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「それにしても美味しかったなぁ……」


 回らないお寿司やさんの暖簾を初めてくぐった日から数日が経っているというのに、あの余韻から抜け出せない。思い出すだけでもヨダレが出る。

 普段パンの耳ばかり齧っている私にとって板前が握る寿司は、それくらい刺激的で魅力的だったのだ。


「僕くらいの導師どうしになれば、この程度の店なんて訳ないさ。なんてったってこの職業は儲かるからね」


 お会計のとき、芳楼ほうろうさんはそんなことを言っていた。

 たかが河原の石を運んだだけでもあれだけの大金が舞い込むんだから、掛け値なしにしてもその言葉に嘘偽りはないだろう。


「……ゴクリ」


 人間は欲深い生き物だ。

 一度贅沢を経験してしまうと、それを忘れるのはとても難しい。どうしてもその贅沢をもう一度味わいたいという欲が湧いてしまう。

 一応来月には給料が入る予定だけれど、それも借金の返済を差し引いた額だからどれだけあるかはわからない。そりゃ前回分の報酬だけでもかなりの額だったが、そもそもが莫大すぎる借金に比べたら雀の涙程度だ。あまり期待はできない。

 あれから出勤の呼び出しもないことだし、いよいよ来月も貧しい生活を送る羽目になるんじゃないだろうか──と懸念している私はすでに芳楼さんの手の上で踊らされているのだろう。


「今になって思えば、私を回らないお寿司屋さんに連れてってくれたのもあの人の罠だったんだよな。……きっと」


 そう、芳楼さんは私自ら金になる話を持ちかけさせようと手引きさせたに違いない。そしてお誂え向きに付喪つくも式のモノノと思しき案件を抱えていた私はその罠にまんまと嵌ってしまったのだ。

 前置きが長くなってしまったけれど、つまり何を言いたいのかというと私は今からとうを──鍛治鞘かじさやさんを導きに参ろうとしている道中なのである!


「いやまあ、動機が不純なのは私も承知してるよ?」


 でも仕方ないじゃないか。

 私は困ってる人なら誰でも助けてあげようとする正義マンではなく、そのような素晴らしい志を持っちゃいないんだ。だって私は自分の欲望に正直な、ただの利己的な人間なのだから。

 

「というかそれが普通だし!? 私の考え方は至って普通だもん!」


 と、自分を正当化してたときだ。

 独り言にしてはやや大きすぎたかもしれない。


「おう、いつかのデカ乳子じゃねえか。ウチのアパートでどうした?」

「だからその卑猥な人物は誰ですか!?」


 いつの間にか鍛治鞘さんが下宿するアパートまで来ていた私は、たまたま玄関前に立つ鍛治鞘さん本人と出くわした。


「ちょっとからかっただけだ。悪かったな、乳野」

「う・え・の! 上野ですっ!」

「わかったわかった。だから声を荒げるなって。今は夜中なんだ。近所迷惑になるだろ?」

「す、すみません」

「まあ、さっきの独り言もかなりデカかったし、もう手遅れかもしれんがな」


 聞かれてたのかよ。

 めっちゃ恥ずいんですけど……。


「ところでどうしたよ? こんな夜遅くに」

「いえ、あの、ちょっと鍛治鞘さんにお話したいことがあって」


 心の準備が出来ていなかった私はついテンパってしまう。

 そういったのは部屋のベルを押す前に決めようとしていたものだから完全に想定外。鍛治鞘さんのアパートまで来たとは言え、まさか外で会うとは思ってなかった。


「そうか。俺は今帰ってきたとこだったから良いタイミングだったな」

「今ってもう夜中の一時過ぎですよ? 鍛治鞘さんこそこんな時間まで何を……」

「喧嘩だよ。出先でちょっと囲まれちまってな。30人くらいいたせいで時間がかかっちまったんだ」

「さ、30人……」


 ひょえー。

 なんなのこの人? ツッコミどころがありすぎてその気も起こらないよ。


「ま、俺にとっちゃ些細なアクシデントに過ぎんがな。道を尋ねられたようなもんさ」

「いや、そんなノリで30人に囲まれたら堪ったもんじゃないですけど。……というか私ってそんな治安の悪い街に越してきちゃったんですか?」


 向こう四年間はここで暮らす自分の身を案じる私だった。

 そんな無用かもしれない心配も程々に──そして。このまま悠長に立ち話をしている余裕はない。

 思った私は話の腰を折り気味に本題へ入ろうとする。


「鍛治鞘さん。いきなりですけど、今から少し私と付き合ってもらえませんか?」

「前に言ったろ? 俺は自分より強いやつにしか興味がねえんだ。お前と付き合うつもりはねえよ」

「違います! 男女のお付き合いとかじゃなくて!」

「じゃああれか、剣道の突きをやり合うのか? 言っとくが俺の突きは音速を超えるぞ」

「それも違いますって! ただ、今から私に付いて来て欲しいだけですよ!」


 面倒くさいなぁ、この人!

 あと私さりげなくフラれてなかったか!?


「付いて行くってどこにだよ?」

「以前、私と芳楼さんがお話した公園です。なのですぐ近くですよ」

「ああ? 上野の意図が読めねえな。まさかその公園で俺に決闘を挑もうっていう馬鹿が待ち伏せしてるっていう訳でもなさそうだし」

「そりゃそうでしょう! なんで私がそんな手引きをするんですか。……ただ私はもう一度、回らないお寿司屋さんに行きたいだけなんですから」

「……余計に上野の思惑がわからねえよ。しかもそれだと俺にメリットがねえじゃねえか。なのになんで公園にわざわざ」


 鍛治鞘さんの言い分はもっともだ。

 この人にとって私の言ってることは意味不明だろうし、こんな時間に公園へ向かう必要性がわからないだろう。モノノ怪についてつまびらかな説明をできない以上、どうしてもざっくばらんな物言いになってしまう弊害だ。


「……あの日の! 輩に絡まれていた私を助けてくれた恩を返したいんです!」


 苦し紛れにそんなことを言う。

 さっき注意されたばかりだというのに、私はまたもや声を荒げてしまう。


「うるせえよ。そんな大声を出すなっての。……ってか、それはこの前ウチに来たときコンビニで奢ってもらったので精算したはずだぜ?」

「私はもっとちゃんとした形でお礼をさせて欲しいんです。お願いします」

「……ふうん。まあそこまで頼まれたら断りもしないがよ、しょうもないことだけは勘弁してくれよな」

「ありがとうございます!」


 私の腰が砕けるほど美しい直角を描いたお辞儀が効果的だったのか、渋々とは言え鍛治鞘さんに了承してもらえた。

 きっと鍛治鞘さんは私のような弱者の頼みを断れないタチなのだろう。なんせ少年漫画では喧嘩っ早いキャラクターほど正義感が強いと相場が決まっているのだから。


「じゃあ重ね重ね注文して申し訳ないんですけど、例の竹刀だけ持ってきてください。どうしてもあの赤錆び色の斑点模様が浮かんだ竹刀が必要なんです」

「いよいよほんっとに上野の考えてることが皆目見当も付かねえな。……別に良いけどよ」

「すみません。詳しい説明は公園に着いてからしますから」


 その公園にてスタンバイしている芳楼さんが。

 あらぬ誤解を避けたかった私は、部屋から例の竹刀を取って来てくれた鍛治鞘さんにそのことを告げることが出来なかった。

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