「マッシー、お待たせ。これが私からで、こっちはマスターからね」

「いや、ちょっ、こんなに要らないんだけどっ」


 ウエイトレス姿のしぐれがコーヒーを2杯持ってきた。

 あらかじめ私が注文したのも含め、机には3杯のコーヒーが並ぶ。


「遠慮しなくていいよ。マッシーのバイト先が決まったお祝いなんだし、これは私たちの気持ちだよ」

「だとしたらその気持ち偏りすぎてないか?」


 何も注文したものと同じのにしなくてもいいじゃないか。

 せめて片方は軽食とかにしてくれよな……いや、文句を言える立場じゃないんだけどさ。


「マスターも泣いて喜んでたよ。あの子もようやく働き口が見つかったか! ワシなら絶対に採用しないのに、って」

「おい、そこまで言う理由を聞かせてもらおうじゃないか!」


 冗談だよ、と笑いながらしぐれは言って仕事に戻っていく。

 口ではそう言ってるけれども、あいつのことなのでどこまで冗談なのかわからない。……まあ、実際にそう言われても仕方ないくらいバイトの面接に落ち続けたのも事実だしな。


「……それはさておき、これは由々しき事態だな」


 うーむ、この量をひとりで飲み切れるだろうか? 

 湯気が立ち込める三杯のコーヒーらと睨めっこする。程度はどうあれ、これがしぐれ達からの気持ちなのは確かなので残すのは忍びない。


「…………」


 まあ、コーヒーは私の好物だから大丈夫だろう。そうじゃなくても夕凪のは絶品だからいくら飲んでも苦にならないんだ。無限に飲めると言ってもいい。

 カフェインの過剰摂取で今夜は眠れなくなるかもだが、そこさえ目を瞑れば問題はない。眠れないだけにね。


「さて、と」


 一杯目を半分くらい飲んだところで私は席を立った。

 別に催したわけじゃない。それは、この店内に所狭しと並べらた本を拝借するためだ。

 本好きなマスターの趣味らしく、夕凪にはかなりの数の本がある。その蔵書数はちょっとした地方図書館と比べても何ら遜色ないレベルで、今となっては入手困難な昔の本すらあるらしい。

 それらをコーヒー片手に読んで良いというのだから、本の虫である私にはたまらない。そう、これがコーヒーの味以外に夕凪が好きな理由だ。

 ジャンルや作家別に整理されていないのが気になるとこではあるけれど、そもそも濫読派である私にとっては些細な問題に過ぎない。


 近場の本棚から適当に数冊を見繕い、私は席に戻る。

 さあ、読書タイムの始まりだ──!


「うひゃあ、もうこんなに読んだの? 相変わらずマッシーの読む早さは人間離れしてるね。テレビに出れるんじゃない?」


 と、三杯目のコーヒーを飲み終えて私のお腹がタプタプになった頃、ひとりでホールの業務をこなすしぐれがやってきた。

 あれから数時間が経ったらしい。読書に夢中だったせいで気付かなった。窓から見える外の様子はすっかり暗くなっており、客は私以外に誰もいなかった。


「昔からたくさん読んできたからね。読むのは早い方なんだよ、私」

「……マッシーのはそんなレベルじゃないでしょ。積まれた本の山のてっぺんなんて天井に届きそうじゃん」

「この量だと本棚に返すのが大変そうだよな」

「というか最後の方はどうやって積んだの⁉︎ 背伸びしても届かないでしょ⁉︎」

「それは秘密だよ」


 私はニヤリと笑う。

 この積み方には秘訣があるのだけど、星の数ほどの本を読んできた末にたどり着いた境地なのでそう易々とは教えられない。


「まあ、ちゃんと戻してくれるなら良いんだけどさ。私の仕事は増やさないでよね」

「へいへい」


 しぐれは締め作業をしている最中のようだ。

 20時には閉店する店なので、その30分前ともなれば頃合いか。しぐれは黙々と食器を拭き上げていく。大学ではぐうたらな面しか見てないもんだから、そんな姿を見ていると感心してしまう。


「マスターはもう帰ったの? 見当たらないようだけど」

「今日はお客さんも少なくて暇だったからね。奥さんと一緒に映画を見る約束があるらしくて先に帰ったよ」

「あの人らってもう70過ぎくらいだよね? ラブラブだな。というか、ひとりで任されてるなんてしぐれも頼りにされてるんだね」

「当然だよ。この店は私が回してると言っても過言ではないんだからっ!」

「それは過言だろ」

 

 しぐれはちょっと褒めただけで調子に乗る。

 そんなところも愛嬌のあるこいつの良いところであり、こんな私とでも仲良くしてくれる理由なのかもしれないけれど。

 かけがえのない友人である彼女のことを今後も大事にしよう……まあ、もうちょっと大人になって欲しいが。

 

「私がいたら仕事の邪魔になるでしょ? そろそろ帰るよ」

「帰らなくていいよ! マッシー帰ったら寂しいじゃん! 孤独だよ!」

「それならお言葉に甘えさせて貰うけど……」


 とは言ったものの、働く友人を尻目に待っているだけってのも性に合わない。それに個人経営の小さなお店とは言え、彼女ひとりだと大変だろう。思った私は見よう見まねで手伝うことにした。頑張るしぐれの姿を見たら応援したくなったからな。

 そんな私の助けも甲斐あったのか、締め作業はしぐれが想定していたよりもずっと早く終わったらしい。なんなら最後にお礼の一杯まで頂いてしまった。いよいよ今夜は本格的に眠れない気がする。


「私から誘ったのに手伝ってもらっちゃってありがとうね」

「こっちもご馳走になったことだし、気にしないで。それよりマスターにもよろしく伝えといてね」


 ついでに私のことをどう思ってるのか聞いといてくれると助かる。

 今後のために第三者の私の評価を知っておきたいもんだ。


「この時間に帰れるなら今日はちょっと頑張って自炊しちゃおうかな。まだ駅前のスーパーも開いてるだろうし」

「え、しぐれって自炊すんの?」

「するよ? 料理は好きだしね。冷蔵庫に豚肉があったと思うから、簡単に生姜焼きでも作ろうかな」

「うわ、なんかお前が急に遠い存在なように見えてきたわ……」


 生姜焼きって簡単に作れるもんなのか?

 名前からして肉と生姜を一緒に焼くことは想像つくけど、細かい調理法は知らないぞ。


「マッシーも一人暮らしなら自炊くらいした方がいいよ。節約にもなるしね。あと料理できる方が今後の合コンとかで強いし」

「……しぐれって意外に打算的なところあるよな」


 彼女の知られざる一面に、つい敗北感を感じてしまう。

 モノノといい、この世界にはまだまだ私の知らないことばかりってことか。……帰ったらクックパッドでも見てみよう。


「あれ?」


 帰り支度を終えた私たちが店を出ようとしたとき、最初にその異変に気付いたのはしぐれだった。

 出口の扉に向かっていると前を歩いていたしぐれが急に立ち止まるので、私はその背中にぶつかってしまった。


「痛っ⁉︎ ちょっと、急に止まらないでよ!」

「……な、ないの」

「ないって何がさ?」


 しぐれは今まで見たことないくらい深刻そうな面持ちをしていた。

 店の鍵でも失くしたのだろうか。小さな店内だから二人がかりで探せばすぐ見つかるだろうし、何もそこまで慌てなくていいと思うけど。

 まだ事の重大さに気付けていない私はそんなことを思っていた。


「……扉が、ないの」

「とびらぁ?」


 しぐれに言われて私もその意味を理解する。

 目の前には壁があった。何もない、まっさらな壁──本来ならそこには、外に繋がる扉があるはずなのに。


「ちょ、え、どういうこと?」


 裏口の類がない夕凪には、外へ出るための経路がこの扉しかない。

 こうして私たちは、密室となった夕凪に閉じ込められたのだった。

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