008


菜々なな、お待たせ。これが私からのサービスで、こっちはマスターから」

「いや、ちょっ、こんなには要らないんだけど」


 ウエイトレス姿のしぐれが二杯のコーヒーを持ってきた。

 あらかじめ私が注文していたのも含め、机には三杯のコーヒーが並ぶ。


「遠慮しなくていいよ。菜々がバイトを始めたことをお祝いしたい私たちからの気持ちなんだから」

「だとしたら気持ちの偏りが過ぎないか? 別に二人合わせてコーヒーにしなくてもいいじゃん」

「マスターも泣いて喜んでたよ。とうとうあの菜々ちゃんもバイトの面接に受かったか! ワシならあの子だけは絶対に採用しないのに、って」

「おい、マスターがそこまで言う理由を聞かせて貰おうじゃないか!」


 冗談だよ、と笑いながらしぐれは仕事に戻っていく。口ではそう言ってるけれども、あいつのことなのでどこまで冗談なのかわからない。

 ……というか、実際にそう言われても仕方ないくらいバイトの面接に落ち続けたの事実だしな。

 私の何が悪いんだろう。原因がわからないと直しようもないわけで、そうなると先の就活もすごく不安だ。ニートにはなりたくない。


「……それはさておき、これは由々しき事態だな」


 うーむ、この量をひとりで飲み切れるだろうか? 

 湯気が立ち込める三杯のコーヒーらと睨めっこする。程度はどうあれ、これがしぐれたちからの気持ちなのは確かなので残すのは忍びない。


「…………」


 まあ、コーヒーは私の好物だから大丈夫だろう。そうじゃなくても夕凪のは絶品だからいくら飲んでも苦にならないんだ。無限に飲めると言ってもいい。

 カフェインの過剰摂取で今夜は眠れなくなるかもだが、そこさえ目を瞑れば問題はない──眠れないだけに。


「さて、と」


 一杯目を半分くらい飲んだところで私は席を立った。

 カフェインには利尿作用があるけれど、別に催したわけじゃない。それは、この店内に所狭しと並べらた本を拝借するためだ。

 本好きなマスターの趣味らしく、夕凪にはかなりの数の本がある。その蔵書数はちょっとした地方図書館と比べても何ら遜色ないレベルで、今となっては入手困難な昔の本も揃えられており素晴らしいの一言に尽きた。

 それらをコーヒー片手に読んで良いというのだから、本の虫である私にはたまらない。そう、これが私のお気に入りスポットランキング上位に夕凪が並ぶ最大の理由なのだ。

 ジャンルや作家別に整理されていないのが気になるとこではあるけれど、そもそも濫読派だった私にとっては些細な問題に過ぎなかった。


 近場の本棚から適当に数冊を見繕い、私は席に戻る。

 さあ読書タイムの始まりだ──!


「うひゃぁ、もうこんなに読んだの? 相変わらず菜々の本を読む速さには目を見張るものがあるね」


 と、私の腹が三杯目のコーヒーを飲み終えてタプタプになった頃、ひとりでホールの業務をこなすしぐれがやってきた。

 夢中で読んでいたので気づかなかったが、あれから数時間が経ったらしい。窓から見える外の様子はすっかり暗くなっており、客は私以外に誰もいなかった。


「昔からたくさん読んできたからね。読むのは早い方なんだよ、私」

「……菜々のはそんなレベルじゃないでしょ。積まれた本の山のてっぺんなんて天井に届きそうじゃん」

「この量だと本棚に返すのが大変そうだよな」

「というか最後の方はどうやって積んだの!? 背伸びしても届かないでしょ!?」

「それは秘密だよ」


 私はニヤリと笑う。

 この積み方には秘訣があるのだけど、星の数ほどの本を読了してきた末にたどり着いた境地なのでそう易々とは教えられない。

 しぐれはめ作業をしている最中だったらしく、私たち以外に誰もいなくなった夕凪の店内を黙々と片付けていた。こいつにも真面目な一面もあるらしい。大学ではぐうたらな面しか見ないものだから感心してしまう。


「マスターはもう帰ったの? 見当たらないようだけど」

「今日はお客さんも少なくて暇だったからね。あとは私ひとりに任せても大丈夫だろうって言って先に帰ったよ」

「へえ、ひとりで任されてるなんてしぐれも信用されてるじゃん」

「当然だよ。夕凪は私が回してると言っても過言ではないんだからっ!」

「それは過言だろ」


 しぐれはちょっと褒めただけで調子に乗ってしまう。そんなところも愛嬌のあるこいつの良いところであり、こんな私とでも仲良くしてくれる理由なのかもしれないけれど。

 かけがえのない友人である彼女は、今後とも大事にしよう。

 そんなことを思う。……まあ、もうちょっと大人になって欲しいが。

 

「私がいたら仕事の邪魔になるでしょ? そろそろ帰るよ」

「帰らなくていいよ! 菜々まで帰ったら寂しいじゃん! 孤独だよ!」

「それならお言葉に甘えさせて貰うけど……」


 とは言ったものの、いくら夕凪が個人経営の小さな店だとしても彼女ひとりでは大変だろう。そう思った私は見よう見まねで手伝うことにした。頑張るしぐれの姿を見ていたら応援したくなったからな。

 そんな私の助けも甲斐あったのか、締め作業はしぐれが想定していたよりもずっと早く終わったらしい。

 なんなら最後にお礼の一杯まで頂いてしまった。いよいよ今夜は本格的に眠れない気がする。


「手伝ってくれてありがとね、菜々」

「いいよ、マスターにもよろしく伝えておいて」


 ついでに私のことをどう思ってるのか教えて欲しい。

 しぐれにそれを言ったところで無駄だと思うので言わないけど。


「これなら早く帰れるし、観たかったドラマもリアルタイムで観れるよ!」

「それってどんなドラマなの?」

「主人公は冴えない中年サラリーマンなんだけど、ふとしたきっかけで主人公は男にだけにモテるようになるの。そして上司や部下をたぶらかしながら出世していく王道正統派BL成り上がり物語だよ」


 王道正統派BL成り上がり物語ってなんやねん。

 私はそんなジャンル聞いたこともないぞ。


「そ、それ面白い?」

「すごく面白いよ。近々映画化もする予定だね」

「まじですか……」


 モノノといい、まだまだ世界には私の知らないことで溢れているようだ。

 うーん、ちょっと気になっちゃう。


「あれ?」


 帰り支度を終えた私たちが店を出ようとしたとき、最初にその異変に気付いたのはしぐれだった。

 出口の扉に向かっていると前を歩いていたしぐれが急に立ち止まるので、私はその背中にぶつかってしまった。


「痛っ!? ちょっと、急に止まらないでよ!」

「……な、ないの」

「ないって何がさ?」


 しぐれは今まで見たことないくらい深刻そうな面持ちをしていた。

 店の鍵でも失くしたのだろうか。小さな店内だから二人がかりで探せばすぐ見つかるだろうし、何もそこまで慌てなくていいと思うけど。

 まだ事の重大さに気付けていない私はそんなことを思っていた。


「……扉が、ないの」

「とびらぁ?」


 しぐれに言われて私もその意味を理解する。

 目の前には壁があった。何もない、まっさらな壁──本来ならそこには、外に繋がる扉があるはずなのに。


「ちょ、え、どういうこと?」


 裏口の類がない夕凪には、外へ出るための経路がこの扉しかない。

 こうして私たちは、密室となった夕凪に閉じ込められたのだった。

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