Prologue


「お嬢ちゃん、そこのお嬢ちゃん」


 ある晩のことだ。

 この日はまだエイプリフールが数日前だったこともあり、薄着で出歩くには些か肌寒かったのを覚えている。


「すまないね、いきなり声をかけちゃってさ」

 

 呼びかけの主は背の高い男だった。

 今春から晴れて大学生となった私は、進学を機に一人暮らしを始めたこともあってこの街に越してきたばかり。なので下宿先のアパート周辺を散策がてらぶらぶらしていた次第であり、その途中、薄暗い路地裏を歩いていたところで声をかけられた。


「な、なんですか」

「いやなに、決して怪しい者じゃないんだ。だからそう警戒してくれるなよ。まるで僕がひと気がないのを良いことに女の子に声かけしてるみたいじゃないか」

「……えーと、まるでもなにもその通りだと思いますが」


 男はグレーのパーカーを着ている。フードを目深まぶかに被っているせいで目元がはっきりとは見えないが、声からしてまだ20代くらいだろうか。


「別によこしまな気持ちがあって呼び止めたんじゃないんだよ。嘘じゃない、本当さ。神に誓っても良い──ま、僕は無神論者だけどね」


 言いながら男が笑うものだから私も釣られて愛想笑い。

 男が飄々ひょうひょうとしているものだから余計に反応に困った。距離感が掴めない。


「この場合、こっちから名乗るのが礼儀だよな。僕は芳楼ほうろう仗助じょうすけという者だ。今年で26になる」

「……ご、ご丁寧にどうも」

「それでお嬢ちゃんは?」

「はい?」

「名前だよ、名前」

「私の、ですか──」


 教えていいのだろうか。一瞬、躊躇した。

 けれども変に逆らって男を刺激してしまうかもしれないリスクを考えると、ここは素直に名乗った方が賢明な気もする。私はこのコンマ数秒の判断を信じて言葉を続けた。


「──上野うえの菜々葉ななはです、菜の花のに葉っぱので。あ、えと、今年で19歳になります」


 あっちが勝手に年齢まで言ったもんだから、聞かれてもないのに私まで言ってしまった。……というか名前の書き方まで教える必要はなかった気がする。テンパったせいでつい喋りすぎた。


「ふぅん……上野、ね」


 男はフードのを摘んで更に深く被り直しながら、私の苗字を含みあり気に反芻した。薄暗いせいで表情は見えない。


「ど、どうかしました?」

「いや、何でもないよ。それよりも名前の字面だと草食系のイメージがすごいね、見た目は肉食系なのにさ」

「なっ……!?」


 どこがだよ! 生憎だがそんな見た目をしているつもりはないぞ! 

 今の服装だって動きやすいダル着のスウェットに短パンだ。そりゃあ足の露出はあるかもだけど、それも常識の範囲だろうに。……というか名前の字面が草食系とか生まれて初めて言われたわ。着眼点にクセありすぎだろ。


「あの、ところで何の用ですか? 道案内なら私はこの街に越してきたばかりなので力になれませんけど」

「その心配には及ばないよ。僕は生まれてこのかた道に迷ったことはなくてね。むしろ迷った人を導いてやるが僕の十八番おはこと言っても良いくらいなんだぜ──職業柄ね」

「…………」


 うーん、やっぱり声かけに応じたのは間違いだったか?

 話している感じ危ない人ではないようだがマトモな人でもないようだ。これ以上は関わらない方がいい。そう思ってこの場を後にしようとした私だったけれど、男がそれを許さない。

 後ずさりする私は再び呼び止められてしまった。


「いやね、僕はお嬢ちゃん……あ、菜々葉ちゃんか。とにかく君にはを受け取って欲しくてね」


 言いながら男はポケットから取り出した紙切れを寄越してきた。恐る恐るそれを受け取る私。

 それは何の変哲もない普通の名刺だった。月明かりと明滅する街頭を頼りに、ゆっくりと読み上げる。


「……モノノ導師どうし、芳楼仗助」


 モノノ怪? 導師?

 聞き慣れない言葉だ。


「なんですか、これ──……え?」


 尋ねようとして私が顔を上げると、もうそこに男の姿はなかった。

 すぐに周りを見渡してみたが人影ひとつ見当たらない。

 ここは路地裏の一本道。さっきの男が隠れられるような物陰はなく、この場から立ち去る足音すら聞こえてない。

 つまり男は私が名刺に目を落とした数秒の間に忽然と、まるで煙のように消えてしまったということだろうか。

 

「…………」


 ゴクリと息を飲んで頬をつねる。

 心無しかさっきよりも肌寒い。夜の冷え込みを見誤り、露出のある服装で出てきてしまったからだろうか──いや違う。

 ジンジンと痛む頬をさすりながら、私はしばらくその場に立ち尽くしてしまった。

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