004


 下手に動けば呑まれてしまうだろう。

 くらやと二度目の邂逅を果たしてしまった私は、本能的にそう予感した。

 とは言っても恐怖で腰を抜かしてしまい、自力では一歩も動けなくなった私には杞憂なのかもしれないが。


「正しい対処法だよ、菜々葉ななはちゃん。素人の君は勝手な行動は取らないのが一番だ」


 街外れに位置する、とある神社の境内。

 そこで私と芳楼ほうろうさんはおぞましい大蛇の見た目をしたモノノ──くらや巳と対峙していた。

 奴の体表を覆い尽くす鱗はこの世のどんな黒より黒く、夜の暗さに溶け込んでいる。そのせいで尾がどこまで続いているのかもわからない。


「だからってそんなに怖がらなくてもいいけどね。大丈夫だよ、この僕がいるんだから」

「そ、そそ、そんなこと言われてもっ」


 この状況に遭遇したら肝っ玉がどれだけ座っている人でも取り乱すに決まってる。

 けれども芳楼さんは依然として冷静さを保っており、見方によっては未だに飄々としているようにも見えた。

 もしかすると動揺している自分がおかしいのだろうか。

 そんなことさえ思ってしまう私がいたが断じて違う──異常なのはやはり平然としている芳楼さんの方だ。


「蛇の道は蛇と言うだろ? ここは僕に任せて菜々葉ちゃんはそこで蛙の真似をしていたらいいさ」

「……私が蛇に睨まれた蛙だという皮肉ですか、それは」

「井の中の蛙という意味で捉えてもらっても構わないよ。君はまだモノノ怪の世界を知らないのだから」


 芳楼さんはこの緊迫した状況でも減らず口を叩けるのだから余裕綽々らしい。

 私は自分を保つので精一杯だと言うのに。


「だとしても無茶です! 逃げましょうよ!」

「まあ見てろって。カッコイイとこ見せてやるから」

「ほんとですね!? 信じますよ、私!? もう無事に生きて帰れるなら何だってしますから!」

「……ほう、それは良いことを聞いた。じゃあ後で一つお願いさせてもらおうかな」


 余裕そうにそんなことを言う芳楼さんだったが、お世辞にも彼は強そうには見えなかった。

 さっきまで芳楼さんの背中にしがみついていたからわかる。確かに並以上の筋肉はあるようだ。

 しかしそれも人間という範疇の話で、相手が規格外の化け物だと意味がないように思える。

 武器を隠し持っている様子もない。

 何か秘策でもあるのだろうか?

 それでも芳楼さんの堂々とした後ろ姿を見ていると、この人ならどうにかなるんじゃないかと思ってしまう私がいる。


「…………」


 芳楼仗助。

 只者ではないと改めて感じた。

 

「でもなんで空から降ってきたんですか、おかしいですよ!」

「何度も言うがこいつは蛇じゃない。くらや巳というモノノ怪だ。モノノ怪なんだから空から降ってきたって何もおかしくないだろ? 常識で測ろうとするなよ」

「そんなこと言われても……」

「まあ、くらや巳が空から現れたのにも理由はある。でもそれを僕が説明したところでモノノ怪の知識を持たない菜々葉ちゃんは理解できないだろうよ」


 言いながら芳楼さんは歩き出してくらや巳との距離を詰め始めた。その足取りはゆっくりだが、じりじりと着実に距離を縮めている。

 私を獲物として狙っていたくらや巳は、果たして青白く光った双眸を芳楼さんに向け変えた。

 奴の射程圏内に入ったのだ。

 くらや巳はその巨大な体躯はもとより、口を開けば幾千本もの鋭く尖った牙が覗かせている。


「……ほんとに勝てるの?」


 戦力差は明らかに見えた。

 やっぱりこちらに勝機があるようには思えない。

 地面にへたりこむ私がそう思った瞬間のことだ。

 芳楼さんは爆発的な跳躍力で跳んだ。

 まるで空を飛ぶように。 

 そのままくらや巳の背中に飛び乗った彼は、両腕をずぶりと突き刺す。血は出ない。代わりに黒いガスのようがものがその傷口から吹き出した。


「恨むなよ、くらや巳。相手が悪かっただけだ。今夜のことを教訓にして、次からは獲物を選ぶことを覚えた方がいい」


 くらや巳の背中を紙のように容易たやすく引き裂いた芳楼さん。

 モノノ怪と言っても痛覚はあるようだ。背中を開かれてしまったくらや巳は、地を這うような不気味なうめき声を発しながらのたうちまわる。


「そんなに暴れるなよ。危ないじゃないか」


 勢いで振り落とされてしまった芳楼さんだったが、綺麗な受け身をとって着地する。くるりと一回転。その鮮やかな身のこなしは体操選手顔負けだろう。

 早くも致命傷を負わされ激昂したくらや巳は、周囲の木々をなぎ倒しながら暴れ狂う。

 そんな猛攻を紙一重でさばいていき、あっという間に芳楼さんは奴の懐に忍び込んだ。

 その動きに無駄はない。かすり傷の一つすら負うことはなく、羚羊かもしかがステップを刻んでいるさまを彷彿とさせる。


「あまり無茶な暴れ方はしないでくれ。衝撃で菜々葉ちゃんが怪我したらどうするんだよ」


 芳楼さんがくらや巳の顎を蹴り上げた。

 奴の大きな頭部が目算でも三メートルは浮かび上がる。

 吐血するようにたまらず口から黒いガスを吹き出すくらや巳だが、その隙を芳楼さんは見逃さない。がら空きの胴体に次の一撃を入れる。

 ちょっとばかし大振りの右ストレート。

 しかしそれは静かな夜に轟音を響かせるほど重たく、モロに食らったくらや巳の体表は大きな鉄球をぶつけられたが如く波打った。衝撃で鱗も剥がれ落ちている。


「これで終わり、かな」


 そう言って放った芳楼さんのオーバヘッド気味の蹴りがこめかみ辺りに直撃したとき、くらや巳の全身がズシンと大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。

 さっきまでの威勢はどこへやら。

 それからくらや巳がピクリとも動くことはなかった。

 戦いが始まって三分も経ってない気がする。ウルトラマンでもお釣りが来るような短い戦闘であり、あまりに早すぎる決着だった。

 戦いはそれだけ一方的で結果は芳楼さんの圧勝。まさに完封勝利と言っても良いかもしれない。


「どうだい、これで君の安全は確保されたよ。約束通り頼みを一つ聞いてもらおうか。これからは友好の意も兼ねて菜々葉ちゃんのことと呼ばせてくれよ」

「そ、そんなことで良いんですか? もちろん構いませんが」

「くっくっく。これが後々重要なことになるんだよ──まあともかく、本人からの許可も得たことだ。これからは菜々ちゃんと呼ばせてもらうよ」


 正直拍子抜けした。

 てっきりもっと凄いことを注文されると思っていた私は、この純潔の身体を捧げる覚悟をしていたくらいだったのだから。


「そうだったの? じゃあオマケにバストサイズでも聞いておこうかな」

「もう無理です。受付は終了しました!」

「僕の見立てによると概ね八十九センチと言ったところかな」

「それだけは絶対に教えませんから!」


 惜しいってこともな!

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