015

 あれから週が明けた月曜日の昼休み、私はしぐれと大学の食堂で昼食をとっている。その最中、しぐれがふと尋ねてきた。


「ねえねえ、菜々なな

「なに? 一口頂戴とかなら無理だからね」

「……相変わらず貧しい菜々にそんな酷なこと言わないよ。そうじゃなくてさ、三年の鍛治鞘かじさやさんの話知ってる?」

「ぶふっ!?」

「うわ、汚いないなぁ!? 噛んでるもの急に吹き出さないでよ! 盛大に私のご飯にかかちゃったじゃんか!」


 しぐれから発せられた記憶に新しいその名前に動揺し、口から咀嚼されたパスタがこぼれてしまった。

 ……せっかく奮発して大盛りを注文したのに、これでは差額分が無駄になってしまったかもしれない。

 

「ごめんごめん。新しいの買ってくるよ」

「当たり前でしょ? このままじゃ餓死しちゃうよ、私!」

「んな、大げさな」

「デザートにアイスも付けてよね」

「なんでだよ! しぐれが食べてた定食だけで良いだろ!」

「慰謝料だよ、慰謝料。お詫び分があるのは当然でしょう?」 

「ぐぬぬ……」


 非があるのはこちらなので言い返せない。仕方なく私はしぐれに言われた通り定食を買い直し、ついでにアイスも買ってきてやった。

 この出費はかなりの痛手だったが、それよりも再び席に戻ったころにはパスタが伸びきっていた私の境遇のがいたたまれない。泣きっ面に蜂とはこのことか。くそ!


「ところでさっきの驚きようは何よ。ただ事じゃない様子だったけれど」

「そりゃ、まあ、ねえ?」

「いや、そんな『察して?』みたいな顔されてもわかんないよ!?」


 先週の金曜のことだ。

 深夜にちょっとコンビニへと出かけた帰り、不幸にも私は輩に絡まれてしまった。そんなところを助けてくれたのが他でもない彼──鍛治鞘しのぎさんだったのである。

 確かに鍛治鞘さんは大学生だと言っていたが、まさか同じ大学だったとは驚きだ。ここら辺はいくつかの大学が集合している、いわゆる学生街なので他の大学だとばかり思っていた。

 

「とりあえず、その鍛治鞘さんがどうかしたの?」

「これはさっきの講義が一緒だった友達から聞いた話なんだけどね、鍛治鞘さんが警察に捕まったらしいよ」

「ええ、なんで!?」


 思わず身を乗り出した。

 向かいに座るしぐれと危うくキスをしそうになる。

 ……もしかすると例の一部始終を誰かに見られていて通報されてしまったのだろうか? コンビニには私たち以外の客は居なかったとは言え、店員は居たわけだ。この線は濃厚だと思う。

 ともなれば殴ったのは鍛治鞘さんでもその原因を作ってしまったのは私だし、そうなると少なからず責任も感じてしまうのだが。


「詳しくは知らないよ。でも暴力沙汰って言ってたかな? なんでも、仲間内で揉め事があったんだって。それで相手は全治数ヶ月の重症」

「仲間内……」


 肉体的にも精神的にもあれだけ物騒な人のことだ。

 そのことの顛末は想像するに難くない。


「捕まってからの鍛治鞘さんはどうなったの?」

「私もその後までは知らないや。でも死刑にはならないと思うよ、おそらく」

「当たり前だろ! たかが喧嘩で死刑になってたまるか!」

「え、そうなの? あれって運とかじゃないんだ」

「…………」


 五月雨さみだれしぐれ。

 彼女は底抜けに世間知らずなのかもしれない……いや、この場合は常識知らずと言った方が適切か。もしくはただのバカ。


「まあ、でも停学くらいの処置はされるだろうね。菜々はどう思う?」

「停学どころか退学だってありえるでしょ。警察まで出て来てるんだから」

「なにバカなこと言ってんのよ。んなわけないじゃん! だってあの鍛治鞘鎬さんだよ? 大学側から彼をみすみす手放すわけないよ」

「どうして?」


 私は首をかしげる。

 しぐれにバカだと言われるのは心外だったけれど、それはさておき、どうして退学はありえないのだろう。評判を下げたくない大学からしたら、鍛治鞘さんのような素行の悪い生徒の籍は置いておきたくないと思うのだが。


「もしかして菜々ってば鍛治鞘さんのこと知らないの?」


 冗談も休み休みにしてくれよと言わんばかりの表情をするしぐれ。

 その本人と話したことすらある私がまさか知らないわけがない。コミュニケーションのツールを拳しか持たない鍛治鞘さんのことだ。その実態は私を助けてくれた正義漢であるものの、やはり粗暴な獣であるのには変わりない。

 しかし、しぐれの口ぶりから察するにそれが彼の暴力的な性格を言っているんじゃないことはわかった。


「……まったく呆れるよ。菜々が情報に疎い世間知らずなのは知っていたけれど、このレベルだったとはね」

「その言葉、お前にだけは言われたくないからな?」

「だって鍛治鞘鎬といえば、この大学に知らない人はいないくらいの有名人じゃん。ちょっとしたスターでもあるんだよ?」

「どうしてさ。そんな勿体ぶらずにさっさと教えてよ」

「人斬りの鍛治鞘──って言えばわかるかな? 一度くらいは耳にしたことあるでしょ」


 ……ああ、確かに。

 言われてみればその物騒な二つ名は聞いたことがあるぞ。しかも一度ではなく、それなりの回数を。どこでだろうか。その記憶は喉元まで出てきてはいるのだが、あとちょっとのところで詰まってしまう。


「小学生のときから高校生のときに至るまで、剣道の全国大会を12連覇したっていう偉業の持ち主だよ。鍛治鞘さんは」

「──!」

「その鬼気迫るスタイルからも、誰が言い出したのか人斬りの鍛治鞘と呼ばれてるんだから」


 なるほど、だからか。

 鍛治鞘さんと出会ったとき、その名前に聞き覚えがあった理由を理解した。

 そりゃあ知っているに決まっている。私はしぐれや他の人以上にに身を置いていたのだから。


「今回の一件で鍛治鞘さんがうちの大学の評判を大きく下げたのは事実かもしれないけど、それでも彼が在籍し続けることによる宣伝効果は計り知れないよ」

「確かにね。鍛治鞘さんのレベルともなればスポーツ特待生として大学もかなりのお金をかけているだろうし、ここであっさり除籍するとは考えづらいかも」


 うちの大学も厄介な人物を抱え込んだものだ。

 剣士としての実績はどうあれ、歩く核弾頭のような鍛治鞘さんを飼いならすのは百獣の獅子よりも難しいと思われる。生半可な鎖をつなぐだけでは微塵たりとも安心はできないだろうに。

 だって鋼鉄製のですら素手で引きちぎってしまいそうだもん、あの人は。


「そういえばさ、しぐれ。さっき高校生までの大会って言ってたけど、大学生になってからの鍛治鞘さんの実績はどうなの?」

「それが鳴かず飛ばずらしいよ。個人戦ではそれなりだけど、団体戦だとてんでダメ。うちの今の代の剣道部は鍛治鞘さん以外に強い選手がいないらしくて、結果も一回戦負けばかりとか」

「剣道の団体戦は一人がいくら強くても意味ないからね」

「でも大学名を宣伝する効果は団体戦の方が大きいんでしょ?」

「そうだね。にしても個人戦ですらそれなりとは妙な話だよ。鍛治鞘さんほどの人なら優勝以外ありえないでしょ」

「ん? いきなりやけに知ったような口ぶりをするね、菜々」

「まあ、画面越しで見る彼に一時は憧れていた時期もあったからね」

「もしかして菜々って……」


 しぐれは私が買ってあげたアイスの最後の一口を飲み込むと、意外そうな顔して訊いてくる。その口元にはクリームがついていた。

 伸びきったパスタをちょうど完食したところだった私は、フォークを置きながらその問いに答える。


「私、中学では剣道部だったんだよ」


 正座ができなくて辞めたけど。

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