二 章

挿絵:

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「……起きて」

長門の声で目が覚めた。

「おう、おはよう」

俺はこめかみを抑えた。自分の声が頭にガンガン響く。長門が二日酔い用の薬と水を持ってきてくれた。

「すまんな……」

俺は頭をかきむしりながら起き上がり顔を洗いにシンクに向かった。リビングの壁にかかった自分のスーツを見て、言うべきことを思い出した。

「長門、昨日はすまん。俺どうやってここまで来たんだ?まったく覚えてないんだが」

「……午前一時に、電話があった」

「それで俺、なにか言ってた?」

「……意味消失していたが、昔好意を抱いていた女性の話」

ま、まじか。そんなたわけ話をしたのか俺は。

「そ、それから?」

「……会話の途中で意識を失った。わたしが迎えに行った」

長門に抱えられてここまで来たのか。マンションの七階まで。なんて野郎だ。

「あの、俺、なんか変なこといたしました?」

妙に壊れた敬語だが、聞くのも怖い。

「……なにも。そのまま眠った」

よかった。長門の表情をもう一度探ってみたが、どうやら本当のようだ。

「あのさ、俺が酔って変なことしようとしたらブン殴ってくれ。気絶させてもいいから」

「……分かった」

まじめにうなずいた長門はちょっと怖かった。北高の教室で朝倉と戦ったとき長門に蹴飛ばされた、あの脚力を思い出した。しばらく酒は飲まないことにしよう。

 顔を洗って鏡を見るが、ふつーのいつもの俺だった。顔色は悪いが。

「あの、長門?」

「……なに」

「このペアのパジャマいつ買ったんだ?」

「……むかし」

長門はそれしか答えず、少しだけ微笑した。かなり前ってことは確かだな。

「シャワー借りていいか」

「……いい。バスタオルを用意しておく」

熱めのお湯を頭からかぶった。これで酒が抜けてくれると助かるんだが、昨日いったいどれだけ飲んだんだ。

 浴室の壁にもたれてシャワーの熱をむさぼっていると、少しずつ脳が目覚めた。泡が体を伝って排水口に流れていく。この浴室も、使うのは実は今日が初めてだったりする。


── ここが、


昨日、鏡の中の野郎が言ったことのそこから先が思い出せない。浴室を出ると棚にバスタオルが置いてあった。その横にカミソリとヒゲ剃り用の泡があった。泡をしぼり出して顔に塗った。

 なにか分からない、微妙な違和感があった。鏡を見ながら思った。これがいつもの自宅の鏡ならなんでもなかっただろう。横で妹がドライヤをかけていたり足元をシャミセンがうろついて踏んづけそうになったり。だがここは長門の家なのだ。俺は戸惑っていた。神聖にして不可侵な長門空間でヒゲなんか剃っている、ということに。

「あ、痛て」カミソリが横滑りしちまった。


「さっぱりした。ありがとよ」

キッチンをのぞくと、あろうことか長門が……あろうことか長門が……割烹着かっぽうぎを着て朝飯を作っていた。その格好はいったいなんなんだと言おうとしたが、振り向いた長門があまりに似合っていたのでドキリとした。こんな朝っぱらからときめいたりして俺も若いよな。

「その割烹着かっぽうぎ、に、似合うと思うけど」

「……ありがとう」

手ぬぐいを姉さんかぶりにして、おばあちゃんがやるような格好で味噌汁の味を見ている。

「……味、見て」

小皿にダシを注いだ。俺は受け取ってすすった。

「うん。いいんじゃないか?」

俺の推測だが、長門は俺の好みをずっと研究しているようだ。味噌汁の分子構成がどうなっているかは知らないが、長門の作る有機物およびミネラルの化学的配合比は完璧に近い。

 それにしても楽しそうだな。ミリ単位で違わぬ長さで刻まれるネギの音がどことなくリズミカルなのは気のせいではあるまい。

「……うん、楽しい」

あうっ、いかん。振り向いた長門の表情にまた萌えた。

 味噌汁と卵焼き、焼き魚の純日本の健康的な朝飯が整った。俺と長門は正座して慎ましやかに食卓を囲んだ。長門は茶碗に山のように丸くご飯をよそって俺にくれた。

「……食べて」

「いただきます」

二人は手を合わせていただきますを言った。まずは、青ネギがたっぷり浮かんだ甘味のある白味噌の味噌汁。

「味噌汁がうまいな」

「……そう」

二日酔いの朝には味噌汁がいい。長門はご飯の山を切り崩しながらもくもくと食った。テーブルには箸立てと醤油挿しが並び、窓から射してくる朝日が、二人のお碗からゆっくりと立ち上る湯気を照らしていた。こうして長門と朝の食卓を囲んでいると、ここがまるで──。

「……どうしたの」

「い、いや、なんでもない」

ここがまるで、俺の居るべき場所のようじゃないか。


 たいして汚れてないんでいちいち着替えに帰ることもなかろうと、俺は昨日のシャツのまま出社した。昨日電話しそこなったので今朝になって自宅に連絡を入れておいた。飲み会だったんで友達んちに泊まったとごまかしたのだが、妹が邪推じゃすいして女の人んちでしょ~と歌うようにからかって俺はしどろもどろに否定してしまった。


 マンションを出て長門と並んで歩いた。こうやって隣に長門がいるのはいつもならデートなのだが、今日は同伴出勤だ。電車は通勤客でごった返していた。ひとり分空いている席に長門を座らせた。

「……ありがとう」

「いいって。今日は大学はいいのか」

「……学会発表が終わったから、しばらくはいい」

かけもちでご苦労だな。そのうち海外出張とかもあるんだろうけど、博士論文が終わるまではできるだけ支援してやらないとな。


 事務所があるビルに入るとき、長門と二人で出社しているところを誰かに見られないかと気になった。別にやましいところがあるわけじゃないんだが、「俺たち同伴です」みたいなところを見咎みとがめられたくないような。

 長門と付き合い始めた頃にこそこそ隠れたりしてハルヒに怒られたことがあったんだが、かといって堂々と今そこで会いました的な偶然を装って入るのもどうかと。そんな俺の気持ちを察してかどうか、長門は、

「……先に行って」

「分かった」

ああ、内心ほっとしている自分が情けない。


「おっはよ」

「おう。おはよう」

この社長はいつもニワトリ並みに出社が早い。俺が遅刻すると全員にお茶をおごる規則だけはここ八年間変わることがない。後から長門が入ってきた。

「……出社した」

「おっはよ有希、ちょっと待ちなさい二人とも」

「……」

「あんたたち、今日はなんか変ね」

「な、なにがだ」

ハルヒは鼻先をくんくんと俺の顔やらスーツやらに近づけた。

「あんた昨日家に帰ってないでしょ」

な、なんで分かったんすか。

「しかも、シャワー浴びて朝ご飯まで食べてきたわね。そうでしょ、有希」

その鼻は警察犬から移植でもしたんですか。俺と長門は顔を真っ赤にして目をそらした。ハルヒはケラケラと笑った。

「ふーん。お熱いことねぇ」

「い、いや。昨日は酔っててだな。目が覚めたら長門んちにいたんだ」

「ふーん」

「眠ってたから何もなかったんだから」

「あんたなに慌ててんのよ。あたし何も言ってないでしょ。キヒヒヒ」

ううっ。これをネタにしばらくおもちゃにされそうだ。

「あんたたち、いっそのこと一緒に住んじゃえばいいのに」

「お前ったら突然なにを言い出すんですか」

俺は動転している。限りなく動転している。

「家も職場も近いし簡単じゃないの。同棲どうせいよ同棲」

「いきなりそう言われてもな」

考えたこともなかったが俺ってウブなのか。俺は長門を見た。長門の表情は、なにかを期待しているような、でもあからさまには言い出したくないような、微妙なところだった。

俺は「それもいいかもしれんな。考えとこう」などと、適当にお茶を濁すような返事をした。たまに泊まってるうちに荷物が少しずつ増えて、なし崩し的に一緒に住んでたりしそうだな。自然発生的でいいかもしれん、なんて甘いことを考えているとハルヒに釘をさされた。

「ただし、ちゃんと相手のご両親に挨拶に行くのよ。隠れてこそこそやっちゃだめよ」

「わ、分かった」

すべてお見通しだった。


 古泉と昼飯を食った。

「ハルヒが俺に同棲どうせいしろと言うんだが」

「ええっ、あなたと涼宮さんがですか!?」

「俺と長門がだよ」

「考えたらそうですね。失敬しました」

古泉、自分の立場が分かってないだろ。

「まさかないとは思うが、お前同棲どうせいした経験は、」

「残念ながら僕にはありませんね」俺が最後まで言い終えないうちに言葉を継いだ。

「じゃあその、未経験ながらどう思う?」

「よろしいんじゃないですか、二人とも大人ですし。自分のすることに責任は取れるはずです」

最近じゃ、ちゃんと責任が取れる大人がどれだけいるかあやしいもんだがな。

「予行演習と思えばいいでしょう」

「な、何の予行演習だ?」

古泉の発した次の言葉が、古代中国宮廷の銅鑼どらような音色で俺の脳内に響き渡った。

「結婚ですよ。そのご予定なんでしょう?」

ううっ。考えてもみなかったと言えば嘘になる。ちゃんと計画的に検討していたと言えばそれも嘘になる。いつかはちゃんと考えるつもりだったと言うともっと嘘になる。

 俺はいつだって曖昧なのだ。周りが動いているうちはなんとかなると思っている。試験までの残りの日々を数えつつ、まだ大丈夫、まだ大丈夫だと自分を安心させて過ごす。可能な限りのモラトリアムな日々、それが俺の人生だった。

「もうそろそろ考えてもいい時期ですよ。あなたがたは」

ゲームが下手なはずの古泉に、少しずつ攻め込まれて俺は逃げ場を失った。俺は味方だと思っていたチェスの駒が寝返って全部敵になっちまったような気分だった。ポーン一同がこっちを見てニタニタ笑いを繰り広げている。頼みのクイーンもすでにいない。もしかしたら人生のツケがすべて今になって襲ってきているんじゃないだろうか。

「それともあなたは、長門さんがいつまでも待ちつづけるとお思いですか?」

古泉のチェックメイトが、やりのごとく胸に刺さった。


 古泉と食った昼飯はまったく味がしなかった。ろくに噛まずにコーヒーで流し込み、打ち合わせがあるからと古泉に千円札を渡して先に戻った。事務所に戻ったが長門ともハルヒとも目を合わせられなかった。俺はなんでもないぞと自分を落ち着かせようと新聞を開いたのだが、そこに印刷された活字がすべて“結婚”に見えて目をしばたいた。めまいがして新聞をゴミ箱に放り込みトイレに駆け込んだ。

 顔をザブザブと洗ってペーパータオルを何枚も取り出し、顔を拭いて丸めてゴミ箱に投げ込んだ。鏡に映った自分を見ながらほっぺたをペシペシ叩いた。落ち着け俺。どうってことはない、不用意に長門の部屋に泊まったりしたから動揺してるんだ。そうだ、アレルギーみたいなもんだ、すぐ治まる。

 俺は何度も深呼吸して、それだけじゃ足りないかもしれないので風がそよ吹く緑の草原を想像した。それから鏡を見て営業スマイルを作り、ガッツポーズを取った。よし、俺はやれる。なにをだ。


 部屋に戻って自分の椅子に座り、開発部に内線を入れてスケジュールの調整を話し合った。なんだぜんぜん平気じゃないか。俺は克服したぞ。俺はメモを渡そうと、受話器を耳と肩に挟んだまま長門のほうを振り向いた。長門の額には大きく結婚の二文字が書かれていた。驚愕に襲われて目をこすったがなにもなく俺は受話器を取り落とした。こいつはいかん、プレッシャーで目がおかしくなっちまってる。

「ちょ、ちょっと下に行ってくるわ」

俺はダッシュで逃げ出した。とくに用事はないのだがほかに逃げ込めるところがなかった。内線で話したのと同じ内容を繰り返すので部長氏は怪訝けげんな顔をしていたが。俺は正直に、ちょっとだけここにいさせてくれと頼み込んだ。

「上で揉めごとでもあったのかい?」

「そういうわけでもないんですが。一時的にちょっと居づらくなってしまいまして」

「はっはは。よくあることさ。好きなだけいていいよ」

「ありがとうございます」

俺はうやうやしく頭を下げた。

「キミもケッコン苦労してるんだね」

「え、今なんと?」

「だから、キミも結構苦労してるんだろう。あの社長のそばにいるのは神経が磨り減りそうだからね」

俺はとうとう耳までどうかしちまったようだ。

「副社長もよく我慢してるね。あんなのと付き合ってたら嫁に行きそびれてしまうだろうに」

くそっここにも伏兵がいたのか。味方が全滅して命からがら逃げのびてたどり着いたところが敵の本拠地だった。誰か助けてくれ。

 行く場所も逃げる場所もなく俺はまた自分の机に戻り頭を抱えた。軽くノイローゼになっちまってる。

「キョン、あんたどうかしたの?」

「い、いやなんでもない」

「さっきから挙動がおかしいわよ。熱でもあるんじゃないの」

ハルヒは俺の額に触れようとした。

「俺に触るな」俺はその手を振り払った。

「なに怒ってんのよ、熱を見ようとしただけじゃないの」

ハルヒにぐいと耳を引っ張られた。いかん。完全にどうかしちまってる。

「すまん……ちょっと頭痛がするんで今日は早退するわ」

「具合悪いんだったらちゃんと病院行きなさいよね。最近は若年の脳溢血のういっけつが多いんだから」

縁起でもないこと言わないでくれ。俺はカバンをひったくって逃げるようにして部屋を出た。

 病院には行かず家にも戻らず、俺は電車で終点まで行き映画館で昼寝をしていた。何の映画をやっていたのかすら覚えていない。


 最終上映が終わり、掃除に来た従業員に起こされて俺は映画館を出た。時計を見ると七時を回っていた。ふらふらとどこに行くでもなく、腹が減ったのでファーストフード店に入った。四時間は眠ったはずなのになぜかすっきりしないこの目覚め。味気ないハンバーガーをかじりながら俺はぼんやりと窓の外を見ていた。

「あれ、もしかしてキョンじゃないか!?」

後ろから声をかけられビクッとした。こんなところでこんな気分のときに知り合いに遭遇するなんて。振り返ると、ガタイのいい見るからに体育会系のアルマーニスーツ野郎が立っていた。

「ええと、思い出せないんだが。誰だっけ」

「忘れたのか。俺だよ俺」

そいつは地面に膝をついて、右手を脇に抱え、今しもスタートダッシュを切ろうかという格好をしてみせた。

「相撲取りに知り合いはいないが」

「ちがうだろ、アメフトだアメフト」

「ああ、思い出した。中河か」

こいつを忘れることがあろうか。長門にひとめ惚れし、緻密ちみつなる人生設計を提出した末、十年後に迎えに行くから待っていてくれと愛をうたったやつだ。その恥ずかしい恋文を長門の前で読み上げてハルヒに締め上げられたのは俺だったが。

「その節はいろいろとすまんかったな」

中河は体格に似合わず顔を赤く染めた。

「いやまあ、あのときは俺たちも楽しんだ」

「そりゃそうだ。あんなケッタイな手紙は大爆笑モンだ」

中河は大声で笑った。自分の恥ずかしい歴史をすっきり爽快笑い飛ばせるなんて清々すがすがしくなったな。思い出して二人で笑った。

「暇なら飲みに行かないか」

「これからか」

「もちろんだ。俺のおごりだ」

おごりってことなら行く。今日はいろいろと忘れたいこともあるんでな。


 こいつの通いの店らしい、地下街にあるひなびた居酒屋に入った。

「キョン、あれからどうしてたんだ」

「いちおう会社勤めだ」悲しいことに、ハルヒが社長のな。

「どんなことやってんだ」

「ええと一言で説明するのは難しいんだが、ソフトウェアの開発とかやってる」

「ほう、ってことは同業者か」

中河はポケットから名刺入れを取り出した。俺はうやうやしく受け取った。この両手で小さな紙片をやり取りする日本の習慣が俺には未だに不可思議だ。

「なんと、中河が代表取締役かよ」

「ああ。もう四年になるかな」

「四年ってことは大学には行かなかったのか」

「行ったさ。学生のときに起業したんだ」

すごいな。俺たちがワイワイ遊んでた頃すでに社長だったんだな。

「中河テクノロジーって、そういえばこの会社の名前最近よく聞くな」

雑誌でもよく見る大手グループの傘下だ。

「まあ業界では上昇気流に乗ってるからな。こないだ二部上場した」

こいつの言ってた十年間の人生ロードマップよりすごいじゃないか。軽く五年くらい前倒しだぞ。

「いい人材に恵まれただけさ。俺自身は開発には深く関わらない。いちおう情報工学出だが」

「あのとき言ってた経済学部じゃなかったのな」

「経営者がプロダクツの中身を知らないでどうする」

中河は笑った。そこへ行くと俺は自分がなにを売ってるのかさえ、いまいち理解してない。

「お前んとこはどんなシステム作ってるんだ?」

俺は返答に詰まった。

「ええと、俺はあんまり詳しくないんだが。人工知能を使った他のシステムの統合管理というか」

「ほう。面白いことやってんだな。今度見せてくれ」

「ああ。そういう話は俺より長門のほうが詳しいと思う」

口元まで動いていた中河のグラスがそこでピタリと止まった。その名前を耳にして中河の口元がゆるんだ。

「長門有希さんも同じ職場なのか」

「ああ。あの頃つるんでたメンバーはみんないるさ」

「そうか。元気にしているのか、長門さんは」

「相変わらずだ。あのままだな」

俺から見ればだいぶ変わったところもあるが。

 それから中学時代の話に戻り、佐々木の一件やらもネタになった後、俺と中河は店を出た。

「いい職場にいるみたいだな、お前」

「そうか?」

「その会社、大事にしろよ。好きなことが自由にやれるってのはシアワセなんだからな」

「ああ」俺はそれなりに苦労してる気もするんだが。

「そのうち挨拶にでも寄るわ。人工知能の構造も見てみたいしな」

「分かった。来るときは電話をくれ」

中河は手を振って夜の町に消えた。その背中が俺なんかよりずっと貫禄かんろくがあるように見えた。


 翌朝、昨日に引き続き頭痛がするからとハルヒに電話して午後出社にしてもらったが、まさか昨日飲んでたなんてことがバレたりしてないだろうな。

 昼になってもまだぼんやりとした頭をシャワーでなんとかごまかして、重い体を引きずり電車で出社した。駅前は昼飯を食いに出てくるビジネス街の社員でごった返していた。みんなと同じ時間に出社しないなんてなんとなく後ろめたい気分だ。

 いつもより重たく感じる我が社のドアを開けると社長椅子が空いていた。珍しく客が来ているらしくパーテーションの応接室から声がする。

「キョン、ちょっと来なさい。あんたにお客様よ」

「誰だ?」

「おう、キョン」

中河が突然現れた。来るなら電話しろつったのに。

「遅いわよ、あんたを訪ねて見えたのに」

「具合が悪くてな」

昨日一緒に飲んでただろ、という感じで中河はニヤリと笑った。

「ええと、ハルヒ、中河のことは覚えてるよな。アメフトの」

「もっちろんよ。あんたが来るまであのときの話で盛り上がったわ」

中河は体格に似合わず照れた表情をしてわははと笑った。

 俺は長門を呼んで引き合わせた。中河は長門の手を取って両手で握った。

「ご無沙汰しております。その節はいろいろとご迷惑をおかけしました」

「……」

かつて惚れられた、というか勝手に熱を上げて勝手に冷めてしまいサヨナラを告げられた相手に、長門もどう応じたものか迷っているようだった。

羽振はぶりいいんだってね、中河さんのところ」

「ハルヒ、中河の会社知ってるのか」

「当然じゃない。テレビでインタビューに出てるの見たわ」

「いえまあ、仕事内容より名前だけが先走りしてましてね」

中河は体を揺すってはっはっはと笑った。よく笑うやつだな。


 ハルヒと中河は同じ経営者同士で話が合うらしく、業界の裏話やらこれから流行るかもしれない技術ネタなんかで盛り上がっていた。ハルヒがIT業界ネタについていけてるとはちょっと意外だったがそれなりに勉強はしているらしい。少なくとも俺よりはな。

「聞けば人工知能を開発されているとか。ぜひ拝見したいものです」

「もっちろんいいわ。キョン、中河さんにうちの開発部を見せてあげて」

「俺は構わんが、部外者に見せていいのか長門」

「……問題ない」

まあうちの商品は簡単にはまねできないようなもんばかりだし、長門の設計をパクれるようなやつはそうそういないだろう。俺は中河を連れて三階の開発部の部屋を案内した。

 開発部のドアを開けるとあいかわらず阿片窟あへんくつのようなありさまで、部長氏に来客を告げるとあわてて雑誌やらパソコンのパーツやら袋菓子やらをロッカーの棚に放り込んでいた。リサーチと称して他社のゲームをやっていた部員はあわててモニタの電源を切った。

「ちょっとあんたたち!昨日までちゃんとかたづいてたのになによこれは」

いや少なくとも二週間はこの状態だと思うぞ。散らかった息子の部屋をかたづけるおふくろのように、ハルヒがイライラとゴミなのか備品なのかわからんクズを段ボール箱にかき集めた。

「部長氏、こっちは中河テクノロジーの中河社長だ。俺の中学のときの同級生だが」

「は、はじめまして。部屋がカオス状態でして恐縮ですが」

「はっはは、弊社も似たようなものです。特にモノが生まれる現場では」

部長氏はウエットティッシュで丁寧に手を拭いてから中河の手を握って振った。

「部長氏、例の人工知能のデモ見せてもらえる?」

「ちょうどいい、次のバージョンをテストしているところだよ」

三十インチはありそうなでかいディスプレイの隅っこに3Dのフィギュアみたいなアシスタントが現れた。メイド服を着て丸いメガネをかけている。

『こ、こんにちわ。あの~、なんなんですか皆さん、その方はいったい誰なんですかぁ、どうしてわたしはメイド服なんですかぁ?』

知ってる誰かに、しかも若い頃にすごく似てる気がするんだが。これ、本人の許可取ってんのか。

 部長氏がマイクに向かって話しかけた。

「みちるちゃん、今日の予定教えてもらえる?」

『あ、ちょっと待っててくださいね。ええっと、メモどこやったのかな……んと、んと』

秘書としてはあんまり技能的に秀でてないっていうか、モノ忘れが激しそうっていうか、時間が過ぎてから予定を告げられそうっていうか、これじゃ仕事が進まんだろうけどそれはそれで萌えどころか。

『あ、あった。ありました。ええとですね、今日のスケジュールは、十二時からわたしとお昼ご飯です。ほ、ほんとにわたしなんかでよかったんですかぁ、受付の女の子とかのほうがよかったんじゃ』

飯を食うだけがスケジュールなんてどこの天下りだよ、と苦笑しつつ中河を見ると凝視するほど画面に見入っていた。

 ピロリンと音がして画面にメールのアイコンがポップアップした。

『わぁ、誰かからメールが来ましたよ、うふっ』

「みちるちゃん、メール読んでもらえる?」

『えっと、タイトルはですねぇ“十六才の女の子です、お友達になってください”。わあ、女の子からお手紙ですよぅ。きっと学校でお友達ができなくて部長さんにお友達になってほしいんですね。本文はぁ、“夜ひとりでベットでいるのが寂しいの”……こ、これ以上は禁則事項ですっ』

真っ赤になっているミニ朝比奈さん、それは仕事のメールじゃなくて世に言うスパムってやつですよ。

『好青年の部長さんをかどわかすなんてさせさまさせん!わたしが守ってみせまーす。み、み、ミチルビーム』

いつぞやの朝比奈ミクルの変身のテーマがパパララーパパパーと流れ始め、メールのアイコンを目から飛び出すビームで勢いよく燃やした。メイドにしては嫉妬しっと心が強いっていうか怒らせるとファイルを壊されそうで怖いっていうか、どうでもいいくらいに凝った演出の上にセリフを噛んでいるところまで忠実に再現されているようなのだが、いったいどういう技術を使ってるのか実に気になる。

 ニヤニヤ笑いの部長氏はCCDカメラのレンズを塞いで中河にメモを渡した。

「中河さん、ちょっとこの番号に電話をかけていただいていいですか」

「え、はいはい」

中河が携帯に耳を当てていると画面の中の電話が鳴ってミニ朝比奈さんが飛び上がった。これ、電話回線と直接対話できるのか。

『キャ、あ、電話だ、どうしましょう』

とりあえず受話器を取ればいいんじゃ、ってダイヤル式黒電話ですか、レトロ趣味にもほどがありませんかそれ。

『あ、あの、もしもし……SOS団開発部です』

デスクトップにペタン座りをして、消え入りそうな声のミニ朝比奈さんが受話器を重そうにしながら耳に当てた。

「中河と申しますが部長さんはいらっしゃいますか」

『あ、あのですね、部長さんは今ご不在で、たぶんそのへんにいらっしゃると思うんですが……もしかしたら机の下でお昼寝中かも』

「じゃあ伝言をお願いしてよろしいですか」

『伝言ですかぁ、伝言なら得意ですっ』

「ではいきますよ、坊主が屏風びょうぶに上手に坊主の絵を描いた」

『ま、待ってください、ええっと坊主がジョーズの映画を見に行った、と』

どんな生臭坊主だよと突っ込まれそうなくらいにいい伝言ゲームになってるな。

「それから、カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ、」

『か、カエルは苦手なんですっ、ヒヨコとかにしてもらえませんかぁ』

中河、あんまり朝比奈さんAIをいじめるな。

「部長さん、これはどうやって動いているのでしょうか?」

「実は僕たちにもよく分かっていないんですが、正確には自律思考型業務支援仮想人格クラスタと言いまして、副社長の設計によるものです」

部長氏は外様そとさま向けの仕様書を中河に見せた。ページをめくる中河の手がプルプル震えている。

「これは今までに例のない次世代のプログラム技術ですね。一社独占で国際特許ものだ」

そんなにすごいシステムだったのかこれは。

「すばらしい、ぜひうちにも導入したい。グループ全社にも紹介したい」

ちゃんと仕様を読んだかオイ、こんな秘書システムでいいのか。じっと食い入るようにモニタを見つめる中河の両目にピンク色のゴシック体太字で“萌”の字が写っていた。やれやれ、こいつも同族だったのか。

「今すぐ仮見積もりを出すわ。まいどありぃ」

ハルヒはニヤリと笑って部長氏の肩を叩いた。やれやれ、ミニ朝比奈さんでお得意様一名確保か。中河ならミニ長門のほうがよかったんじゃないのか。


 人工知能と簡単に言ってもいろいろあって、全部が全部、ロボット型の男の子がフェアリーテールを探して旅をしたり、人類を発電所の電池代わりにしてしまったりするというもんでもない。最近よく知られてるのが映像から人の顔を識別する画像認識プログラムで、カメラの映像からその人の顔かたちと一致するかを判断する門番の役をしていたりする。カメラに向かって写真を見せられたら本物と区別できないっていう間抜けな門番だが。ほかにも、身近なところでは大手通販サイトなんかでよく“この商品を買った人はこんなモノまで買っています”なんていう、ただ売りつけたいだけじゃないのかと疑わしくなるような商品列挙をしてくるサービスがあるが、データマイニングという一種の人工知能らしい。カーナビに向かってしゃべるとちゃんと反応して道案内してくれるのも、一応は人工知能だ。

 この長門が作った人工知能はカメラからの映像やマイクの音なんかのデータを拾うのは同じだが、ごちゃごちゃしたまわりのデータからテーマを決めて意味のあるものに組み立ててから理解するという今までにはなかった造りをしていて、そこが売りなんだとか。作ったというよりは育てたというか、元はウィルスなんだがね。

 中河はこの朝比奈さん、じゃなくて人工知能がいたく気に入ったらしく、俺にはよく分からない専門用語を駆使して長門に質問を浴びせていた。

「バックで動いているDBですが、どういう構造なんでしょうか」

「……人の記憶プロセスを模倣もほうし、複数の時間軸を含めた多次元構造を擬似的にリレーショナルに格納している」

「ということはあのキャラクタは黙っていてもデータを蓄積しているということですか」

「……そう。自らの思考プロセスを含めてすべて記憶している。データ加工の工程もまたデータになる」

「主時間は今までの人工知能にはない概念ですね。しかし主時間を二十四時間記録し続けると膨大な量になりませんか」

「……四六時中というわけではない。業務時間以外にはもっぱら過去データの分析と再構築が行われている。通俗的な用語を用いるなら、昼寝」

長門が、画面上でミニ朝比奈さんがうたた寝しているところを再現してくれて、そのあまりのかわいさに野郎三人共にハァとため息をついた。

 突発的なデモが終わりハルヒは中河を連れて開発室を出た。部長氏は突然の来客に緊張していたらしく大きな脱力系ため息とともにソファにぶっ倒れてそのままぐうぐうと眠った。


「涼宮さん、これまでの導入実績の件数はどれくらいですか」

「そうね、まだ両手と両足に余るくらいかしら。なんせ人が足りないからね。この先二年は予約でいっぱいよ」

「そうだったんですか、今日中に仮契約をお願いできませんか。必要なら手付けの小切手を切りますが」

「あら気前がいいわね。いいわ、キョンの知り合いってよしみで最優先でやってあげる」

「おいおい中河大丈夫か。コンビニで買い物するのとはわけが違うんだぞ」

「なに言ってんだキョン、こんな業界をひっくりかえすような製品を手に入れられるチャンスはそうそうないぞ。社長決済で役員を説得してみせる」

八桁の買い物を事後承諾でぺろりと決済できるとは、お前のところはワンマン社長っぽいな。まあうちは売る立場だし、まったく構わんのだが。

「今後の事業展開はどのようにお考えですか」

「そうねえ。信頼できる会社に技術供与をして、代理店契約してもいいかもね。この秘書はまだ特許申請中だけど、ライセンスは高いわよ」ハルヒはニヤリと笑った。

「その折には、代理店第一号をぜひうちにご指名ください」

「いいわ。うちはまだ新参だから流通が狭いしね」

中河の目がキラリと光った。驚くべきことをサラリと言った。

「涼宮さん、よろしければうちの傘下になって流通を使いませんか」


 アタックオブ中河 Episode_00とでもタイトルを振ってやろうかという勢いで、突如襲来ではじまったソフトウェア販売契約の話が、妙に利害が一致するらしい社長同士の会話の流れで会社の買収にまで発展してしまった。ハルヒときたら野心丸出しで、相手が上場企業なもんだから世界にSOS団の名前を知らしめる絶好のチャンスだなどとのたまっている。

「俺は反対だ」

「あんたが反対しても鶴ちゃんが決めることでしょ。とはいっても、この会社はあたしに一任されてるわけだし、あたしの一存ってことになるわねぇ」

「そりゃそうだが、俺たちは会社を売るために作ったわけじゃないだろう。モノ作りのためだろ」

「別に会社を売るわけじゃないわよ。先方の持ってる顧客とマンパワーを使わせてもらうだけよ」

「それだけじゃないだろ、傘下になりゃ財政も経営方針も握られてしまうぞ。そうやって提携の泥沼にハマって会社を乗っ取られたりするんじゃないのか」

「これが業界ってもんでしょ、あんたは杞憂きゆうしすぎよ」

「俺はずっとこの五人で地味にやっていければと思ってたんだが」

「この会社を作るとき最初に言ったわよね。生き馬の目を抜くスピードの今の時代じゃ、ベンチャーしかないって。会社経営ってのは生モノなのよ。いつまでも同じところにしがみついていたら流れに乗り損なってしまうわ。買収なんて会社が成長していくための小さな流れのひとつよ」

まあ言ってることは分かるんだが、それにはちゃんとした方針っていうか目標っていうか経営の方向性があってのことでだな、行き当たりばったりで好きなことをやってる俺たちが言えることじゃないと思うんだが。

「買収ってことは株主が変わるってことだ。つまり今の取締役会は解散ってことだろ、お前は俺たちをクビにしたいのか」

「あたしはクビにはならないわよ。あんたならまあ、部長にでも採用してあげるけど」

「俺は職が欲しくて言ってるわけじゃないんだがな」

「あんたがそこまで言うなら、いいわ。ストックオプション付けてあげる」

「金の問題じゃねえよ!」

俺はハルヒの机をドンと叩いた。ハルヒが言っているのは、中河の会社の株を安く買える権利をくれるってことなのだが、俺はそんな数年分の年収を越すほどの金が欲しいわけじゃない。……いや、欲しいな。


 翌日、ハルヒと長門は会社にいなかった。表向きは業務支援ソフトの営業だと言っていたが、たぶん買収の打診に行ったのだろう。企業買収ってのは資本の横槍よこやりが入ったり株価に影響したりするんで、極秘裏に進めるのがセオリーらしい。

「あいつらがいないとやけに静かだな」

「そうですね」

「古泉、お前はどう思ってるんだ」

「どうと申しますと」

「中河の買収話だよ」

「ああ、あれですか。よろしいんじゃありませんか」

「聞くだけ無駄だった。お前はいつでもハルヒの味方だからな」

「なにも贔屓目ひいきめで賛成しているわけではありませんよ。少なくともここは涼宮さんが作った会社ですから、自分が不利になるような買収は受け入れないはずです。ということはSOS団のメンバーにとって不利益になるようなことは起こらない、と考えるべきでしょう」

「そんな悠長ゆうちょうなこと言ってていいのかよ。株式会社ってのは資本を掴まれたらおしまいだぞ」

「今回の買収がどういう待遇で行われるのか、それにもよると思います。独立した事業部として編入されるのか、あるいは別の子会社として存在できるのか」

跡形あとかたも残らないくらいに組織に吸収されたらどうするんだ」

「まあ、どうなるか今後の展開を見てみましょう」

機関という本業が別にあるからか、こいつはSOS団の行く末に少し能天気すぎる。グループ内に入ってしまえば子会社やら事業部なんてどうにでも再編されちまうんだが。

 前にも話したかもしれないが、うちは簡単に株式を売ることはできない株式譲渡じょうと制限会社で登録している。会社を解散するとか売るとかしたいときは取締役会の同意が必要だ。なはずなのだが、不安に思って登記のときに作った定款ていかんを見てみると、役員の過半数の賛成が必要ってことになっていた。あんときはテンプレートを多丸さんにもらってそのままコピーして作ったのだが、今になって考えれば全員一致の賛成票にしとけばよかった。そうなれば俺一人ででも阻止できただろう。

 反対と言ってるのはまだ俺ひとりなんだがほかのやつはどうするんだろう。長門は元々ハルヒの監視が役目だし、部長氏は意外とハルヒの尻に敷かれてるから賛成にまわるかもしれない。いや待て、それ以前に株主が株を手放す意思がないと成立しないはずだ。まかり間違って鶴屋さんがうちを叩き売ったりはしないだろうが、ハルヒのゴリ押しで売られないとも限らん。先に根回ししておこう。

 俺は電話を取って鶴屋さんにかけた。

「キョンです」

『もしもーし、鶴ちゃんだよ』

「どうも株主さん、いつもお世話になっております。今ちょっと話せます?」

『いいよ。もしかして中河くんのことかい?』

「あれれご存知だったんですか」

『ハルにゃんからちょっと相談があるんだけどってメールが来ててね、近いうちに株主総会を開きたいらしいのさ』

鶴屋さんひとりの株主総会か。なんだか寂しいな。

「じゃあ単刀直入にお願いしたいんですが。鶴屋さん、反対票を投じてもらえませんか」

『キョンくんはいやなのかい?』

「なんというか、考え方が古いのかもしれませんが、俺は別に上場企業にならなくても持ち前の技術を売るだけの経営で細々とやっていきたいんです」

『キョンくんは根が職人なんだねえ。分からないでもないさあ』

その割には技術らしい技術は持ち合わせていませんが。

『買収っていうと聞こえが悪いけど、目的地にたどり着くために乗り物を乗り換えるって考えればいいんじゃないのかな。電車から飛行機に乗る感じでさ。うっとこも、会社そのものじゃないけど経営権を買ったり売ったり繰り返しながらきたんだけどね』

いっぱしの経営者らしく、思いのほか鶴屋さんは平然としていた。

「そうだったんですか。でも、自分が手塩にかけて育てた会社を売るのっていやじゃないですか」

『うーん。あたしはその会社が手を離れるのを“卒業”だと考えてるさ。同じ経営者が続けるより業界と景気にもまれたほうが企業としての競争力が強くなるっていうかね、まあモノにもよるんだけど』

「はあ、そんなもんですか」

『今SOS団は流れの速い業界にいるわけでさ、知識がなくてなにもアドバイスしてやれないあたしなんかが株主やるより、動向を知ってる親会社がついてたほうがいいってのはあるよね』

なるほどね。俺もそれくらい割り切ってこの会社をやっていければいいんですけどね。

「まあ株主さんがそうおっしゃるならしょうがないですが」

『いやいや、あたしはSOS団の経営にはタッチしないつもりだから。今後どうするかはハルにゃんの方針次第ってことさね』

電話を切る前に、鶴屋さんはひとことだけボソリと言った。

『でもね、ゼロから育てた、自分の子供みたいな会社が手を離れるのはやっぱり寂しいさ』


「たっだいまあ、みんな朗報よ!」

「……戻った」

「おかえりなさい、社長、副社長」

勢いよくドアを開いて入ってきたハルヒと長門を古泉が出迎えた。

「みんな集まってちょうだい。取締役会を非常招集するわ」

いよいよ来やがったか。多忙な部長氏も呼んで会議室に五人を集めた。

「聞いてるとは思うけど、我がSOS団がIT業界に躍り出る一世一代のチャンスがやってきたわ。大手企業グループの傘下に入るよう誘われてるの。具体的には中河テクノロジーに吸収合併されるんだけど、あたしたちは独立した事業部として活動できるわ。しかも部下が五十人に増えるのよ」

「すっごいじゃないか社長。中河テクノロジーといえばいまや花形だよ」

部長氏が目を輝かせて喜んだ。やれやれ、事業部編入か。ただの歯車だと思うんだが。

「まだあるわ。現在の取締役は起業とこれまでの労をねぎらって、新株購入権付き社債しゃさいを受け取れるわ。まあ時価にするとひとり当たり二千万くらいだけど、将来は株価に比例して膨れ上がることは確実よ」

「株主の鶴屋さんはどうなるんだ」

「それはまだこれから相談しないといけないんだけど」

「おそらくですが、株式交換になるんじゃありませんか。もちろんレートは高いほうがいいですが」

まあ好意で出資してくれた鶴屋さんがそれで納得するならいいんだが。

「それにしても、二千万はたいした額の報酬ですね」古泉がうなずいた。「勝手ながら先方のIR情報の裏を取ってみましたが、あの会社の経営状態は非常に安定しているようです。まだ二部上場したばかりですが、顧客数も四半期純利益しはんきじゅんりえきも右肩上がりに上昇。ITベンダーにありがちな株価の急騰きゅうとう急落もありません」

「でしょでしょ、あたしにはピンと来たわ。これは伸びるって」

お前のピンとやらを安全ピン程度に信用してもいいものかどうか迷うところだが、問題はそういうことじゃない。

「中河テクノロジーの決算書なんかどうでもいいんだがな、俺たちが今までやってきたことはどうなるんだ?」

「もっちろん全部ノシつけて持参よ」

「タイムマシン開発はどうするんだ」

全員が黙り込んだ。と思ったんだがひとり部長氏が不思議な顔をしてたずねた。

「あの、タイムマシンってなにかな?」

やべ、ここにひとりだけ秘密を知らされていない内部の人間がいた。

「あー、部長氏。これは守秘中の守秘で、うちでやってる研究事業のひとつなんですが。絶対に漏らしたりしないでくださいね」

「え……キミ本気で言ってるの?」

今にも笑い出しそうな部長氏だったが、この人はまだまだ正常な人間と見えるな。

「本気に決まってるじゃないの。特許申請もしてるわ」

「そうだったのかい」

「部長さん、これは一世紀くらい未来への投資と考えてください」

古泉が苦笑しつつとりなした。どう見ても冗談ではなさそうな四人の真顔を見て急にまじめな顔になり、部長氏はうなずいた。いざってときには記憶を消してしまうとか禁則をかけるとか、長門の手を借りないといかんな。

「で、どうするんだハルヒ」

「タイムマシンねえ……」

ハルヒは古泉を見て言った。

「実はもうタイムマシン開発の目的は達しちゃったのよねえ」

ハルヒが顔を赤く染めてシナを作り、古泉と目を合わせてニコっと笑ってみせた。

「もしかしてジョンスミスか、ジョンスミスだなオイ」

「えへ、じっつはそうなの」

えへじゃないよまったく。お前のタイムマシン願望のために過去に飛ばされたり未来に行ったり散々だったんだからな。

 しかし困ったことになったぞ。歴史改変のフォローは過去だけだと思っていたが、このままだと未来にも影響しかねん。つまりハルヒのはじめたタイムマシン開発は朝比奈さんの時代に繋がっているわけで、それが必要なくなってしまうと俺たちの過去も危うくなる。ここはなんとか続けさせないと、俺は朝比奈さんに未来を託されているわけだからな。

「長門とハカセくんにあれだけ仕事させといて今になってやめるってのはどうかと思うぞ」

「今すぐやめるとは言ってないわよ」

「出資してくれた鶴屋さんにも申し訳ないだろ。秘密裏にでも進めてくれ。お前がやめるってんなら俺がやる」

「あんたに言われなくてもやるわよ」

ハルヒの願望とやらは欲しいものを手に入れてしまうと消えてしまうらしい。もしかしたら宇宙人未来人超能力者も消えてしまいかねん。安易に願い事をかなえてやるのも考え物だ。


「長門は買収についてどう思ってるんだ?副社長として」

「……わたしは部下に過ぎない。社長の意思に準ずる」

「お前が主力製品の業務を担当してるんだから、もっと忌憚きたんなく意見を言っていいぞ」

主観での意見を求められて少し迷っているようだったが、やがて口を開いた。

「……十分な資金力のある企業の内部組織として活動することには一定のメリットがある。ただし将来的に二転三転して売却されることも考えておかなければならない」

かなりシビアな見方だが的を得ているな。買収のときに特許権やら技術資産やらが本社に持っていかれるのは必至だ。その後でもし中河の会社の経営がやばくなったら真っ先に売却候補に挙がるのは新参の俺たちだろう。あるいは中河の会社そのものがグループ内でバラバラに分解されるかもしれない。今どきはグループ内の資産を分割して整理することが多く、子会社の株をひとつの持ち株会社に集めて経営権を集中管理するようになっているからな。そこで働く人たちも資産として扱われるらしく、正社員だと思って働いていたら実は関連の人材会社からの出向だった、なんてこともよくある話だ。

 今は鶴屋さんの暖かい羽の下で好きなことをやって暮らしているが、そんな金と数字に分解されてしまう複雑な仕組みの中に入って俺たちが無事生き残っていけるのかどうか。

「ハルヒに古泉、その辺はどうなんだ?俺たち全員がバラバラになって、中河の企業グループの部品として生きていく覚悟があるのか?」

「次のステップに登るためならそれくらいの犠牲は必要でしょ。今までは経営戦略を固めるための予備期間だったけど、そろそろ実力を発揮する段階だと思うわ。目標は市場のシェア一位よ」

「今までが準備運動だったってのか。俺は今の顧客をベースにしてもっと足場を固めるべきだと思うんだが」

「まあまあ、僕たちはまだまだ小さな企業ですし、今だから冒険ができるというメリットを活かすチャンスでもあります。失敗してもまたやりなおせばいいんです。もし中河さんの会社が解散しても、僕たちが失うものはなにもありません」

「そ、そうよね古泉くん。入ってみて面白くなければやめればいいのよ。またみんなで会社作ればいいんだし」

「言うことはまあ、もっともなんだが」

「とにかくあたしはもっとでかいことをやりたいのよ」

「まあお前がそこまで言うなら、平の取締役の俺にはなんとも言えないさ。ただし、」

「ただしなによ」

「今日の議事録には反対票として記録してもらうぞ」

悲しいかな、それが俺のささやかな意思表示だった。


 なんだかんだ言って俺はこの会社が気に入っていた。ハルヒが部活をはじめたときもそうだったが、最初は正体不明でなにをするのか分からない集団が、やっているうちにやめられなくなり、次第にそれなしでは生きていけなくなる。あいつの願望を実現する能力とか奇妙な空間や巨人を作り出す能力とは別で、ハルヒには人にわけの分からない生き甲斐を感じさせるという不思議な力がある。

 もちろん本人が楽しいからやるんだろうが、飽きてしまうと別のことに目が行ってしまうのはいつものことだ。俺はどっちかというと同じところで同じ幸福を味わっていたい。可能な限りいつまでもそうしていたいと願うんだ。

 ハルヒのやりたいことは分かっている。あいつはいつもはるか上を、自分の手の届かない場所を見つめて生きている。宇宙人を呼んだときも未来人を呼んだときも、タイムマシンを作ると言い出したときも。ハルヒの辞書には満足という文字がないのか、休む間もなく願い事を実現している。あいつにとっちゃ願いの星なんていくらでもあるのかもしれないが、俺にしてみればそんなひとつひとつの流れ星が貴重でいとおしくて、もう二度と手に入らないかもしれないというか、いつまでも手の中で包んでいたい。今じゃそう思う。


 ハルヒと長門と古泉は、鶴屋さんを連れて中河の会社に今後の打ち合わせに行った。俺はどうしても留守番すると言って行かなかった。どうせ平の取締役だ、俺の欠席のまま勝手に決議でもすりゃいいさ。

 夕方、ハルヒから電話がかかってきた。受話器を取ると笑い声が漏れ出し、やたら上機嫌なようだ。

『キョン、あたしたち飲み会で直帰するからカギかけて帰ってね。暇ならあんたも来なさいよ』

「……」

俺は何も言わずに電話を切った。別にイライラしてるわけではないんだが、生まれては消えるやり場のないモヤモヤしたこれっていったいなんだ。

 事務所のドアを閉めて帰ろうとすると、エレベータの前で長門に会った。

「直帰じゃなかったのか」

「……少し、話がしたい」

帰ってきた長門は少しだけ喜んでいるような、でも後ろめたいような複雑な表情をしていた。

「……本社で取締役の椅子を用意すると言われた」

そりゃまたえらい好待遇こうたいぐうだな。社員二百人の会社の経営陣か。

「それで、OKしたのか」

「……まだ。株主と涼宮ハルヒが買収に応じれば、そうなるかもしれない」

そうなったら、技術知識の下地がない俺はいつか追い出されるかもしれんな。長門は天にも届きそうなビルの最上階で個室に秘書付き、俺はもしかしたら営業課長くらいにはなれるかもしれんが、どっちかといえば地面に近いフロアでぺこぺこ頭を下げながら働いている。あるいは退職金で食いつなぎながらハローワーク通いか。急に長門が手の届かない雲の上に行ってしまいそうな気がした。

 ところが、長門が次に放った言葉の衝撃はもっと大きかった。

「……わたしと、付き合いたい、らしい」

俺は血の気が引いた。長門はじっと俺を見つめていた。一分くらいそうしていたと思う。

 にらめっこは俺が負けて目をそらした。

「お前の好きにしたらいい」

ほんとはこんなセリフを言うつもりはなかったんだが。嫉妬しっととか自己憐憫じこれんびんとか自暴自棄とか、職を失うかもしれないという寂しさやらがぐるぐると渦巻いて、俺はもうどうにでもしてくれという気分だった。

「……」

「俺はお前を束縛そくばくなんかしないから。好きなほうを選んでいい」

「……本気で言ってるの」

「もちろんだ」

二人は真正面から見詰め合った。長門の漆黒の双眸そうぼうは少し潤んで、握っている手が心なしか震えているように見えた。黙ってつかつかと俺に歩み寄り、右手を大きくふって俺のほっぺたをひっぱたいた。ぺっちんと乾いた音が廊下に響いた。

「……もう、いい」

長門はくるりときびすを返してエレベータに乗った。

「な、なが……」

俺が手を上げて呼び止めようとするも、無残にもドアが閉まった。俺は叩かれたほっぺたをなでつつ、そのまま固まっていた。あいつ、こんな意思表示もするようになったのか……。

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