第3話「忘却の狗」
翌朝、俺と椿は予定通りフィールドワークを開始した。
正直ハクの事が気になったが、一応仕事でもあるため来た以上はやらねばならない。
一旦街まで戻ると、レンタカーを借りて犬神に関しての痕跡調査を進めた。
憑き物筋が実際に居たとされる村落や、犬神進行と関わりを持つ神社等を周り、俺達は一旦、大分にある大学で、民俗学の研究をしている知り合いと情報交換をする事となった。
「久しぶりだな真昼、元気してたか?」
「ぼちぼちな、幸村こそ元気そうで何よりだ。足の調子は?」
そう言って俺は幸村の左足に目をやった。
「ああ、まあ日常生活を送る分には不自由してないよ」
そう言って幸村はごつい手を俺に向けて差し出してきた。
俺はその手を握り数年ぶりの握手を交わす。
幸村 浩一。
大学時代の旧友で、同じ民俗学を研究する仲間だ。
「まあとりあえず座れよ、珈琲でも飲むか?」
「おっ悪いな」
幸村にそう促され俺達は研究室のソファーに腰掛けた。
「ほれ」
席を立った幸村が、戻ってくるなり俺と椿に缶コーヒーを手渡してきた。
「って珈琲入れに行ったんじゃないのかよ……」
「文句言うなよ、それに俺が入れるより確実にこっちの方が美味い。それで、そちらさんは?」
「も、申し遅れました、私、吉永 椿って言います!よろしくお願いします!」
「へえ、お前には勿体ないな真昼……」
「あほか……俺の教え子だ」
幸村がニヤついた顔でこちらを見てくる。
分かってて聞いてきたなこいつ……。
「そ、そそそうですよ!私と教授はそんなんじゃありません!だ、大体何で私がこんな中年男とその……け、結婚なんてしなきゃならないんですか!?」
そう言ってなぜか顔を真っ赤にして幸村に抗議する椿。
「落ち着け椿、誰も結婚してるなんて言ってないだろ、幸村の冗談だよ」
「へっ?」
「ははははっ、面白い嬢ちゃんだな、良い助手を持ったじゃないか」
「まあな、そこは否定しない」
「ちょっと、私何かバカにされてませんか?」
「褒めてんだよ」
そう言って肩をすくめてみせると、椿は俺を睨みつけてきた。
「むうぅぅ」
「ははっ、本当に仲が良いなお前ら」
幸村は膝を叩いて笑っている。
「あのな……まあいい、ところでこの前電話で話した件なんだが」
「ん?ああ、あの爺さんの話か?」
「爺さん?」
椿が俺に聞き直す。
「ああ。お前にも話しただろ。神谷 静子。その彼女の情報をくれた人物がいてな……」
遡る事三ヶ月前、俺はとあるフォーラムで憑き物筋の論文を発表した。
その際に、会場に来ていたある老人と出会ったのだ。
老人の名は、影井 清隆。
何でも若い頃に、俺と同じ様に憑き物筋の研究をしていた事があるらしく、興味が湧いて声を掛けたと本人は言っていた。
時代が時代で研究そのものは続けられなかったが、歳をとり財を成し、余った時間をもう一度この研究に使いたいと影井氏は語っていた。
まあこう言ってはなんだが、所謂金持ちの道楽って奴だろう。
会場では互いに名刺交換だけを済ませ、軽く話した後に別れたのだが、その夜、俺の元に影井氏から一通のダイレクトメールが届いた。
それが、件の人物、神谷 静子の情報だったのだ。
神谷 静子は四国で代々犬神落としを生業とする家計に産まれた。
犬神落としとは、四国で有名な賢見神社が、病気平癒、家内安全を祈る御祈祷の事を指す。
一方犬神憑きとは、動物霊を使役し、対象者に取り憑く事により災いをもたらすと言った、言わば呪いという行為だ。
当時は第二次世界大戦終戦間近で、日本全体を暗い影が覆っていた。
人々は欺瞞に充ちた世界で、明日を生きることに必死な時代だったのだ。
呪いとは、そんな暗い影から生まれる、言わば病の様なもので、人々の心を蝕んでいた。
そんな中、神谷 静子は幼少の頃から犬神落としの才を発揮し、類まれなる巫女として、名を馳せていたという。
齢十五という若さで神殿の勤番を勤めていたとか。
勤番とは、神社の管理や参詣者を世話する係の事らしいが、当時では病気治療にも一役買っていたそうだ。
そんな彼女だが、何故か二十歳を過ぎた頃に、四国を出てここ大分に流れ着いている。
理由は不明だが、元々優れた力を持っていたとされる静子は、ここ大分の地でも、霊験あらたかな犬神落としとして重宝された。
静子の名は瞬く間に近隣へと広まり、やがて遠方からわざわざ静子の元を訪れる者もいたという。
次第に人々は、静子そのものを神格化し崇め始めた。
が、そんなある日、事件は起きた。
神谷 静子が、霊感商法の詐欺事件の首謀者として逮捕されたのだ。
腐った犬の首に沸いた蛆を、すり潰し乾燥させ、それを犬神の霊薬と称して町で売り捌いたという。
神谷 静子は町の憲兵に逮捕され、厳しい取り締まりの上に、獄中でその短い生涯を閉じたという。
当時の憲兵での取り調べでは、そうやって命を失くしたものは少なくないと聞く。
「それなんだがな真昼」
幸村が少し神妙な顔で此方を見た。
「何だ?」
「こっちでも色々調べてみたんだが、どうも事件を起こしたのは神谷 静子では無いらしいんだ」
「静子じゃない?だったら捕まったのは?」
「いや、捕まったのは神谷 静子で間違いはない。だが事件を起こしたのは、当時神谷 静子の信者とされていた男達だったらしい」
「ちょっと待って、じゃあ神谷 静子は濡れ衣を着せられて捕まったって事か?」
「ああ、どうもそうらしいな。おお方神谷 静子の名を使って一儲けしようと企てたんだろ。彼女が獄中で死んだのも、事件の事を否認し続けたのが原因だとされているしな」
なんてこった……その力を必要とされながらも、最後はその必要としていた村人達に裏切られ、悲運な最後を辿ったのか。
そう思うと、人として単純な怒りが湧いてくる。
本当にやるせない事件だ。
「それともう二つ程、気になる話がある……」
「もう二つ?」
不意に発した幸村の言葉に、俺は顔を上げた。
「神谷 静子が獄中で死んだ後、彼女の呪いを恐れた信者が、遺体を丁重に埋葬しようと引取りに行ったそうなんだが」
「そこで何かあったのか?」
幸村は缶の珈琲を手に取り一気に飲み干すと、その缶を片手でグシャリと握り潰して言った。
「遺体を預かっていた問所が突然発火し、その場にいた憲兵と遺体もろとも焼失してしまったそうだ。しかも亡くなった憲兵は、その時神谷 静子を拷問した連中だったらしい」
愕然とした。
それじゃあ正に村人達が言っていた
「神谷 静子の呪い……か」
「かもな……」
幸村が返事をしながら缶をゴミ箱へと放り投げた。
──ガコン
と音を立て、缶は箱の中へと落ちる。
「もう一つは……?」
段々と聞く度に陰惨な話になってきた。
隣にいる椿も、さっきから肩を落とし俯いたままだ。
「これが一番の謎なんだが……神谷 静子には子供がいたらしいぞ」
「子供!?」
思わず前のめりになり、持っていた缶珈琲が床に落ちそうになった。
慌てて掴みテーブルに置くと、俺は改めて幸村に尋ねた。
「子供って、本当に静子の子か?性別は?名前は?父親は誰なんだ?」
「おいおいそこまでは俺も分からんよ、お前俺を探偵か何かと勘違いしてないか?」
幸村がお手上げのポーズで首を横に振る。
「あ、いや悪い、つい興奮して……でもまさか子供が……生きてれば八十幾つってとこか……」
「生きてればな。静子も死んで身寄りと言えば、実家がある四国だけだろうが、その実家も当主が戦争に駆り出され、とうの昔に没落したと聞く、恐らく生きてはいまいよ」
そこまで聞いて、俺は押し黙ってしまった。
神谷 静子……その生涯は、陰惨な幕引きと共に多くの謎をまだ残している気がした。
「あ、あのう……?」
隣にいた椿が、俺たちの間に入りにくそうにしながら幸村に口を開いた。
「ん?ああ、なんだい椿ちゃん?」
女慣れしたコミュ力。俺も幸村ほどのコミュ力があれば、もう少し選考してくれる生徒も増えるとと思うんだが……
素直にそう思いながら、俺は椿を振り返った。
「あの、ハクちゃんって女の子の事、聞いた事ありませんか?」
「ああっ!」
「な、何ですか教授、突然大きな声出して!」
そうだった。
完全にそれを忘れていた。
本来なら神谷 静子と同じくらい重大な事だったのに。
「な、なんだなんだお前ら」
戸惑う幸村に向き直り、俺は再度椿と同じ質問と、昨日山で出くわした少女、珀明の事について話した。
「く、くくく熊ぁっ!?」
「あ、ああ、胸の模様からして多分月の輪熊だと思う……」
「ううん……まあこの地方でも絶滅宣言が出た後も、小例の目撃情報があったと聞いた事があるしな、ないとは言いきれんが……それより熊と渡り合ったっていう女の子の話は本当か?歳は幾つぐらいだ?」
「ああ、十七、十八といったところかな。漫画みたいな話だが、実際に俺も椿も、その珀明って子に助けられたんだ」
「珀明……ね」
「何か知ってるのか?」
幸村は顎に手を当てしばらく思案した後、ゆっくりと口を開いた。
「以前、大規模な捜索隊が、その山で組まれた事がある」
「捜索隊?」
「ああ、麓の学校で授業を受けていた小学生達が、毎日山から現れる一人の女の子がいると、学校側に証言したそうだ」
「麓の学校……」
昨夜、ハクもそれと同じ様な事を口にしていた。
「以前から山で女の子を見たとの目撃情報がいくつかあってな、中には山で遭難した所をその少女に助けて貰ったという話もある。つまりお前らみたいな例が今までもあったらしいんだ。それで警察も捜索隊を組んでな、当時登山部だった俺も、地元のボランティアとしてその捜索隊に参加したんだよ」
「そうだったのか……」
やはり俺達が想像していたよりも、ハクの事は結構大きな問題になっていたみたいだ。
まあ普通に考えれば、あの歳の女の子が一人森の中に住んでるとなれば大事にもなるだろう。
「お前、肝心なとこ忘れてないか?」
「えっ?」
突然、幸村が怪訝そうな顔を向けて言ってきた。
「俺が登山部だった頃はいつの話だよ……」
そう言って幸村は自分の左膝を叩いて見せた。
「あっ……!?」
その一言で、俺の全身から一気に血の気が引いていく。
幸村の左足を凝視し、混乱する頭を抱えた。
「えっ?ちょ、ちょっと教授?ど、どういう事ですか幸村さん?」
異変を察したのか、椿が慌てて聞いてきた。
俺は、その質問に答えられなかった。
完全に聞き落としていた。
ハクと話していた時もそうだった。
何か話が噛み合わない、違和感を感じていたのだ。
愕然とする俺の代わりに、幸村が重苦しい口を開いて言った。
「昔、登山中にこの足をやっちまってな、それ以来、山登りはもうやっていない。因みに俺が登山をやっていたのは、もうかれこれ十数年も前の話だ」
「そ、それって……!」
椿の顔が見る間に青ざめていく。
「ああ……捜索隊が組まれたのは、今から十二十年も前の話なんだよ」
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