017


「……お邪魔します」

「おう。野郎の一人暮らしだから多少は散らかっているが、そこは目をつぶってくれや」


 ほろ酔いを始めとする千円程度の買い物をコンビニで済ませた私は、ことの成り行きで鍛治鞘かじさやさんが暮らすアパートの一室へとお邪魔した。

 その部屋は隅まで掃除が行き届いており、本人の口ぶりとは裏腹に清潔感で溢れている。脱ぎ捨てられた服がそこかしこに散乱している私の部屋の方が、悲しいことによっぽど汚い。


「すいません。いきなり上がらせてもらうことになっちゃって」

「誘ったのは俺の方だから気にすんな。ほら、楽にしろよ」

「ありがとうございます」


 鍛治鞘さんからもらった座布団に腰を下ろしてあたりを見渡す。

 やはり小さい頃から剣道一筋で育ってきた彼だからだろうか。棚には賞状やトロフィーが数多く並べられていた。しかしそれらも中々に目を引いたけれど、特に気になったのはテレビの横に飾られた一振りの竹刀だ。

 一見、それはごく普通の竹刀と変わりないように思えた。ところがよく見ると鍔元つばもとから剣先にかけて赤錆び色の斑点模様が浮かんでおり、普通のとは違う独特の雰囲気を放っている。


「それは死んだ爺ちゃんから貰った竹刀だ」

「え?」

「もう随分と昔の話になるんだけどな。俺の爺ちゃんは剣道の道場をしていたんだ。願掛けってわけじゃないけれど、大事な試合なんかではそいつを使うんだよ」

「そうなんですか。でも、一本の竹刀をずっと使い続けるなんてすごいですね」


 竹刀は消耗品だ。硬い防具を纏った相手に振り下ろすのだから劣化もそれなりに激しい。

 剣道部だった私だからこそわかるけれど、素材の竹が割れたりするせいで一本あたりの寿命はだいたい数ヶ月と言ったところだろう。それを何年も使い続けるとはちょっと聞かない話だ。


「正しく打ってたらそう簡単に竹刀は悪くならねえよ。すぐ壊す奴は打ち方が悪いんだ。下手なんだよ」

「確かに鍛治鞘さんの腕前ならその理屈も通るでしょうが……」

「まあ、そいつを使うのはあくまで試合だけだからな。練習には他の適当な竹刀を使うし」

「なるほど」


 それにしたってヒビ割れ一つない状態を保つのが凄いことに変わりない。きっと普段から手入れをしているのだろう。鍛治鞘さんには大雑把でガサツなイメージを持っていたけれど、そういったマメな一面も持っているのかも。

 整理整頓が徹底されているこの部屋を見ても、それは明らかだった。


「大学に入ってからはどういうわけか変な模様が出てきて気味悪いけどな」

「元々じゃなかったんですか?」

「あんな不気味な竹刀があるかよ。たぶん、湿気で傷んじまったんだと思うぜ。いくら大事に扱おうが環境が問題だとな」

「へえ……」


 竹刀は自然由来の素材で出来ているものだ。そういった原因での劣化は十分にあり得る話ではある。

 しかし、だからと言ってあのような赤錆び色の斑点が浮かぶものだろうか?


「どうでもいい話はそれくらいにしてさっさと本題に入るか。お前も早く家に帰りたいだろ?」

「あ、いや、私のことはお構いなく」

「ばか言うな。このままだとうちに泊めることになるだろうが。それともなんだ。上野、お前もとからウチに泊まる腹づもりか?」

「違いますよ!」

「雰囲気が肉食系っぽいからてっきり勘違いしたぜ。さすがにそこまで図々しくはねえか」


 だから私のどこが肉食系なんだよ。芳楼ほうろうさんにも何度か言われたことがあるので、そろそろそう言われる理由を教えて欲しい。

 窓ガラスに映った自分の顔を見つめ直す私をよそに、ほろ酔いを開けた鍛治鞘さんが語り出した。ピーチ味だ。味覚まで可愛いらしい。


「さて、どこから話そうか。まあ、上野のことを考えると長話するわけにもいかねえし手短に話させてもらうよ。あれは俺が大学に進学するときのことだ。

この大学なら高校よりも強い奴らと練習が出来ると期待していたんだ」

「ウチの大学はスポーツに力を入れてますからね。毎年の剣道部も鍛治鞘さんみたく、全国から屈指の選手を集めていると聞きましたよ」

「上野の言う通りだ。実際に俺も全国で戦ったことのある奴だっていた。ここなら更に俺自身も強くなれると思ったよ──それがどうだ?」


 ぐいと一思いにほろ酔いを流し込むと、鍛治鞘さんはまだ中身の入っているそれを力強く机の上に叩きつけた。勢いで少し溢れる。

 驚く私だったが鍛治鞘さんの絶望しきった表情は見逃さない。


「あいつらはたるんでしまった、腐ってしまったんだ!」

「……と言いますと?」

「練習とは名ばかりで毎日が飲み会三昧さ。時には女にうつつを抜かし、稽古をサボるやつさえいた。やつらは己の自堕落さに溺れたんだよ」

「まあ、それが大学生の矜持でもありますからね」


 大学生は人生の夏休みと呼ばれるほど、それまでの生活が一変して自由になる。単位さえしっかり取ってしまえば文句を言う者もそういないため、つい自堕落な生活を送ってしまうのもよくある話だ。

 高校までは毎日が部活動ばかりだった彼らは、特にその反動が強かったのかもしれない。


「ふざけるんじゃねえ! あいつらは剣の道をより極めるためにうちに進学したわけだろうが! 中には俺みたくスポーツ特待生として迎えられたやつもいるんだぜ。なのに稽古を真面目にする者はいねえときた」


 まだ小学生と練習した方が幾分かマシだぜ。

 そう言い切った鍛治鞘さんは残りのほろ酔いも飲み干し、その空き缶をぐしゃりと握り潰す。すごい握力だ。缶は原型をとどめていない。


「だから教育してやったんだよ。その腐った精神を叩き直してやろうと、俺が直々に稽古をつけてやった。でも生半可な鍛え方しかしてこなかったあいつらがついてこられるはずもない。しまいには勝手に怪我をしやがって俺のせいにされる始末さ」

「じゃあ鍛治鞘さんから一方的に殴ったわけではないんですね」

「いや、それは殴った。面金めんがねが変形する程度にはな」

「あちゃー」


 濡れ衣を着せられたのかと思ったけれど、そんなことはないらしい。

 しかし面金を変形させるってえげつないな。あれってかなりの硬度があるぞ?


「最近はろくな稽古ができないせいで俺まで鈍っちまったよ。戦績も芳しくねえし、これじゃあ死んだ爺ちゃんに合わす顔がねえよ」


 おそらく、亡くなられたお爺様は孫の粗暴さに草葉の陰から肝を冷やしていると思われる。

 暴力からは何も生まれないんだぞ。そんなことを思う私だったけれど、当然、言ったあとのことが怖いので胸の内に留めておいた。

 

「お爺様のことを随分と慕ってるんですね」

「爺ちゃんは俺に剣を教えてくれたからな。感謝してもしきれねえよ」

「……意外です」

「あ? 何がだよ」

「いや、忘れてください! 今のは!」


 危ない危ない。まさか鍛治鞘さんから感謝なんて言葉が出るとは夢にも思わなかったものだから、つい無意識に口から出てしまった。

 でもそれだけ思っているということか。きっと剣道で名を馳せるのは、この人なりの恩返しでもあるのだろう。人斬りの鍛治鞘という物騒な異名は、もうすでに天国のお爺様の耳にも届いていると思うけれど。


「真に強い剣士はを重んじた剣士だって爺ちゃんはよく言っていたっけな。その意味を教えてもらう前に死んじまった今となってはさっぱりだがよ」

「侘び寂び?」

「日本特有の美意識のことだろ? でもそれと剣道に何の関係があるんだよ。どれだけ考えても俺には分からねえ」


 言われて私も考えてみる。

 侘び寂び……の詫びは、置かれている状況に悲観しないでそれを受け入れ楽しもうとする意味だっけ? んで、寂びは枯れたものから趣を感じるという意味だったか? 確かにどちらも剣の強さとは関係がないように思える。


「ああ、くそったれ! 話してたら余計に腹が立ってきやがった。……ちょっと外の風でも浴びてくる」


 立ち上がった鍛治鞘さんの顔はすっかり赤くなっていた。

 虫の居所が悪いこの人をこのまま外に出したら、きっとまた何かしらの事件を起こすに違いない。それくらい喧嘩っ早い人なのだ。

 次の犠牲者が出る前に何とかしないと! 危ぶんだ私は鍛治鞘さんを止めようとするが、どう説得すれば良いのか分からない。玄関へ向かおうとするその背中を見て狼狽えた──が、しかし。


「やべえ、急に立ち上がったら酔いが回った。……気持ち悪ぃ」

「ちょ、どこ行くんですか!?」

「……トイレ」

「ほろ酔い一本で吐くんですか!?」


 下戸とは言っていたけれど、まさかこのレベルとは思っていなかった。鍛治鞘さんは剣道の腕もさることながら酒の弱さも人並み外れているらしい。。


「にしたって弱すぎるでしょ」


 嗚咽する鍛治鞘さんの背中をさすりつつ、私はそんな呆れを独りごちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る