8・07


 風香り梅が色づく5月の頭。

 春を謳うには少し遅く、夏の訪れをほのかに感じさせる日の夜のこと──思えばこの日が私、上野うえの菜々葉ななはの人生において今後の生き方を大きく左右した1つのターニングポイントだったのかもしれない。


「くしゅん! ……うぅ、やっぱりまだこの服装は早かったか? 最近はあったかくなってきたとは言え、夜になったらそれなりに冷え込むもんなあ」


 気温は20度を下回っているくらいだろうか。頬を撫でる夜風が思いのほか冷たく、トレーナーに短パンという組み合わせで外に繰り出してしまったことに若干の後悔が否めない。

 

「んー、まあ、着替えに戻るのも面倒だし散歩してたらそのうち体もあったまるでしょ──ずずっ!」


 垂れた鼻水をすする。あいにくティッシュは持ち合わせてない。

 今年から晴れて花の女子大生になった身としては、それは決して褒められた行為でないのは承知だが別に誰が見ているわけでもないのだ。JDに幻想を抱いている層には申し訳ないけれど、彼女たちだって1人の時は所詮こんなもんなんだよ。……多分ね。


「さて、行きますか」


 言いながら止まっていた足を動かし始める。

 独り言が多いのは昔からのクセだ。考えがつい口に出てしまうタチなんだろう。この世に生まれて18年。今になって自分の性分を分析してみた私だったが、そんなことに時間と思考を割けることこそ深夜徘徊もとい夜の散歩の醍醐味なのだ。


「あーあ、ずっと夜なら良いのにな」


 と、夜空に浮かぶ満月を見上げながら呟く。

 昼間が嫌いというわけじゃないが、そんなことを割と本心から願ってしまうくらいに私は夜が好きだ。静かだし、落ち着く。日中の喧騒から離れ、時間の流れが緩やかに感じられるのがたまらなく良い。

 

「……つーか、早いとこバイト先も決めないとなあ。このままだと貯金が底尽くのも時間の問題だし」


 ただ、こうして物思いにふけていると普段の心配事が余計に大きく感じられるがたまにキズ。

 面倒だから日中は考えないようにしているけれど、大学への進学を機に一人暮らしを始めた私は常に慢性的な貧困生活と闘っているのだ。高校卒業までのお年玉貯金で当面はどうにかなるどろうと最初はタカを括っていたものが、その大半は引越しの費用でいとも容易く消しとんでしまい、社会の厳しさを痛感したのはまだついこの間のことである。

 そろそろ何かしらの収入源を確保しなければ、この飽食の時代において飢え死にする羽目になってしまう。が、しかし。


「働きたくねぇ」


 おっと。

 つい本音が出てしまった。


「なーんか割の良いバイトでもあれば良いんだけどさ」


 そもそも平日は大学があるからそんなに働けないし、休日は休日でゴロゴロしたいもん。

 つーか、仕事を覚えるのも面倒ならバイトの上司や先輩に怒られたくもない。あとやっぱり働きたくない。


「……あれ? もしかして私って結構クズの資質ある?」


 月明かりは人の本性を暴くという。

 大好きな夜散歩のはずだったのに自分の知りたくない一面に気づいてしまった。我ながら将来が心配でならない。


「ん。いつの間にか結構遠くまで来ちゃったな」


 どうやらそんなことを考えている内にかなり歩いていたようだ。

 あたりに見知った建物はなく、この街に越してきて間もないせいで土地勘がないのも相まりここがどこなのか検討もつかない。

 私が住んでいるこの街は、駅前の方こそそれなりに発展して賑わっているけれど所詮は地方の片田舎。少し駅から離れたら本当の田舎とそう大差はない。

 周囲に街灯りと呼べるものはなく、強いて上げるとしても整備不良で明滅している数本の街灯と一台も走ってないのに懸命に自分の使命を全うする信号機くらい。

 それらの明るさも夜空に浮かぶ満月には遥かに劣っている。今宵の満月はそれほど煌々とした月光を放ち、眠るこの街を見守っているようだった。

 

「ってか今何時?」


 スマホに目をやると時刻は午前の1時半を回っていた。家を出たのが12時過ぎのことだったので、やっぱりそれくらいは歩いていたのだろう。おかげで体温も上がって家を出た時より幾分か暖かく感じる。

 なんなら少し汗ばんで暑いくらい。

 夜風もえらく生温い。


「当然帰りもあるわけですし、そろそろここらで折り返すとしますか」


 首元を伝う汗を拭いながら踵を返す私。

 来た道を戻れば家に辿り着くわけだが、無意識かつテキトーに歩いてきたもんだからどの道を歩いて来たのかなんて全く記憶にない。

 しかし心配こそするなかれ、スマホには地図アプリがあるのだ。こいつがあれば迷子になる心配もない。


「こんな技術をたかが一市民である私でさえ使えるってんだから凄い時代よな。ほんと科学の進歩には感謝しかないわ」


 科学はいつも赤点ギリギリだったくせして思ってもないことを言いながら、経路案内をすべくスマホのロックを外す──そして地図アプリを開こうとしたとき、スマホの画面は何の前触れもなくブラックアウトした。


「えっ、ええっ!? 嘘でしょ? 充電マックスで家を出たはずなんだけど」


 仮に充電切れだとしてもいきなり落ちやしないはず。少なくともこの機種は通常ならシャットダウンするタイミングで一度画面が切り替わる仕様になっている。

 想定外のことで困惑する私だったが、手元のスマホに落ちていた視線を周囲に上げることで新たな異常事態に気付いた。


「……え、暗っ」


 さっきまで明滅していたはずの街灯らはもとより、誰が見てるでもなく懸命に働き続けていた信号機すらも壊れたかのように光を発していないのだ。

 あたりは月灯りによって最低限の明るさがかろうじで保たれている具合で、この暗さでは見知った道でも帰路に着くのは困難を極めるだろう。


「やばいやばい。知らない場所でこの暗さは怖いって」


 心なしか、何か巨大な物を引きずるような地響きも聞こえてきた。

 察しが悪いと揶揄されることが多い私でも流石に不穏な雰囲気を感じとる。とにかくここから離れなくては。その一心で竦んでいた足に力を込めて駆け出そうとした──次の瞬間。


「……なに、あれ」


 動き出そうとしていた足は地面を離れることなくその場に止まり、目の前の光景に背筋が凍った。


「だい、じゃ?」


 そう、大蛇。

 それはそれは規格外な大蛇が、暗闇の奥から青白く光る双眸でこちらを覗いている。視認できるだけでも10メートルは優に超えており、その太さは電車と同等と言っても過言ではない。体表を覆う鱗はこの世のどんな黒より黒く、吸い込まれてしまいそうなまでの漆黒のそれは今の暗がりにうまく溶け込んでいる。

 ゴクリ──息を呑んだ。

 呼吸が止まる。

 蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだろう。恐怖で身体は固まってしまい、足は地面に縫い付けられてしまったのかというくらい言う事を聞かない。

 その場に立ち竦むしかできない私。それを見て大蛇はチロチロと舌先を踊らせる。それから先は一瞬の出来事だった──大蛇は人ひとり飲み込むなんてわけない大口を開け、目にも止まらぬ速さでパクリと私を丸呑みにしたのだ。


 上野菜々葉、18歳。初夏。

 私の人生の分岐点となった、ある夜のことである。

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