに私に下される罰は愛おしく、私に与えられる罪は仄かに鈴蘭の香りがしました。”」
紫「“青い水面の下で、今度こそ。”」
紫「“しあわせに、なろう。”」
紫「…ずるい人ね。私は。」
……………………………………………………………
高層ビル、応接間にて
さつき「私、こういう者です。」
慶一郎「ああ。なかなか引き下がらない営業だと部下が困ってたよ。」
さつき「褒め言葉をありがとうございます。」
慶一郎「営業としては最高の言葉だろう。」
さつき「はい。花咲さんに教わったからには、後輩として活躍しないとですからね。」
慶一郎「別に気を使うことはない。」
さつき「いえいえ、自慢なんですから!言わせてください!」
慶一郎「そうか。」
さつき「今日はうちの新サービスの紹介と、あと、これ。得意先のインスタントスープなんですけどよかったら奥様と。」
慶一郎「インスタント。あまり食べ慣れないな。」
さつき「最近のは意外と美味しいんですよ。」
慶一郎「そうか。ありがとう。いただくよ。」
さつき「そういえば、あれ、どうでした?」
慶一郎「面白かったよ。」
さつき「あの詩集、ベストセラーなんですよ。」
慶一郎「…どの詩が好きだった?」
さつき「へ?あー。雀のやつなんか可愛くて好きでしたよ?」
慶一郎「俺もそれが印象強かった。」
さつき「え!それは意外です。」
慶一郎「…妻にも読ませたんだ。君の持ってくる書物は若い女性に人気があるものばかりだから気にいるかと思って。」
さつき「そうですか。奥様、どれが好きだって言ってました?」
慶一郎「難しかったって言ってた。」
さつき「難しい、ですか。好みもあるんでしょうしね」
慶一郎「昔から趣味が合わないんだ。…それにたまに不思議なことを言う。昔一緒にフラワーアートの展示会に行った時、巌水燈っていう人の作品が偶然行った美術館でやってたんだよ。最終日っていうからせっかくだしって。」
さつき「巌水、燈…あんまり聞いたことない人ですね。」
慶一郎「有名ではないと思う。俺も知らなかった。」
さつき「綺麗でした?」
慶一郎「いや…正直俺はゾッとしたよ。」
さつき「え?でも、フラワーアートでしょ?綺麗だったんじゃ、」
慶一郎「初日は綺麗だったのかもしれないが、最終日に行ったからかほとんどの花は枯れて萎れていたよ。」
さつき「え」
慶一郎「後で調べたら、巌水燈は“生と死”をテーマにしているらしい。」
さつき「奥様びっくりしてたんじゃないですか?」
慶一郎「いや、妻はのめり込むように観てたよ。先に見たゴッホの向日葵よりずっと夢中で。」
さつき「…奥様、すっごい美人なんでしょ?」
慶一郎「ああ。」
さつき「相変わらずの即答ですね。」
慶一郎「事実だからな。俺と歩いている時にも何度もスカウトされてるのを見た。」
さつき「でも尚更興味湧きました。会ってみたいですね。美人でちょっと変わってて、なにより花咲さんがそんなにもベタ惚れしちゃう人。興味津々です。」
慶一郎「誰でも惚れるんじゃないかな。俺が特別なわけじゃなくて。まあ、いつか食事の席をつくろう。」
さつき「はい!では、本題ですけれども…新しいサービスでですね、」
……………………………………………………
カフェ“MUGUE”にて。
透「紫さん何読まれてたんですか?」
紫「あー。これ?ミステリーよ。ベストセラーなんですって。」
透「はは、またつまらないんですか?」
紫「ふふふ。つまらないんじゃなくて私には難しいだけよ。」
透「でもよく、つまらない本を最後まで読めますね」
紫「時間は有限だっていうけど、私には売るほどあるから。」
透「前から思ってましたけど、趣味とかないんですか?」
紫「うん。ないの。」
透「1つも?」
紫「1つも。つまらない人間でしょ?」
透「いや、そんなことは。」
紫「早瀬くんは?ないの?趣味。」
透「僕は、あー。笑わないですか?」
紫「答えによる」
透「もう、えっと、僕、実はネットで小物を作って売ったりしてるんです。強いて言えば、それですかね、趣味。」
紫「え?どんなの?みせてよ。」
透「えっと、これ、僕のサイトで、」
端末の画面を見せる透。
紫「わあ。可愛い。ボトルシップね。」
透「そうです。作業してると無心になれるんです。」
紫「素敵ね。」
透「素人なので、下手ですけどね。」
紫「そんなことない!作品も素敵だし、羨ましい趣味よ。」
透「はは。初めて人に話しました。」
紫「え、秘密にしてるの?」
透「そりゃそうですよ。男がこんなちまちました物をって思うじゃないですか。」
紫「つまらない考えの人はそう思うのね。」
透「紫さんがよくいう、世間一般ですよ。」
紫「ふふ。」
紫「あーあ。もうすぐ時間ね。」
透「あ、本当ですね。」
紫「早瀬くんといる時間はあっという間ね。」
透「僕もそう思います。」
紫「普段の売るほどある時間と同じだなんて信じられないわ。」
透「…。」
紫「じゃあ、いってらっしゃい。」
透「…はい。いってきます。」
出て行く透。
さつき「あ、透くん…」
気づかない透。立ち去る。
………………………………………………………
慶一郎「もしもし。」
慶一郎「来月末。そうか。」
慶一郎「いや、特には。楽しんでくるといい。」
慶一郎「誰と行くんだ?」
慶一郎「…そうか。いや、構わない。今日は20時に店を予約してある。外で食べよう。」
慶一郎「ああ。それじゃ。」
慶一郎「男と、行くのか。」
………………………………………………………
オフィス屋上。
透の手を引き屋上へ行くさつき。
透「…、なんだよ。」
さつき「あの人、誰なの?」
透「あの人って、」
さつき「お昼に話してた人よ。綺麗な栗色の髪の。」
透「!…見てたの?」
さつき「偶然通りかかったの。どういう関係?」
透「…知り合いだよ。」
さつき「好きな人なんじゃないの?」
透「…関係ないだろ。」
さつき「あの人指輪してた。…それ分かってるの?」
透「知ってるよ。」
さつき「…透くん、サイテーだよ。」
透「…別に何にもないよ。」
さつき「…ごめん。」
透「別に。」
さつき「まだ、引き返せるよ。やめたほうがいい。」
透「…。」
さつき「透くん、」
透「…引き返すとか、そういうんじゃなくて…なんにもまだ始まってないんだよ。そういうんじゃないんだ。僕たちは。薗田が思っているような、そんな。夢みたいな関係じゃないんだ。」
さつき「透くん…」
透「あの人は。」
透「寂しい人なんだ。」
………………………………………………
透「薗田。」
さつき「あ…」
透「帰るけど、メシ行かない?」
さつき「う、うん。行く。」
透「駅前のラーメンでいい?」
さつき「うん。」
透「…あのさ。」
さつき「うん。」
透「…何、食べるの?」
さつき「…チャーシュー麺。大盛りで。」
透「大食いだな。」
さつき「やけ食いよ。」
透「体に悪いよ。」
さつき「たまにはいいの。」
透「そうかな。」
さつき「…お昼の、あれ。どう言う意味なの?」
透「なに?」
さつき「寂しい人って。」
透「…ああ。あの人は、なんていうか。」
さつき「うん。」
透「知り合って間もないんだ、僕。ああやって昼時に話をするくらいの、何でもない仲なんだ。」
さつき「うん。」
透「確かに薗田がいうように僕があの人に惹かれてるのは本当だよ。」
さつき「…うん。」
透「でも、あの人はそういうのは求めてないんだ。」
さつき「うん。」
透「誰にも本当のことを言えずに生きてきた、寂しい人なんだ。」
さつき「旦那さんは?」
透「あんまり聞かないから分からないけど、愛されてないとかそういうわけじゃないと思うんだ。」
さつき「透くんには本当のこと言ってるってこと?」
透「僕の前でも下手くそな嘘で取り繕ってるよ。」
さつき「じゃあ、透くんじゃなくてもいいじゃん。」
透「…“恍惚”。」
さつき「え?」
透「“恍惚”って本があるんだ。間藤恭平って人が書いてる。」
さつき「読んだことない。」
透「僕が駅前の本屋で立ち読みしてたら、声をかけられたんだ。その本、私も好きなんですって。」
さつき「…どんな本なの?」
透「なんていうんだろう。こう、独特だよ。多分、世間一般的にはあまり受け入れられないんじゃないかな。」
さつき「ホラー小説?」
透「いや、ホラーじゃないけど。えっと、誰からも本当の自分を受け入れてもらえない、桜っていう女の人の話なんだけど。唯一彼女を受け入れた女性、美代子と運命的に出会うんだ。でも出会えた矢先、美代子が結婚するんだよ。見合いで知り合った男と。」
さつき「うん。」
透「でも、桜は美代子が好きだったんだ。美代子もまた同じ気持ちだった。そんな関係許されない時代設定だったから、2人だけの秘密にしてたんだ。」
さつき「同性愛ってことね。」
透「そうだね。」
透「自分を曝け出せない苦しさと、いい妻を演じるプレッシャーで随分と悩んでる美代子を側で見ていた桜は美代子にこう言うんだ。“あなたの旦那さんを裏切ることはできないから、私と事故に遭ってしにませんか?”って。」
さつき「…え。なんで?どういう心情なの?」
透「僕は、今世では無理だけど来世では一緒にって受け取ったけど著者じゃないから本当にそうなのかはわからないよ。もちろんあの人がどう受け取っているのかも知らない。」
さつき「…その人はなんて言ったの?」
透「受け入れたんだ。“あなたがそう言うのなら、それがいい。”って。」
さつき「…それで?」
透「2人の乗った車はガードレールを突き破って北海道の青い湖に落ちるんだ。それで終わり。」
さつき「…。透くんも、その本好きなの?」
透「僕はストーリーよりも言葉の選び方とか、仕草とかそういうのに惹かれるから。」
さつき「…好きなんだ。」
透「…うん。」
さつき「好きなものが一緒だったから、そういう仲になったんだ。」
透「うん。」
さつき「私も好きだよ。」
透「へ?」
さつき「透くんのこと。」
透「いや、」
さつき「おんなじ好きだよ。だからどうして欲しいってわけじゃないけど。覚えてて。」
透「あ、…うん、でも。」
さつき「言わなくていいよ。知ってるから。」
透「…うん。」
さつき「…たまには、お酒でも飲まない?」
透「…すこしなら、いいよ。」
…………………………………………………
紫「和食を家で食べるのって珍しいよね。」
慶一郎「そうかな。」
紫「いつも和食は高砂で食べるじゃない?」
慶一郎「たしかに。」
紫「…。」
慶一郎「…」
紫「あの、」
慶一郎「今度ー。」(紫台詞に被せて)
紫「あ、ふふ、何?」
慶一郎「今度、展示会、誰といくんだ?」
紫「お友達よ。言わなかった?」
慶一郎「いや、聞いた。」
紫「最近知り合ったの。」
慶一郎「…どこで?」
紫「駅前の本屋さん。」
慶一郎「そうか。」
紫「…“恍惚”読んでたの。彼。」
慶一郎「…。」
紫「珍しくって、つい、声かけちゃった。」
慶一郎「…」
紫「…いけない?」
慶一郎「いや。」
紫「そう。よかった。」
慶一郎「…“恍惚”好きだって?」
紫「ええ。」
慶一郎「そうか。」
紫「…美味しいわね。お刺身。」
慶一郎「あ、ああ。」
慶一郎「いつ、行くんだ」
紫「来月末。言わなかった?」
慶一郎「聞いた。いつだ?」
紫「最後の週の木曜日よ。」
慶一郎「そうか。」
紫「…ふふ、いつまでそうしてるの?」
慶一郎「え?」
紫「お刺身。醤油まみれよ?」
慶一郎「あ、ああ。ごめん。」
紫「塩辛いよーって?」
慶一郎「へ?」
紫「お刺身に謝ったんじゃないの?」
慶一郎「そうじゃないが、」
紫「?」
慶一郎「いや、そうだな。つけすぎた。」
紫「今日はやけに変ね。熱でもあるの?」
慶一郎「…、あ。」
手の甲を慶一郎の頬にあてる紫。
紫「少し熱いわ。酔ってる?」
慶一郎「っ…」
紫「体温計持ってくるわ。」
慶一郎「紫っ…。」
紫の手首を掴む慶一郎。
慶一郎「寝室に。」
紫「食事中よ?」
慶一郎「いいから。」
紫「…そう。」
腕を引かれて寝室へ向かう2人。
紫「どうしたの、急に。らしくない。」
慶一郎「俺らしいって何だ?俺はいつも必死だよ。」
紫「何に必死になるの?」
慶一郎「花を枯らさないように。」
紫「玄関の花なら私がっ」
キスで口を塞ぐ慶一郎。
紫「今朝あげたわよ。お水。」
慶一郎「そうじゃない。」
紫「…なあに?」
慶一郎「俺は、全てには共感できない。でも一緒に風化を楽しむことはできるつもりだよ。」
紫「風化?」
慶一郎「紫。」
慶一郎「あいしてる。」
………………………
紫「あのね、私、大事にされてるってわかってるのよ。」
紫「でも、あなたも私のことどこかで変な人だって思ってるでしょう?」
紫「昔から浮いてたもの。いい加減気づくわ。」
紫「でもね。でも、それでも愛してくれようとしてるの、嬉しかったのよ。」
紫「だから、あなたといることを選んだの。」
紫「理解されなくったって、立派な妻になろうと思ったの。」
紫「だけど、だけどね。」
紫「私と同じものを誰かと共有できる感覚は、何物にも変えられなかった。」
紫「初めてだったの。」
紫「年甲斐もなくうれしくって。」
紫「ダメね。私。妻として失格かな。」
紫「ふふ。優しいのね。」
紫「いつだって、そう。」
紫「温室みたい。」
………………………………………
喫茶“MUGUE”にて
透「紫さん。」
紫「あ、こんにちは。」
透「こんにちは。来週ですね。」
紫「そうね。もう今からとっても楽しみよ。」
透「僕もです。」
紫「約束した日からずっとなんだけどね。」
透「あの。」
紫「なに?」
透「旦那さん、お許し出たんですよね?」
紫「ええ。伝えてるわよ。」
透「…じゃあ、夕食を食べて解散しませんか?」
紫「…夕食?」
透「花を見てすぐに解散よりも、感想言い合ったりしたいなって。やっぱりまずいですか?」
紫「…わからない。私、もう随分夫以外と夕食食べたことないから。」
透「そう、ですか。」
紫「でも、はじめてね。そんな顔するの。」
透「…。気づいているんでしょ。」
紫「…、ねえ。摘まれた花は幸せだと思う?」
透「それ、どういう、」
紫「私はね。摘まれたのよ。私が望んだの。」
透「…しあわせ、なんですか?」
紫「しあわせ、なのかな。今は。」
透「今は?」
紫「摘まれた花はね、いずれ枯れて腐って捨てられるでしょう?待ってるの。私。」
透「それ、幸せっていうんですか?」
紫「そんな花なら、誰も好まないでしょ?」
紫「待ってるの。誰からも好かれないはずの私、本当の私を。」
透「…僕も、待ちます。」
紫「え?」
透「枯れて腐ってしまった花が本当の紫さんなら。僕は待ちます。枯れるのを、腐ってしまうのを。一緒に、待ちます。」
紫「なにいって、」
透「だから、捨てられたら。捨てられたらでいいんです。そしたら、僕にください。」
紫「早瀬くん、」
透「僕。待ってますから。」
紫「あ、」
着信音
透「…どうぞ。僕そろそろ行きますね。」
紫「あ、あの」
透「来週。楽しみにしてます。」
席を立つ透。
紫「…、もしもし」
慶一郎「もしもし。今どこにいる?」
紫「…駅前の、本屋さん。」
慶一郎「俺も近くにいる。映画でも見に行かないか。」
紫「…」
慶一郎「紫?」
紫「ええ、どこで待ち合わせる?」
慶一郎「そのまま本屋にいてくれ、俺が向かうから。」
紫「ええ。」
紫「っ、…」
マフラーとバックをひったくり慌ただしく店を出る紫。
紫N「その日、はじめて私は夫に嘘をついた。」
………………………………………
さつき「透くん、透くん!…透くんってば!!」
透「わ!なんだよ。耳元で叫ぶなよ。」
さつき「何回も呼んでるのに!」
透「デバッグしてたから、集中してたんだ。」
さつき「ふーん。そのaの羅列が?」
透「あ、わ。」
さつき「…悩み?」
透「いや。悩んでないよ。」
さつき「じゃあ病気?」
透「いたって健康。元気です。」
さつき「…恋の病?」
透「…」
さつき「…あ、図星か」
透「違うよ。」
さつき「ふーん。」
透「それで?何?」
さつき「これ。最近ベストセラーの詩集なんだけど、透くんはどの詩が好きかなーって。」
透「あ、みたことあるよ。」
さつき「ほんと?どれが好きだった?」
透「見たの表紙だけ。」
さつき「じゃあ、貸してあげるからさ。」
透「うーん。」
さつき「嫌いなの?」
透「あんまりいい印象ないからさ。」
さつき「そう?面白かったけど。」
さつき「大学時代の先輩にもね、勧めたの。話題になるから何かしらいつも持っていくんだけど。」
透「へー。営業術?」
さつき「まあね!その先輩に昔勉強習ったの。」
透「ふーん。」
さつき「でね、その先輩の奥さん、ちょっと変わった人らしくって。すんごい美人らしいんだけどさ。」
透「うん。」
さつき「透くんも少し変わってるとこあるじゃない?だからそういうのって似たりするのかなと思って。」
透「…。」
さつき「何?」
透「変わってるって、どこが?」
さつき「え?こう、なんかさ、何考えてるのかなーって考えが読めないっていうか。」
透「誰と比べてるの?それ。」
さつき「誰とって、別に。」
透「人それぞれだと思うけど。個性とは見ないんだね。」
さつき「なに、ムキになってるの。」
透「ムキになってないよ。」
さつき「…ごめん。」
透「別に謝ることじゃないだろ。」
さつき「私が変わってるって言ったからでしょ?」
透「いいや。いいんじゃない?それも人それぞれだと思うから。薗田はそれでいいと思う。」
さつき「でも、」
透「読むよ。それ。」
透「その奥さんと同じかどうか。僕も知りたい。」
…………………………………………
慶一郎「ん。」
紫「なに?」
慶一郎「ハス。」
小鉢を差し出す慶一郎。
紫「ハス?」
慶一郎「好きだって言ってただろ?」
紫「あ、ああ、蓮根ね。ありがとう。」
慶一郎「…どうした?」
紫「え?どうもしないわよ?」
慶一郎「映画も身が入らないみたいだったから。」
紫「見てたわよ。面白かった。」
慶一郎「…そうか。」
慶一郎「俺も、面白かったよ。」
紫「そう。」
慶一郎「初めて感想が合ったな。」
紫「…そうね。」
慶一郎「嬉しいよ。」
紫「…ええ。私もよ。」
慶一郎「紫。」
紫「なに?」
慶一郎「愛してる。」
紫「…なあに?急に。」
慶一郎「いや。」
紫「…ありがとう。」
慶一郎「…。ゆか、」
遮る着信音
紫「あ、ごめんなさい。電源切るの忘れてたわ。」
慶一郎「いや、いいんだ。話しておいで。」
紫「ええ。」
席を立つ紫。
慶一郎「…海老しんじょう。」
慶一郎N「空になった小鉢がただただ異様に寂しく見えた。」
紫「もしもし。」
透「紫さん?」
紫「18時以降はダメだって言ったじゃない。」
透「あ、ごめんなさい。」
紫「…ううん。どうしたの?」
透「巌水展があるホールの近くにアネモネっていう喫茶店があるんです。そこで待ち合わせしませんか?」
紫「いいわよ。」
透「今週末、寒いらしくって。雪降るかもーって、天気予報みて。つい…。すみません。」
紫「私寒いの嫌いなの。」
透「あ、じゃあ。」
紫「アネモネに、15時ね。楽しみにしてる。」
透「はい。僕もです。それじゃあ。」
慶一郎「…。」
紫「お待たせ。」
慶一郎「いや。」
紫「…愛してるわ。私も。」
慶一郎「!…ああ。」
………………………………………………
さつき「もしもし。あ、こんばんは。」
さつき「ねえ、お花って興味ある?」
さつき「フラワーアート展なんだけどね。行かない?明日。」
さつき「えー。2日間有給取ってるの知ってるんだよー?」
さつき「経理の潮見さんと仲良いんだもん。」
さつき「なにー?デート?」
さつき「ふーん。」
さつき「…じゃあさ、暇になったら行こうよ。」
さつき「だって、叶わない恋してるんでしょ?」
さつき「連絡してよ。待ってるから。」
……………………………………
慶一郎「ただいま。」
紫「おかえりなさい。」
慶一郎「美容院行ったのか?」
紫「あ、ええ。毛先だけ揃えてもらったの。」
慶一郎「今日寒かっただろ。来週でもよかったんじゃないか?」
紫「明日お花見に行くでしょ?綺麗な格好で行きたいなって思って。」
慶一郎「…そうか。」
鼻歌を歌う紫。
慶一郎「機嫌いいな。」
紫「そう?いつもと同じよ。ワインにする?」
慶一郎「ああ。」
紫「商店街の近くの喫茶店でねー、珈琲豆買ったの。あとで飲まない?」
慶一郎「ああ。」
ソファーのサイドテーブルに“恍惚”が置いてある。
慶一郎「…また読んでたのか?」
紫「え?」
慶一郎「あの本。」
紫「ああ、なんだか読みたくなっちゃって。」
慶一郎「本当に好きなんだな。」
紫「あなたは嫌いなんでしょう?」
慶一郎「嫌いじゃないよ。」
慶一郎「…俺には難しいだけだよ。」
紫「ふふ。そう。」
慶一郎「どこが好きなんだ?」
紫「本?」
慶一郎「そう。」
紫「うーん。」
紫「愛って、選べないじゃない?世間体が邪魔して本当に好きなものは言えなかったりするのよ。それでも彼女たちはずるいから、選んじゃうの。選んだ先にどれだけの不幸と迷惑がかかるかなんて考えなかったのかしらね。」
慶一郎「…」
紫「でも、多分どこかで羨ましいの。決めちゃった彼女のこと。…ふふ。わかる?」
慶一郎「本当に好きなものは、何なんだ?」
紫「私のことじゃないわ。」
慶一郎「俺の前で世間体とか、気にしなくてもいい。」
紫「言ってるわよ。あなたの前で、ちゃんと。」
慶一郎「…その本。北海道の湖に落ちるだろ」
紫「ええ、最後ね。」
慶一郎「行こうか。」
紫「え?」
慶一郎「最近旅行も行ってなかったから。いい機会だ」
紫「今から?」
慶一郎「ああ。」
紫「でも、今からじゃ遅いし飛行機だって取れないわ。また、今度に」
慶一郎「チケットなら取るさ。」
紫「準備だって何もしてないし、」
慶一郎「向こうで買い揃えればいい。」
紫「…でも、明日は」
慶一郎「…紫、行こう。」
紫「…。」
紫「…1番あったかいコート、着てかなきゃね。」
…………………………………………………
さつき「ね!綺麗だったよね。」
透「…うん。」
さつき「知り合いから聞いてたのと全然違ってた。初日だったからかな?」
透「…うん。」
さつき「迫力もあって、本当感動しちゃった。」
透「…うん。」
さつき「…聞いてる?」
透「…うん。」
さつき「なんか食べてく?」
透「…」
さつき「ねえってば。」
透「あ、うん。綺麗だったね。」
さつき「全然聞いてないし。」
透「…。ごめん、考え事してた。」
さつき「今日、なんで来なかったの?好きな人。」
透「わからない。」
さつき「連絡もこないの?」
透「うん。」
さつき「利用されたんじゃない?」
透「…そうかな。」
さつき「でも、透くんも私を利用したでしょ?」
透「!…ごめん。そんなつもりじゃ、」
さつき「いいよ。嬉しかった。」
さつき「きっと誰かの代わりだって分かってても、電話くれたとき本当に嬉しかった。一緒にお花見てくれてありがとう。」
透「…薗田、」
さつき「私にしたら?」
透「え」
さつき「私にしとけばいいのに。」
透「いや、」
さつき「私でいいじゃん。」
透「…。」
さつき「…うそ。意地悪言っちゃった。」
さつき「透くんがその人に利用されてるなら私がそばにいて目を覚まさせてあげるよ。しっかりしろー!とおるーって。」
透「…ごめん。」
さつき「謝らないで!楽しかったんだから。今日。」
透「うん…。」
さつき「じゃあ、私そろそろ帰るね」
透「夜ご飯、食べるんじゃなかったの」
さつき「聞いてたんだ。」
透「うん。」
さつき「じゃあ、ラーメン!食べよ!」
さつきN「泣きそうだった。上の空だった透くんが気まずそうに私の方を向いてることも。いつもは頼まないチャーシュー麺を頼んでることも。時々携帯に目をやることも。全部、全部が泣きそうになった。」
さつきN「せっかく一緒に食べたのに。ラーメンの味は全くしなかった」
…………………………………………………
慶一郎「雪。綺麗だったな。」
紫「ええ。」
慶一郎「お土産はそれだけでいいのか?」
紫「渡す友達、そんなにいないもの。」
慶一郎「そうか。」
慶一郎「…怒ってるのか?」
紫「え?」
慶一郎「いや、巌水展。」
紫「わざとそうしたんでしょ?」
慶一郎「…」
紫「怒ったりしないわよ。残念だったけど。」
慶一郎「ごめん。」
紫「謝らないで。いいのよ。」
慶一郎「紫…」
紫「妻が知らない男の人と親しくなるなんて普通はいい気分しないわよね。私も軽率だったわ。ごめんなさい」
慶一郎「…盗られるんじゃないかって、怖くなったんだ。子供みたいだよな。」
紫「誰も盗ったりしないわよ。」
慶一郎「お前が楽しみにしてたのに。自分勝手なことをした…本当にすまない。」
紫「いいのよ。でもね。慶一郎さん。」
紫「私寒いの、だいっきらいなの。」
慶一郎「っ…」
紫「覚えておいてね。」
慶一郎N「その時、俺は怖くて紫の顔を見ることができなかった。帰りの飛行機で普段通りに接する彼女に、罪悪感でいっぱいだった。いつの間にか俺は彼女にとって居心地のいい温室を、囲うだけの檻に変えてしまったのだろうか。」
紫「ねえ、みて。晴れてるわよ。」
慶一郎N「それでも。隣の席で優しく笑う彼女を手放したくなくて、俺は。」
慶一郎「あいしてるよ、紫。」
………………………………………………
透「あ、」
紫「…あ。」
透「…こんにちは。」
紫「っ、ごめんなさい。私、」
透「いいんです。顔をあげてください。」
紫「楽しみにしてたの、でも、私、」
透「わかってます。」
透「僕、待ってるって言いましたよね。」
紫「そんなの、ダメよ。」
透「紫さん。僕のこと嫌いですか?」
紫「そんなわけ、」
透「じゃあ待たせてください。せめて。」
紫「…ズルい、のよ、私。踏み切る勇気も度胸もないくせに、あなたに会いたいなんて。」
透「待ち合わせの日、僕も誰かの思いを利用してしまいました。」
紫「…え?」
透「僕も、ズルいことをしました。」
紫「…そう。」
透「おんなじです。…紫さん、」
紫「…なに?」
透「紫さんの旦那さんを裏切ることはできないけど、でも、だからと言って僕と事故に遭うのもやめませんか?」
紫「ふ、ふふ。」
透「はは。」
紫「それ、あなたが言うの?」
透「はい。」
紫「ちょっと違うし、おかしいわ。」
透「いいんです。僕は彼女たちとは違う。」
透「僕なら、側で待てます。」
透「僕なら、彼女たちのように今世を途中で諦めたりしない。」
透「僕なら、僕なら。」
透「紫さんの隣じゃなくても、待てますから。」
透「だから、」
紫「あなたは、…っ。」
透N「僕ははじめて、この人の顔が歪むのをみた。」
紫「あなたは、本当に。」
透N「それはそれは」
紫「ズルい人ね。」
透N「恍惚に。」
……………………………………………………
慶一郎「はじめまして。」
透「はじめまして。早瀬です。」
慶一郎「話はよく聞いてるよ。」
透「奥様にはよく相談にのってもらってます。」
慶一郎「相談?」
透「はい。恋愛相談に。」
慶一郎「…そうか。」
透「僕もよく旦那さんのお話聞いてましたよ。」
慶一郎「紫が、俺の話を?」
透「はい。とても優しくて大事にしてくれるって。」
慶一郎「…。」
透「あ、これ僕の知り合いがよく使う営業術らしいんですけど、」
慶一郎「あ、それは」
透「あ。読まれたことありますか?これ。」
慶一郎「ああ。」
透「どの詩がお好きですか?」
慶一郎「…雀が、」
透「可愛いですよね。」
慶一郎「…君は、どの詩が好きなんだ?」
透「僕は、」
透「どの詩も、よく分からなくてつまらなかったです」
紫「お茶淹れたわよ、どうぞ。」
慶一郎「…あ、ああ。」
紫「早瀬くんも、どうぞ。」
透「はい。」
紫N「歪んだ関係はいつかの恍惚のために。」
透N「僕はこの花と、腐敗を選んだ。」
摘まれた花の 有理 @lily000
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