003


 後ろを見る限り大蛇が追ってきている気配はなかった。

 一時はどうなることかと思ったが、その事実にひとまず安堵する──しかし、私が別の異変に気づいたのはそれからすぐのことだった。


「……芳楼ほうろうさん、もう数キロは走っているはずですよ。おかしくないですか?」


 原付が鳥居へと続く一本道を走り出してから数分が経っている。

 ところが神社の敷地を出ることはおろか、その鳥居すら見えてこない。

 私が行きに歩いたときはたかが数十メートルの道のりだったのに。

  

「この神社一帯が奴の、くらやの縄張りだったってことさ。その縄張りへと迂闊に足を踏み込んだ僕たちは、もはや奴の手の上なのかもしれない──いや、くらや巳は蛇のモノノだから腹の中と言ったほうが良いかもな」

「クラヤミ?」

「さっきの大蛇の名前だよ。とは言っても正確には大蛇じゃない。モノノ怪さ」


 芳楼さんの言っていることがイマイチ理解できない。

 知らない単語が並びすぎている。


「さっきの大蛇を知ってるんですか?」

「もちろん知ってるとも。くらや巳は別に珍しいモノノ怪でもないからね。そうじゃなくてもモノノ怪に関しては僕の専門分野なんだ。知らないわけがない」

「あなたが知っていても私は知らないです! モノノ怪ってのもなんですか! 私にもわかるように説明してくれないとさっぱりですよ!」

「まあまあ、そんなに慌てるなよ。一度にいくつも質問されたって答えられないだろ。僕には口がひとつしかないんだから」


 駄々をこねる子供をなだめるように言われてしまった。ちょっと我に返る。

 けれども浅学非才な私は芳楼さんを頼ることしかできない。あの化物について知っているのなら教えてほしいと心の底から思った。


「──モノノ怪はモノノ怪だよ」


 私の胸中を汲み取ったのかだろうか。

 相変わらずエンジンをフルスロットルで回しながらであったが、芳楼さんはゆっくりと口を開いた。


菜々葉ななはちゃんにも馴染み深い言葉で説明するなら妖怪や怪異、あやかしの類と言えば良いかな?」

「ふざけないでください! オカルトの話をしたいんじゃないんです、私は!」

「ふざけてないよ、僕は真剣さ。嘘じゃない、本当だよ」

「今がどんな時代かわかってますか? そんな非科学的なこと信じられませんって」

「君も強情だねえ。それなら聞くが、この世の全ての事象が科学で証明できると本気で思っているのかい?」

「そ、それは……」


 言葉に詰まった。

 そんなのいち大学生である私にわかるわけがない。

 科学の隆盛によって文明が発達してきた。そのおかげで今の便利な世の中がある。

 しかし宇宙の果てや死後の世界、それこそオカルトや心霊現象のように挙げ出すとキリがないが、万能に思える科学をもってしても解明し切れていない謎が多くあるのも事実だもん。


「その通りさ。この世は科学でも説明が出来ないことで溢れている。ロマンがあって嬉しいったらないよな」

「全然嬉しくないです!」

「おいおい、そんな連れないこと言うなよ。でもまあ、確かにそれを手放しに喜んでいられないのも事実だ。超常的な存在であるモノノ怪が悪さをして、僕ら人間を困らせることもあるからね」

「……ということは、その、モノノ怪はさっきの大蛇以外にもいるってことですか?」

「そうだよ。モノノ怪は何処にでもいて何処にもいない。気づいてないだけで彼らは僕らの回りにも潜んでいるのさ」

 

 あんなのが他にもいるだと?

 想像するだけでも恐ろしい。

 こちとら一生もののトラウマをすでに負わされているんだ。今後もし他のモノノ怪と出会うことがあったら失禁してまうかもしれないんだぞ。夢なら早いうちに覚めてくれ。この歳になっておねしょはしたくない。


「でも恐がることはない。そのために僕みたいな仕事をしている人間がいるんだから」

「……ドウシ、でしたっけ?」

「そう。導師どうしだ」


 導く師、と書いて導師。

 前に芳楼さんから貰った名刺に書かれていたことを思い出す。


「モノノ怪に魅入られた人を清く正しく導くのが僕の仕事だ。そういった意味では今も仕事中だよ。魅入られてしまった菜々葉ちゃんを導かないといけないからね」

「私を、導く?」


 芳楼さんはこの途方もない一本道をどこまで走り続けるつもりだろう。

 やはり待てど暮らせど出口の鳥居は見えて来ず、さっきから永遠と同じ場所を走っているような気もする。

 大蛇も見えなくなったことだ。

 二人乗りをしながらでは会話もしづらいし、ここらで一度停まっても良いように思えるのだが。


「勘違いをしているようだから言っておくが、モノノ怪を菜々葉ちゃんの物差しで測らないほうがいい。奴らは超常的な存在なんだ。僕でさえ面食らうことはある。くらや巳と物理的な距離ができたからと言って、君の安全の保証はどこにもないんだぜ」


 芳楼さんは言う。

 当初のちゃらけた様子はどこかへ消え、どっしりとした真剣な声音で。


「菜々ちゃんはモノノ怪に魅入られたんだ。生兵法は怪我のもととも言うだろ? 中途半端が一番よくない。しっかりと始末をつけなくちゃ」

「どうするんですか?」

「言ったじゃないか──僕は導師だぜ? 導くだけだよ」

「…………導く」


 と、私がその言葉を反芻したときだ。

 くらや巳は再び私たちの前に現れた──いや、

 その巨大な体躯は着地と同時にアクション映画のワンシーンのように土煙を上げ、その振動で空気が揺れる。

 あまりに急な出来事で気が動転してしまった私は悲鳴を上げることすら叶わない。そんな私を尻目に芳楼さんは、


「そろそろ僕のカッコイイところを見せておこうかな」


 そう言いながら原付を急停止させた。

 急ブレーキの反動で振り落とされてしまった私は足を擦りむいてしまったが、今はそんな小さな傷どうだっていい。

 鬼と出るか蛇と出るか──蛇はもう間に合っている。

 だからどうか、今ばかりは鬼が出てきてくらや巳を倒して欲しいと願う私だった。

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