005


菜々ななちゃん、怪我はないかい? ……つーか、まだ腰抜けてんのかよ」


 くらやとの戦闘を終えた芳楼ほうろうさんが服についた砂埃を払いながら、相変わらず地面にへたり込んでいる私の元へ歩いてきた。

 彼の息は乱れておらず、何事もなかったかのよう。

 まるでコンビニから帰ってきたとでも言わんばかりだった。


「どうしたんだよ? モノノを見るみたいな顔で僕を見て」

「そりゃ今の一部始終を見せられたら誰だってこんな顔になりますよ。……芳楼さん、本当にあなたは人間ですか?」

「当たり前だろ。僕は正真正銘、どこにでもいる普通の人間だよ──導師どうしが生業なだけのね」


 信じられない。

 少なくともあなたには人外という表現がお似合いだと思うが。

 そんな疑いの目を向ける私に芳楼さんが口を開いた。


「いいかい? 導師を一言で表すならモノノ怪のスペシャリストだ。そしてスペシャリストってのは分野に限らず、素人からは化け物じみて見えるもんだろ」

「どういう意味です?」

「縁日のたこ焼き職人がいい例だ。菜々ちゃんにも彼らが器用にたこ焼きをくるくると焼き上げる姿に見入ったことがあるだろ? とても自分には真似できないような、流れるような手捌きに見惚れちゃってさ。それと同じだよ」

「確かにありますが、それと同じ?」

「要するに僕もこの分野に秀でているだけで、他は普通の人間と変わらないってことさ」

「暴論ですよ!」


 というか詭弁だ! ……まあ、芳楼さんの言いたいこともわかるけど。

 総じてプロや達人の動きってのは素人目に神業のごとく映るもんだ。たこ焼き屋さんの例えも凄くわかりやすい。

 だとしても今回は絶対にその限りじゃないだろうに。

 それくらい芳楼さんを普通の人間と定義づけるのは無理があると思うのだ。


「どうも菜々ちゃんには知らないことを受け入れようとしないがあるね。そんなだと今後の人生で困ることになるぜ? 世界は未知なことばかりなんだから」


 今日もひとつ、モノノ怪という未知に出会ったばかりじゃないか。

 小馬鹿にするように笑った芳楼さんの言い分には一理あった。

 私は言い返せずに俯いてしまう。

 

「でも知らないことがあるのは当然だ。菜々ちゃんもまだ若いんだし、これから時間をかけてゆっくりと見聞を広げるといいさ」

「それでもにわかには信じ難いですけど……。やっぱりこれは夢なんでしょうか」

「うん、そうだね。これは夢だ。だから僕が君の胸に飛びついても悪くないよね」

「それは悪夢になるんでやめてください!」


 いや、もうすでに悪夢の部類なんだけどさ。

 しかしこれが夢じゃないことはわかっている。

 その証拠にさっき擦りむいた傷はちゃんと痛むし、何より、くらや巳を前にしたときに跳ね上がった拍動や動悸、早くなる呼吸に至るまでの全てが夢の中でのとまるで違った。

 これはリアルなんだ、現実なんだ。

 信じたくなかったけれど事実は受け入れる他ない。 


「……ところで、どうするんですか?」


 私は地面に座りながら指さした。

 致命傷を負って動かなくなり、道を塞ぐように横たわるくらや巳を。


「このまま放置するわけでもないですよね?」

「そんなわけないだろ。飛ぶ鳥あとを濁さず、ちゃんと始末はつけるさ」

「トドメを刺すんですか?」

「物騒なこと言うなよ。言っただろ? 僕は導師なんだから導くだけだよ」


 すると芳楼さんはくらや巳に向かって拝むように片手を構え、小声でぶつぶつと何かを唱えだした。

 歌のような念仏のような。

 それは知らない言語のように聞こえる──と耳を傾けたとき、それが本能的に聞いてはいけない音に感じた私は咄嗟に耳を塞いだ。

 そう、例えるならフォークで皿を引っ掻いたような不快な音だ。遺伝子レベルで受け付けない。

 その不気味な何かを唱え終えた芳楼さんが、


「おかれさまでした」


 と言った途端、くらや巳のその大きな体は淡い光に包まれて霧散した。

 その光の粒子はタバコの煙ように空気中を漂い、しばらくすると消え失せていく。そこにくらや巳の姿は欠片すらない。


「誤解される前に断っておくが、殺したわけじゃないからな。まあ、もともと生死の概念がないモノノ怪を殺せやしないけど」

「……えーと、導いたんですよね?」

「そうだよ、くらや巳を導いただけだ」


 どこへですか? という無駄な質問はしなかった。

 芳楼さんにそれを尋ねたところで無駄だ。

 私が求めるような答えが返ってこないことはこれまでの会話からもわかっている。芳楼さんの話は私には難しく、要領を得ない。

 それにもう肉体的にも精神的にもかなり疲れた。

 すごく眠い。いっそのこと、ここで寝てしまおうか思ってしまうほどに。


「まだ寝られちゃ困るよ、菜々ちゃん」

「いや、流石にここでは寝ませんよ。家まで結構な距離もありますし」

「そういう問題じゃなくてね。あくまで僕のこれは仕事なんだ。菜々ちゃんから報酬をいただかないと」


 ……そうだった。

 頼みを聞いたので終わりだと思い込んでいてうっかりしていたが、あくまで芳楼さんが私を助けてくれたのはビジネスであり、その報酬を払う義務が私にはあるんだった。

 言うまでもなくバイトを始められていない私にお金の余裕はない。そのせいでマトモな食事にもありつけていない始末だ。

 恐る恐る金額を尋ねる。

 芳楼さんから返ってきた答えを聞いて唖然とした。

 それはとんでもない数字だった。

 0が並びすぎてゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。消費者金融に行ったところでこれだけの金額は借りられないだろうし、臓器売買の文字が脳裏をよぎったけれど、そもそもそのようなルートを私は持っていない。


「そんなに驚くなよ。これでも相場よりは安い方だぜ」

「嘘つかないでください! ぼったくりですよ!」

「この業界では普通さ。神に誓ってぼったくっちゃいない──まあ、僕は無神論者だがね」


 どどどどうしよう!?

 ローンを組ませてもらったとしても、到底私には払いきれる気がしない……。


「流石にこれを一括で払えとは言わないよ。僕の提案を飲むのなら融通を利かせるぜ?」

「の、飲みます! 丸呑みします!」


 地獄に仏とはよく言ったもので救いはあった。もとを辿れば芳楼さんに借金を背負わされたのだから、恩を感じるのはマッチポンプな気もするが。

 しかし今の私にとやかく言える資格はなく、値踏みするようにジロジロと見下ろしてくる芳楼さんからの提案を甘んじて受け入れるしかないのだ。


「菜々ちゃんには見所があるからね。今日から借金を完済するまで身体で払ってもらおうか」

「か、身体っ!?」


 悪魔の提案だった。

 どうやらこの世に仏はいなかったらしい。


「くっくっく。モノノ怪はいるけどね」


 芳楼さんはそう言った。

 不敵な笑みを浮かべながら。

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