風香り緑が色づく5月上旬。

 

 春を謳うには少し遅く、夏が来たと言うにはまだ早いそんな日の夜──この日はゴールデンウィークの最終日だった。


 思えばこの日が私、上野うえの菜々葉ななはの生き方を大きく左右した人生のターニングポイントだったのかもしれない。


「くしゅん! ……うぅ、やっぱり夜になるとまだ寒いのね」


 日中だと最近は暖かくなってきたもんだから油断したな。


 気温は20度を下回っているくらいだろうか。

 

 頬を撫でる夜風が思いのほか冷たく、トレーナーに短パンという組み合わせで外に繰り出してしまったことに若干の後悔が否めない。

 

「ん? 前にもこんなことがあった気がするけど……はあ、私も学ばないよな──ずずっ!」


 独り言を垂れながら鼻水をすする。


 あいにくティッシュは持ち合わせてない。


「さて、と。行きますか」


 言いながら止まっていた足を動かし始める。


 深夜徘徊もとい夜の散歩の再開だ。


 この連休をほぼ寝て過ごしてしまった自分への戒め(?)として、最終日の今日くらいは一晩中あてもなく歩いてやろうと思い立ったのだ。


 ついでに土地勘のないこの街について知れたら良いなとも思う。


「この数日はほんとに怠惰を極めちゃったからな。今夜だけでも実りのある夜にして連休をまくってやるか」


 ちなみに独り言が多いのは昔からのクセだ。


 誰かが聞いてるわけでもないので構わないけれど、口は災いの元と言う。治せるものなら是非治していきたい。

 

「あーあ、ずっと夜なら良いのに」


 そんなことを本心から願ってしまうくらい私は夜が好きだ。

 

 静かだし、落ち着くから。


 日々の喧騒から離れ、時間の流れが緩やかに感じられるのがたまらなく良い。


「……つーか、早いとこバイト先も決めないとだよな。このままだと貯金が底尽きるのも時間の問題だし」


 大学への進学を機に、この春から一人暮らしを始めた私。


 親の反対を押し切ってのことだったので、資金源といえば幼い頃からためていたお年玉貯金くらい。とは言え所詮は端た金。


 その大半は引越し費用でいとも容易く消し飛んでしまった。

 

 学業が本分! という学生の肩書に甘え、バイトもせずに収入源も持たない私は慢性的な貧困生活と闘っている最中にある。


 いったい最後に一汁三菜の食事を摂ったのはいつだったろうか?


 いい加減に労働にも精を出さなければ、この飽食の時代に飢え死にしてしまうかもしれない──が、しかし。


「働きたくねぇ」


 おっと、つい本音が出てしまった。


 月明かりは人の本性を暴くという。


 18歳の未来ある若者の時分にして、己の知りたくない一面に気づいてしまった。我ながら将来が心配でならない。


「……ん、いつの間にか結構遠くまで来ちゃったな」


 どうやらそんなことを考えている内にかなり歩いていたようだ。


 あたりに見知った建物はなく、土地勘がないのも相まって家からどれくらい離れた距離にいるのかも検討がつかない。


 この街は駅前の方こそ賑わっているもの、ひとたび繁華街から離れるとひと気のない道ばかりが続いているような地方の片田舎だ。


 私の行く先には向こうが見えるほど短いトンネルがあった。


 トンネル内はいくつかの電灯で照らされていたが、そのどれもが明滅していて薄暗い。


 いくら短めとは言え、この不気味な空間を一人で通り抜けるのは相応の勇気がいるだろう。


「…………」


 入り口まであとちょっとのところで歩みを止める私。


 トンネルの中から吹いてくる風は生暖かく、同時に悪寒が背中を走った。


「そ、そそっ、そろそろここらで折り返すとしますかっ!」


 明日は一限で朝も早いからな。


 別にビビってるとかじゃなくて、うん、ほんと合理的に考えた結果だから!。

 

「って誰になんの見栄を張ってんだよ、私は……」


 スマホの時刻を確認すると午前の2時を回っていた。


 実際これくらいで帰路に着くのが潮時だろう。思った私が踵を返そうとした──その瞬間。


 


「……なに、あれ」


 眼前の光景に全身が凍る。


 動き出そうとしていた足は縫い付けられたように地面から離れない。


「だい、じゃ?」


 そう、大蛇。


 トンネルの隙間を埋めつくさんとする規格外の大蛇の顔が、青白く光る双眸でこちらを覗いていたのだ。


 入り口から伸びている胴の部分だけでも10メートルは優に超えており、その太さはトンネルと同等と言っても過言ではない。


 体表を覆う鱗はこの世のどんな黒より黒く、吸い込まれてしまいそうなまでの漆黒のそれは今の暗がりにうまく溶け込んでいた。


 ゴクリ──息を呑んだ。


 呼吸が止まる。


 その場に立ち竦むしかできない私を見て大蛇はチロチロと舌先を踊らせる。


 それから先は一瞬の出来事だった──大蛇は人ひとり飲み込むなんてわけない大口を開け、目にも止まらぬ速さでパクリと私を丸呑みにしたのだ。


 上野菜々葉、18歳。初夏。


 私の人生の分岐点となった、ある夜のことである。

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