012


「くっくっく。それで菜々ななちゃんはその喫茶店にあった本を読み漁ったわけだ。力業ちからわざにもほどがあるね。数ある本の中から隠し山羊を見つけるのは随分と時間がかかっただろうよ」


 ここはとある駅チカのビジネスホテル、そのロビー。

 私はそこで芳楼ほうろうさんに先日の話をしていた。


「笑い事じゃないですって。いったいどんだけ読んだと思ってるんですか」

「うーん、100冊くらい?」

「しめて1688冊ですよ!? 終盤はページのめくりすぎで指紋がなくなると思ったんですからね!?」

「ぎゃははは!」


 抱腹絶倒とはまさにこのこと。芳楼さんは笑い涙をこれでもかと流しながら椅子から転げ落ちた。

 この人はあの場にいなかったから呑気に笑っていられるけれど、当事者としてはこの反応に怒りを覚えそうになる。

 あの日の自分は本当によく頑張った。当分は本がちょっとしたトラウマになりそうなのに。


「芳楼さんが九州なんかに行ってるせいでこっちは大変だったんですからね! 私にお土産のひとつくらいないんですか?」

「じゃあ健気にも懸命に頑張った菜々ちゃんを讃え、僕からこれを贈るとしようかな」


 そう言って芳楼さんが懐から出したのは五百円分の図書カードだった。

 ノータイムでそれを破り棄てた私はそのまま芳楼さんのスネを蹴り飛ばす。

 人に思いっきり暴力を振るったのは初めてかもしれない。私の蹴りは芯を捉えたようで彼はスネを抱えながらうずくまった。


「ひどいことするなぁ! 雇い主である僕に暴力を振るうとはどういう了見だよ!」 

「火に油を注いだのはそっちでしょうが。しかも五百円って。せめてもうちょっと高額なものにしてくださいよ」

「じゃあ一万円分の図書カードの方が良かったってことかい?」

「まず図書カードから離れてくれませんか!?」


 私の怒号がロビーに響き渡る。

 鬼気迫るその様子からただ事ではないと思われたのか、周りの人たちから注目を集めてしまった。


「おいおい、変な誤解をされるからあまり大声を出すなよ。これでも職業柄、人からの信用は大事にしてるんだぜ」

「なら女子大生をいきなり電話でホテルに呼び出さないでくれます? 字面だけなら援交ですよ、これ」

「仕方ないだろ。決まった住まいを持たない僕はこうしてホテルを転々とする生活なんだからよ」

「それはわかりましたけど、最初に電話で『ホテルに来て』と言われたときはビビりましたよ」


 今から一時間ほど前、私は寝ようとして家の煎餅布団に潜り込んだ。そのようなタイミングでスマホが鳴ったのである。

 夜遅くの着信など普段なら無視するところだが、画面に表示された芳楼さんの文字を見てすぐに出た──そして今に至る。

 ホテルに来いと言われたときは面食らったけれど、着いてみればただのビジネスホテルだったので安心して胸を撫で下ろす私だった。


「当たり前だろうが。僕は年上派なんだ。年下である君をそういう目で見た覚えはないぞ」


 嘘をつけ。

 いつもセクハラまがいの言動をとっているくせに。

 

「……ゴホン。いやしかし、よくやったね。方法はどうあれ菜々ちゃんが自力で隠し山羊やぎを攻略したのには変わりないよ。有能な助手を持てて僕も一安心さ」

「まあ芳楼さんの助けがあってのことですけどね」

「謙遜することはない。僕の出したヒントなんて些細なものだよ。これも全部、菜々ちゃんの功績だろう」


 素直に褒められてちょっとだけ照れてしまう。

 私もちょろい女だ。


「でも本当に大変だったんですよ? たまたま運よく隠し山羊が潜んでいた本をその数で見つけられたからいいものの、最悪、夕凪の本を全部読まなきゃいけないところだったんですから」


 後日談みたいな形になってしまうが、どうやらあの日の私の推理は当たっていたようで隠し山羊は本のページとページの間──それこそ行間に隠れていた。

 それからの事態はトントン拍子に進み、すぐさま私としぐれは夕凪から脱出することができたのだ。

 しぐれは今回の件を本心でどう思っているのか定かではないけれど、とりあえずはプラズマ的な何かのせいだと納得しているらしい。

 恐ろしい順応能力と底なしの素直さだ。引き気味に感服する。


「最初から最後まで菜々ちゃんが対峙したことだ。今回でモノノ怪への理解は多少なりとも深まったんじゃないかい? 結果的に君の教育となったようで僕としては儲けもんさ」

「実際に被害に遭った私は何も喜ばしくないですけどね……」

「まあまあ。きっとこの経験も近い将来に役立つんだろうし、そう悲観する必要はないよ」


 そんな将来は切実に来て欲しくないなぁ。

 芳楼さんから奢ってもらったジュースを飲みつつ、心の底からそう思う。


「しかし夕凪を出たときは驚きましたね。私たちは隠し山羊を見つけるために三日間は本を読んでいたというのに、外の世界はまるで時間が進んでないんですもん」

「それは奴によってその店自体が外とは隔絶された異空間になっていたからだろう。あの日は平日だったし、次の日も大学があったんだろう? ちゃんと出席できて良かったじゃないの」

「そういう問題じゃありませんよ。もし閉じ込められたのが夕凪じゃなかったら危うく餓死してたかもしれないんですから」


 あそこが飲食店で助かった。幸いにも食料は冷蔵庫にたくさんあったし、冷暖房も使えたからそれほど精神もすり減らさずにすんだ。指はこれでもかとすり減ったけれど。

 しぐれは最初こそ本を読むのを手伝ってくれたが、終盤は私任せにして食っちゃ寝を繰り返していた。楽観的にもほどがあるだろう。

 あいつはきっと大物になるに違いない。

 今のうちにサインでも貰っておくべきだろうか?


「そういえばてっきり名前ばかりと思ってましたけれど、隠し山羊って本当に山羊みたいな姿をしてるんですね」

「モノノ怪は僕らが認識することによって成り立つ存在──いわば現象と言ってもいいからね。中にはつけられた名前によって姿形を変容させるものもいるんだよ」

「えらくご都合主義なことで」


 まあ、二次元である紙面から三次元へと飛び出したそれを山羊と呼ぶには無理があるかもしれないが。というか紫色だったし、ちょっと浮いていた。

 極め付けにはモゥと鳴いたのだから、疲れていたこともあり変な笑いすらこみ上げてきたものだ。それじゃあ牛だろうに。


「ま、菜々ちゃんには期待しているよ。今後もこの調子で頑張ってくれよな」


 こんなにも嬉しくない期待をかけらたのは初めてだ。

 まだトイレの水をかけられた方が幾分かマシかもしれない。


「おいおい、陵辱プレイは僕の趣味じゃないぜ?」

「あくまで言葉の綾なので本気にしないでもらえます? 人を小馬鹿にするのも大概にしてくださいよね。また叫びますよ?」

「冗談だよ、冗談。もう怖いなぁ、菜々ちゃんは」


 就寝間際に呼び出されても向かうくらいだ。正直なところ、芳楼さんのことを本気で嫌っているわけじゃない。彼には恩があるし、悪い人でもないと思う。

 けれどもその飄々とした性格のせいか長く喋っている疲れてしまう。なんというか、流砂がごとく掴みどころがない。まるで宇宙人を相手にしているような感じ。


「馬鹿言えよ。僕ほど人間臭いやつもそういないぜ? 菜々ちゃんなんかよりもずっと人間じみてるっての」

「それは1688冊もの本を寝ずに読破しきったことについてですか?」

「どう捉えて貰っても構わないよ。まあ、それも十分に人間離れした所業だと思うけどね」


 そうだろうか?

 くらやのときを思い出すと、芳楼さんの方がずっと人間離れしていると思うけれど。


「……まあいいや。過ぎたことを話しても仕方がない。それより菜々ちゃん、電話で言った通り印鑑は持って来てくれたかい?」

「ええ、持って来ましたよ。でも印鑑なんか何に使うんですか」


 言いながらカバンから印鑑を取り出した。

 上野、という変哲のない文字がそこには刻まれている。名前が上野菜々葉なのだから当然だ。


「じゃあこの雇用契約書をよく読んだ上でサインしてくれる? じゃないと給料も振り込めないし」

「はい?」

「あれ、言ってなかったっけ? 一応ウチって株式会社なんだよね。だから法律上それなりに正式な手順を踏む必要があるんだよ」

「意外にちゃんとしてますね……」


 この仕事はてっきり法律とは無縁だと思っていたけれども、割とそこはしっかりしているらしい。……福利厚生が充実していると嬉しいのだが。

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