三 章

挿絵:

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 翌朝、俺はわざと遅れて自転車で会社に行った。昨日長門に謝ろうとずっと電話していたのだが電源を切っているか電波が届かないが延々続いて結局そのままになってしまった。

 ハルヒは俺が出社しないうちに二人を連れて中河に会いに行った。俺は知っていてわざと遅刻したのだが、今度は先方の取締役会と親会社の役員に会うらしい。さっさと進めてしまいたい気持ちは分かるんだがな、交渉ごとを急いでやると損するぞ。


── というわけなので、以下は聞いた話である。


 中河テクノロジーの親会社、つまり筆頭株主だが、揃いもそろってでっぷり太ったお偉いさんばかりだった。バブル崩壊を潜り抜けて来たつわもの共で、きっとあくどい事をして稼いできたに違いないと思わせるような連中だった。こういう連中は市場の注目を浴びそうな目新しい技術がお好みらしく、人工知能を使った業務支援プログラム技術というものにかれているらしい。

「これまで、人工知能とうたわれた技術のうち実用化したものは、限定された環境においてのみ稼動するものばかりでした。実用化のコストもさながら、どんな情報にも応じられる汎用性の高いプログラムロジックは実現が難しいとされてきました」

中河のプレゼンだが、技術的な話を延々述べても右から左に素通りするだけだろうというので、深く突っ込んだ話はしなかったらしい。まあこいつらは金を出すだけだからな。

「ここに新時代の人工知能技術を設計された長門有希さんを紹介します。彼女を取締役最高技術責任者CTOとして迎え、海外も含めた事業展開を任せたいと考えています」

会議室に全員の拍手が響いた。ハルヒも椅子から立ち上がって深々と頭を下げている。

 突然拍手の波を破ったのは、固いテーブルをドンと叩いた長門のこぶしだった。経営陣を、それから中河を睨みつけていた。

「……この買収、断る」

「有希ったら、いきなりどうしたのよ」

長門は中河を指差して叫んだ。

「あなたはわたしに近づくために会社を買い取る。わたしは、売り物ではない」

「い、いえ、そんなつもりはまったくありません」

中河は顔を真っ赤にして弁解した。長門は皿のような目で一堂を見回してから、文字通り席を蹴って出て行った。座っていた椅子がクルクルと床に転がった。

「皆さん申し訳ありません、私の言動が誤解を招いたようです」

「とんでもありません、長門が失礼を申しまして、すいませんすいませんっ」

ハルヒが冷や汗をかきかき、平謝りに謝った。


「、ということがありましてね」

「そりゃみんな驚いただろうな」

「ええ。結局会議は中座しまして、鶴屋グループの会長と取引銀行も呼んで金額的な折り合いをつけようということになりました」

「鶴屋さんの親父さんか。俺たちがふだん動かしている金とは桁が違うから、そういうベテランがいたほうがいいかもしれんな」

「それはそうと、ちょっと耳に入れておきたいことがあります」

「なんだ」

「実はこの件が持ち上がってから中河テクノロジーの株が買われています」

「どういうことだ」

「調べてみましたところ、親会社の役員筋からネタのリークがあったようです。どうやらインサイダーの匂いがしますね」

「買収ネタで株価操作しようってのか」

「インサイダー無法地帯の日本ではよくあることですが」

よくあるっつったって違法は違法だろうが。そりゃまあ株価ってのはどんなネタでも上がったり下がったりするもんだから、さして驚きはしないが。

「そして今日、長門さんが交渉の場を蹴ってしまうと買いがぴたっと止まりました」

「ざまあ見ろだな。俺たちをネタにして濡れ手に泡で儲けようなんてやつがいるとは、ハルヒが聞いたらぶち切れるぞ」

「切れているのは長門さんのほうで、もしかしたらすでにご存知なのかもしれません」

いやま、長門が怒っているのは俺に原因があるんだが。

「それにしても、長門さんがあのように感情をあらわにされるのを見るのははじめてですね。僕も何が起こったのかと唖然としました」

 俺はといえば、長門、よくやったという気持ちだった。最初この話があったとき、長門の評価がもっと上がればいいという正直な気持ちも確かにあった。ところが上がったのは中河テクノロジーの株価だったってわけだ。

 いやいや、株価なんかはどうでもいいんだがなにかに落ちない。ここに来てなにが不満なのかよく考えてみたが、俺たちの作ったSOS団を誰か外部の人間に操られるのが嫌だという、非論理的でマネージメントともビジネスともまったく関係ないところから来る率直な気持ちだった。SOS団を金を生むためのネタにされるのが嫌なのだ。金にあかせて会社を食っちまうアメーバみたいな大手グループなんぞにSOS団を渡してなるものか。中河なんぞに長門を渡してなるものか。これは俺の会社だ。俺の長門だ。


 その日、長門はとうとう会社には戻らなかった。自宅の電話にも携帯にも出ない。

「もう、有希ったらいったい何考えてんのかしら」

「SOS団が売りに出されるのが嫌なんじゃないか」

「売るわけじゃないわよ。手漕ぎのボートから豪華客船に乗り換えるだけじゃない」

「俺は長門の気持ちは分かるぜ。金を稼ぐだけが目的の仕事は嫌なんだろう」

「もう、場合によっちゃ取締役から外すからね」

「まあ長門には俺から話すから待ってくれないか」

「いいけど、この交渉がこじれたら有希のせいだからね」

俺は少しだけハルヒをじっと見て、それから言った。

「お前、中河が長門を誘ってたの知ってたか」

「えっ……」

「たぶん長門は、自分が買い取られるように感じたんだろう」

「そんなこと有希はひとことも言わなかったのに」

「言うわけないさ。俺しか知らん」

「で、あんたはなんて言ったの」

「好きにすればいいと答えた」

「あんた、ずっとバカだと思ってたけど、ほんと最低ね」

「自分でもそう思う」

「あのねキョン、この際だから言うけどね。有希がどれだけ気持ちを溜め込んでるか分かってないでしょ」

「俺なりに多少は分かってるつもりなんだが」

「あたしだったらね、好きだと思ったら嫌われても真正面から好きと言うわよ。でも有希は簡単に表に出すタイプじゃないわ」

「お前が長門を観察してたとは意外だな」

「あったりまえじゃないの。団員の精神状態くらい把握してるわよ」

長門の微妙な心の動きを察知できるのは俺だけだと自負じふしていたが、実はなにも分かっちゃいなかったのかもしれない。長門の表情に広がる小さな波紋はちょっとした眉毛の動きとか瞬きのタイミングとか視線の流れとか、あるいは口元のゆるみなんかなのだが、それを見ていれば今どう思っているか分かる。でもあいつの心の中にある、見えなくて時間のずっと先にあるものは分かっていなかった。

「今から有希に会って謝ってきなさい」

「俺だけが悪いのかよ」

「当たり前でしょ、有希にとっちゃ中河さんなんてどうでもいいのよ。問題はあんたよ。ちゃんとフォローしなさいよね」

「分かってるさ。二三日したら長門も落ち着くだろうと考えてたんだよ」

ハルヒはイライラと眉毛を吊り上げた。

「あんた、あたしが今までやったことでひとつだけ後悔してることがあるの、知ってる?」

「さあな。自信家のお前が後悔するようなことがあったのか」

ハルヒはまっすぐ俺の目を見据えて言った。

「十一年前に、ジョンスミスの電話番号を聞かなかったことよ!」

俺はどう答えていいのか分からなかった。その件に関しちゃ、別の意味で責任を感じているわけなのだが。

「そのときはどうでもいいことのように感じたけど、あれから気になって毎日のように探したわ。近隣の電話帳で探した。身元調査会社も雇ったわ。市役所で調べてもらおうとしたら断られた」

「まあ、そりゃそうだろう」

「何度もあきらめようと思ったし、いっそ別の誰かと付き合おうかとも考えたわ。見合いをしたのはかなりヤケだったけど」

「そうだろな。あれは見ていて痛々しかった」

「そんなことはどうでもいいのよ。あたしが言ってるのは、一度の出会い、一度のデート、一度のキスがそれからの一生を決めることもあるってことよ」

俺はなにも言えなかった。

「昔の人はいいことを言ったわ、一期一会いちごいちえってね。あんたは十年も待てるタイプじゃないでしょ?」

このハルヒの一言は、俺にはかなり重くのしかかった。もし俺がハルヒの立場だったら。簡単にあきらめてさっさと別のやつに視線を移していたに違いない。

「分かった……。これから行ってくる」

「ちゃんとバラの花束を持っていくのよ」

分かってるさあ、いちいち。

 長門になんて謝ろうかと難しい顔をしつつロッカーから背広を取り出していると、古泉が、二人の間になにがあったかは知らないけどがんばってくださいとニヤつきながら言った。歴史改変のときには散々ハッパをかけたこいつに言われるとはな。


「なあハルヒ、思ったんだが」

「まだいたのあんた、さっさと、」

「お前が打ち合わせに行くたびに中河テクノロジーの株価が動いてるの知ってるか」

「そうなの?」

ハルヒが古泉に向かって首をかしげると黙ってうなずいた。

「買収の目的が一緒に仕事をしたいってのは表向きで、情報やら技術やらを金のネタにされた挙句あげく骨抜きにされるなんてことはよくある話なんだが」

「中河が株価操作してるっていうの!?」

いきなり呼び捨てかよ、さっきまでさん付けだっただろう。

「そうとは言い切れないが、グループの中に俺たちをネタに一儲けしようってやつがいるのは確かだ」

「それくらい、業界じゃふつーのことでしょ」

「会社経営はそういうもんだってのは分かってるさ。だがなハルヒ、お前はSOS団が汚い金にまみれてしまうところを見る覚悟があるか?」

ハルヒは黙った。俺たちには金の質をとやかく言うほどの経験もないし経営判断ができるわけでもない。

「でも、SOS団にないものが中河テクノロジーにはあるのよね」

「中河テクノロジーのリソースじゃなくて、鶴屋さんのリソースを借りるほうがまだ安全だろ」

俺たちは傘下にいながら鶴屋グループのことをほとんど知らない。正式には傘下ではなくて鶴屋さんのポケットマネー的な孫会社ってことになっているのだが、ハルヒはそれもそうねぇという表情をしていた。


 あーそうだ、鶴屋さんといえば花を買っていこう。俺は長門のマンションに向かう前に鶴屋さんの店に寄った。

「いよっ、キョンくんじゃないか。今日も疲れた顔してるねっ」

「どうもです鶴屋さん。長門の件はすいませんでした。もしかしたら今回の話は見送りになるかもしれませんが」

俺は腰四十五度の礼をした。

「いやいや、いいっさ。もう買収交渉はうちの親父に任せることにしたから、あたしはノータッチなのさっ。ハルにゃんがやりたいようにやるのがいいさ」

「なんというか、鶴屋さんのお父さんにまでご迷惑をおかけして申し訳ないです」

「わははっ、固い話は抜き抜き。あたしはただの花屋さっ」

世間話に来たんじゃないんだった。

「花束をひとつお願いしたいんですが」

「ほほーう。して、どういうシチュエーションなんだい?」

「実は長門を怒らせてしまいまして」

「あははは。怒った長門っちには萌えそうだね。まあ、男と女にゃそういうこともあるっさね」

「ピンクのバラを入れてもらえますか」

「ようがすっ。ちょい待ち」

予算は一万円くらいにしてもらった。今月はあれこれ出費がかさむ。

「メッセージカードは入れるかい?」

「ええと、ください」

マジックで、ごめんよ長門と書いて刺してもらった。俺にはラテン語なんて書けない。

「まいどありっ。がんばれキョンくん、キミならやれる!」

 右肩をガシっと叩かれ、二十四時間元気営業中の鶴屋さんパワーをもらって少しだけ気分が軽くなった。自転車の前カゴにバラの花束をのっけて鼻歌なんか歌ってしまうくらいに意気揚々と長門のマンションへと向かった。

 玄関で長門の部屋の番号を押したが、出てこなかった。もしかして眠ってるか、あるいはまだ怒ってて出てこないか。俺は四桁の番号を押して自動ドアを開けて入った。部屋のドアの前でインターホンを押してみるが出てこない。いないのか?

 電話をかけてみるが部屋の電話にも携帯にも出なかった。あいつがこの時間にひとりで出かけてるとは思えないんだが、図書館はもう閉まってるし。気になってあちこちかけてみたが誰も行方を知らないようだった。

 俺は喜緑さんにかけてみた。

『喜緑です』

「もしもし、キョンです。ご無沙汰してます」

『あら、こんばんわキョンくん』

「長門が昼過ぎくらいからいなくなってしまいまして、もしかして行き先にお心当たりがあるんじゃないかと」

『ちょっと待っててくださいね』

喜緑さんは送話口を手でふさいで、なにか話しているようだった。

『キョンくん、あのね。長門さんここにいるんですけど、今は会いたくないらしいんです』

な、なんですと。長門に避けられてるなんて俺も終わりだ。

「ちょっとだけ話したいんですが、電話に出してもらえませんか」

『えっと……ごめんなさい、いやだって言ってますわ』

これは困った。何号室かは知らないが喜緑さんってたぶんこのマンションだよな。新聞の勧誘のフリをして一軒ずつノックして確かめてみるか。

「ドアの前に花束を置いておくので水に挿してくれ、と伝えてもらえます?」

なんだか古泉のときと同じ展開だな。バケツの水を被せられないだけマシか。

『分かりました』それからヒソヒソ声で、『あのねキョンくん、落ち着くまで少し時間を置いたほうがいいと思いますわ』

それもそうだな。とりあえず居場所は分かったんで、俺はよろしくと頼んで電話を切った。喜緑さんならなんとか取り成してくれるかもしれない、なんて甘いことを考えつつ。


 マンションを出て、俺は建物を見上げた。すべての部屋の明かりが灯っている中で、長門の部屋の窓だけが暗かった。

 このまま長門が別れるなんて言い出したらどうしよう。中河と仲睦なかむつまじく会社経営にいそしむようになったら、なんかの拍子に中河と付き合うようになったりしたら。中河も悪いやつじゃない、カリスマ的で誰もが安心して頼れるタイプだ。俺でも男惚れする。俺は蚊帳かやの外、取締役が決まっているハルヒとも会えず、古泉とひっそり昼飯を食うだけの毎日。たぶんだが俺はやる気をなくして会社をやめちまうだろうな。

 ついこないだ高校一年の俺を見てあまりのだらしなさに腹が立って殴ったが、根本的に中身が変わってない気がする。こんな俺に誰かかつを入れてくれないものか。そんな他力本願なことを考えてるからダメなんだということは重々承知しているんだが。


 そのまま家に帰る気にはなれなくて、俺はなんとなく公園に足が向いた。街灯の下に黄色いベンチがぼんやりと浮かんでいる。俺は自転車を止め、ため息をつきながら腰を下ろした。

「はあ……」

別に目的があって来たわけじゃなくて、考え事をするときなぜかここに来るのだが、思えばこのベンチにもいろんな思い出があるよな。ここに来ればパブロフ的に安心するというか、時間と空間がからむようなトラブルには必ずといっていいほどここにやって来たものだ。今でも街灯の下でぽつりと座っている長門がいるような気がするし、振り返れば茂みの中に朝比奈さんがいるような気さえする。いつでも俺を待ってくれていた。


 公園の入り口のほうから人影が歩いてきた。

「キョンくん、こんばんわ」

「あれ、喜緑さんですか。さっきはどうも」

「お元気そうね」

「元気といいますか、まあ、精神的にはかなり参ってますが。長門のことでいろいろお世話かけてすいません」

「いいんですよ。男性と女性にはいろいろありますから」

この人には色恋沙汰ざたというものがありそうでなさそうで、日ごろがおっとりしているだけに恋愛したらハリケーン並みの嵐になるんだろうななんて失敬なことを考えている俺だが、にっこりと微笑む喜緑さんを見ていると少しだけ気持ちがいやされた。

「では、行きましょう」

「行きましょうって、いったいどこへです?」

「キョンくんに会いたがっている人がいるんです」

こんな唐突にいったい誰だろう。俺が不思議がっていると「キョンくんの古い知り合いです」と言った。昔テレビでやってた初恋の女の子とご対面みたいな感じがしなくもないですが、今の俺はそんなやつに会っても愛想笑いのひとつもできんと思いますよ。

 喜緑さんは俺の隣に座って手を握り、

「ちょっと揺れますから、目を閉じていてくださいね」

手が触れたときちょっとドキリとしたが俺は言われるままに目を閉じ、深呼吸をした。たぶん時間移動かなんかだろう。と思った途端やっぱり重力が上下反転する感覚に襲われ、閉じているはずの目蓋まぶたの裏で明滅する幻影がぐるぐると浮かんでは消えた。

「もういいですよ」

二人はベンチに座ったままだった。

「どこですかここ」

「駅前公園のベンチです」

時間移動したんじゃなかったのかと周りを見回したが、夜空も公園の木々も同じままで俺の知る風景となんら変わりはなかった。もしかして茂みの中に朝比奈さんが潜んでいるのかと目を凝らして待ったが、ウサギの気配すらない。

「その相手ってのはどこにいるんです?」

「線路沿いの道を下っていくといます」

「そっちって長門のマンションじゃないですか」

「わたしはここで待っていますね」

「喜緑さんも一緒じゃないんですか?」

「ええ、キョンくんだけで会ってきてください」

見も知らない人にひとりで会いに行くのかと、俺が不安げな表情を見せると喜緑さんはにっこり笑って大丈夫と言った。

 喜緑さんは俺の耳元でそっとささやいた。

「ちょっと驚くようなことがあるかもしれません」


 言われるままに俺は公園から出て道なりに進んだ。また妙なことになりそうな予感がして、心細げに後ろを振り返りつつ道を歩いた。もうすぐ通いなれた長門の住むマンションだが。俺の古い知り合いで最近は会ってなくて、俺に一人で会えってことは朝倉なんかじゃなさそうだし谷口やら国木田なんかに呼び出される筋合いはまったくないし、いったい誰だろう。俺は同級生の顔をいくつか思い浮かべた。まさか中河が俺に用があるとかでこんな呼び出し方をしたのか、なわけはないよな。この先にはハルヒが地上絵を描いた中学校もあるが、もしかしたらそこかもしれない。


 右手に、さっき出てきたばかりの長門のマンションが見えてきた。敷地の入り口に人影が立っていて、じっとこっちを見ていた。近づくとよく見知っている女の子がゾウリ履きにワンピースという姿で門柱に隠れるようにしていた。

「……キョン?」

やっぱり長門だったが、俺を二人称代名詞でなくてあだ名で呼んでくれるなんて珍しいじゃないか。昨日から今日の間にずいぶん変わっちまったな。

「そ、そうだが」

「もっと、顔をよく見せて」

長門は目を細めて俺を凝視し、メガネを外してハンカチでレンズを磨いた。よく見ると伊達だてメガネじゃなくてレンズに度が入っている。

 俺の知ってる長門じゃなかった。あだ名であろうと偽名ぎめいだろうと、俺のことを名前で呼んだりはしない。この長門は頬を染めて俺に駆け寄るなり両手を握り締め、嬉しくて同時に悲しいという俺でも滅多にしないような複雑な表情をしていた。もしかして俺の歴史改変のせいで長門がこんなに表情豊かに変わっちまったのかとまで疑いもした。潤んでくる目をメガネを外して何度も拭い、ここに俺が存在するのが信じられないという様子で何度も目をパチパチと瞬きした。

「……ぜんぜん、変わってない」

「長門、だよな?」

「そう。わたしが分からないの?」


 なぜか俺にはそれが分かった。人間の、長門だった。


 長門はまるで俺に逃げられるのが不安だとでもいうようにずっと手を離さず、お茶を入れるから上がって上がってと言いながら部屋のドアまで手を引いた。長門に引っ張られて部屋に入るなんて前代未聞だぞ。

 脱いだ靴も揃えぬまま、ともかくテーブルの前にペタン座りをさせられ、長門がキッチンへ駆け込んでいって急須に茶葉を入れてお湯を注ぐ音をじっと聞いていた。

「ええと、聞きたいんだが、ここはどういう世界なんだ?」

「どういう世界、とは?」

「ここが過去なのか未来なのか、お前なら分かるんじゃないかと思ったんだが」

長門はまた妙なことを言うやつだという目で俺を見つめ、

「あなたは、前にも同じようなことを言った。わたしが宇宙人だとか」

抑揚よくようがないところは似ているが、この長門は表情筋の動きが活発で、しゃべりも流暢りゅうちょうでたまに身振りすら入れる。それにいつもは少し間を置いて無言からはじまる会話がない。

 見たところマンションの様子も部屋の様子もあまり変わりはないし、俺の知っている長門の部屋と違和感はない。若干カーテンやら家具のデザインやら、インテリアの趣味が華やかな気もするが。にしても、こいつがヒューマノイドインターフェイスでなくて人間なのはなぜだろう。喜緑さんは俺になにをさせたかったんだろう。こいつはいったい誰なんだ、情報統合思念体はとうとう長門を人間の女の子にしちまったのか。

「それっていつのことだっけ」

「高校の頃、はじめて文芸部部室に来たとき」

文芸部部室にはじめて訪れたのは、ハルヒが部活をはじめるからというんで首根っこをひっつかまれた仔猫のようにして連れてこられたときのはずだが、俺が改変した歴史だと長門に勧められて入部したときだったか。どっちにしても長門とそんな会話したっけ。宇宙人の話はむしろ長門がしてくれたんじゃ……。

「涼宮さんはあなたが部室に連れてきた。他校の生徒だったので驚いた」

「ハルヒがよその学校の生徒?」

俺はしばらく考え込んだ。ふと、あるシーンが目に浮かんだ。はにかみながら白い紙片を差し出す長門。門の前で体操着に着替えるハルヒ。学ランを着た古泉。朝比奈さんのグーパンチ。つまりこいつは長門が自らと世界を作り変えちまったときの長門か!?俺はまたあの日に戻ってきたのか!?

「それにしちゃ、いろんな意味で俺の記憶と違う気がするんだが」独り言がポロリと漏れた。

「あなたの記憶?」

「あ、いやなんでもないんだ。最初に会ったときのことを詳しく聞かせてくれ」

「あなたと会ったのは、本当はもっと前。中央図書館がはじめてで戸惑っていたわたしに貸し出しカードを作ってくれた。あのときのあなたはとても親切で印象に残っていた」

「そのへんは覚えてなくてな。学校でもあれがお前だとは気がつかなかったんだ」

それは長門が作った俺とのめストーリーだな。あんときは過去を捏造ねつぞうされたんだとばかりにイライラしたが、あれは長門流のロマンスだったのかもしれない。

「そう。それから二度目は冬、あなたが突然部室に現れた。わたしが宇宙人だと言い張って戸惑った」

あんときの俺はそりゃもう必死だったからな。今思い出しても赤面するぜ。

「それからわたしが誘って、ここでおでんを食べた。朝倉さんが作ってきてくれた」

 おかしい、この長門はなぜすべてを遠い過去形で語っているんだろう。凝視ぎょうししていると長門は顔を赤くしてうつむいた。それでもじっと見つめていると、俺の長門とは微妙に違うところに気がついた。

「長門、ちょっと立ってくれないか」

「なに?」

長門はテーブルに手を着いてスクと立ち上がった。薄手のワンピースのすそが揺れる。

「身長は今いくつだ」

「ずいぶん測っていないけど、一六〇くらい。どうして?」

あのときとは背丈が違うな。スラリとしていてどっちかというとスレンダーっていうか。

「今、何歳なんだ?」

「二十四。なぜ?」

その答えに衝撃が走った。あの日から八年も経っている。長門によって改変された世界は十二月十八日の未明に俺たちの手によって上書きされ、なにもなかったことになったんじゃなかったのか。古泉の説明を信じるなら、時間軸が交差して無限記号のような二つの十二月十八日があり、未来からの干渉で事態を修復したんじゃなかったのか。この長門はあれから八回のクリスマスを数え、北高を卒業して成人を迎えて今ここにいる。未来の本人によって修正プログラムの短針銃を打たれたにもかかわらず、こうして俺の前でメガネをかけたままでいる。じゃあ朝倉はまだ健在で相変わらずおでんを作ってきたりするのか、ハルヒや古泉はどうしているのか。この世界がどうなっているのか、俺になにをさせたいのか喜緑さんの意図が分からない。

 長門は続けた。

「その次の日にあなたは三人を連れてきた。ひとりは北高の二年生、あとの二人は光陽園学院の生徒だった。そしてあなたはパソコンの電源を入れて忽然こつぜんと消えた。わたしたち四人を残したまま」

 俺は言葉を失った。あの後がどうなったかなんて考えもしなかった。世界は元通りになり、全員がなにごともなかったと同じように暮らしているとばかり思っていた。

 突然消えたりして残された人がいったいどんな気持ちになるか、心配どころか悲嘆ひたんに明け暮れそれが身内なら飯も食えない日々だろう。自分がそんな仕打ちを周りにしていたなんて今になってショックを受けている。結果がどうなるか、Enterキーを押す前に長門のメッセージの意味をもっと深く考えるべきだった。それを受け入れるだけの覚悟が自分にはあるのかちゃんと考えるべきだった。

 俺はあの日に文芸部部室に置き去りにした長門を見た。せめて旅に出るくらいの一言はあってもよかっただろうに。

「その後はどうなったんだ?」

「覚えてない?」

「すまん、記憶が曖昧でな」

「次の日の朝、あなたはカナダへ転校したと聞いた。それ以降まったくなんの音沙汰おとさたもなかった」

「そうだったのか……」

「……そして八年経った今、突然現れた」

つまり、こっちの世界から消失したのは俺で、朝倉の代わりに俺自身が行っちまったのか。別れの挨拶もなしに消えた俺を知って谷口の唖然とした顔が目に浮かぶようだ。


 静かな部屋の中で沈黙が二人を包んだ。俺はびることすらできなかった。この長門は白くなるまで唇を噛み締め、その後に訪れた俺のいない空白の時間を思い返しているようだった。いくら自分の世界に戻るためとはいえ、俺はこの長門を別れも告げずに置き去りにしたのだ。意図的ではなかったにしろ長門を八年も独りにしてしまった。信じてくれなくても事情くらいは知っておいてもらうべきだった。

 俺は自分がしでかしたことよりも八年という長い時間が経っていることのほうがショックで呆然としていた。

「長門、すまなかった」

ようやくそれだけが口からこぼれ出た。

「なぜ消えたのかどうして今になって戻ってきたのか、なにがあったのか教えてほしい。それに、わたしが驚いているのに、あなたは再会を喜んですらいないのはなぜ」

この長門は少し怒っている風でもある。その様子を見てなんとなく安心した。なんというか、人間には不条理ふじょうりなことにうとそれに対して怒ったり嘆いたり感情をあらわにすることで少しは落ち着くという、はけ口みたいなものがある。俺の長門みたいに処理不可能なエラーが延々積もったりはしない。それで気が晴れるなら俺を恨んでくれてもいいさ。

「朝倉の知り合いで喜緑さんって人がいてな、その人が俺をここによこしたんだ」

「……」

長門は疑いの目を向けていた。これだけじゃ説明になっていないよな。いっそのことすべてを話すことができたなら、いや、話しても信じてくれるかどうか自信がない。

 長門は俺の手の上に自分の手を載せた。その温かさに動かされるように、俺は口を開いた。ここまで心配かけたんだ、空白の時間をつぐなえるならすべてを明かしてもかまわないだろう。

「長門、お前は異世界を信じるか」

「異世界?」

「うまく説明できるかどうか分からんが、これから話すことは人間のお前には信じられんことかもしれん ──」

俺はいつかの長門を思い出してひとり笑いした。長門流に言うなら、情報の伝達に齟齬そごが発生するかもしれない、ってところだな。心配するな長門、ちゃんと伝わったから。


── そう、まるで夢のような話だ。


 俺は、俺自身の世界で最初にハルヒに会ったときからの過去をかいつまんで聞かせた。長門はじっと黙って聞いていた。ときどきうなずいたりはして、俺の長門が世界を改変してしまった日の話にかかると、空想世界の話を聞いているような表情は少しずつ消えていった。

 話の途中でふと思い出してポケットから財布を出した。今も持ち歩いている、存在しないはずの西宮中央図書館のカード。

「これは長門が、つまり向こうのお前が作ってくれたんだ。あのときみたいにな」

長門は見慣れない図書カードを手にして不思議そうにいじっていた。それから一枚の写真。ホームレスのおっさんたちに握り締められて、もうよれよれになって色あせたハルヒと長門のツーショット写真だ。

「これがもう一人の、つまり俺が親しくしてる長門だ。こっちはハルヒで、世界をひっくり返すんじゃないかと超恐れられている存在だ」

「そう。涼宮さんとはときどき会う」

「こっちのハルヒは、あいつらはその後どうしてるんだ?」

「あなたが消えてからかなり怒っていた。いきなりやってきて宇宙人や未来人の話をした挙句、忽然こつぜんと消えたりするのは卑怯ひきょうだと」

「あいつらしいな。まさかSOS団の活動を続けたりしてないだろうな」

「続けていた。市内不思議パトロールであなたを捜索していた」

ま、またそんな不毛なことを。やみくもにジョンスミスを探してるなんて俺たちのハルヒと同じじゃないか。まあ唯一の救いはといえば、こっちのハルヒのイライラで閉鎖空間が発生したり世界が滅亡の危機にさらされたりしないことか。

「向こうのハルヒは猫にモノしゃべらせたり目からレーザーを出したりする映画作ったもんだが」

「映画はわたしたちも作った。特殊効果はなかったが、社会問題を扱ったドラマを作った」

「ハルヒが社会派の映画か、俺も見たかったな。四人とも学校が違うのに撮影大変だったろ」

「サークルで作った。四人は同じ大学に入って活動をした」

なるほどね。三年遅れだが結局はみんな同じところに集まったんだな。


 思えば、うらやましい環境かもしれない。ハルヒは世界を作り変えたりせず、長門はエラーを起こさず、朝比奈さんは上司にパシリを命じられたりせず、古泉は神人と戦ったりせず、シャミセンは日本語をしゃべったりしない。この世界には宇宙人的魔法も時間移動も、世界を救うための超能力も、そしてなにより世界を覆す力もない。当然、俺というハルヒのストッパー役がいないのでそれはそれでバランスは取れているのかもしれないが。

 でもまあ、もしあの日と同じ十二月十八日がもう一度あったとしても、俺は元の世界を選ぶだろう。ハルヒのセリフじゃないが、だってそのほうが面白いからな。

「あのとき俺がEnterキーを押したのは、向こうの世界が好きだったからなんだ」

「そう。二つのうちどちらかを選べと言われたら、たぶんわたしも自分の世界を選ぶ」

和らいだ表情で人間の長門はうなずいた。


「あれからどうなったんだ?長門は今はなにをしてるんだ?」

「大学を出た後、図書館で司書をしている」

俺は中央図書館のカウンターで静かに座っている長門を想像した。俺の長門は実験着を着て論文を書いたり、パソコンのキーボードを光の速さで叩いたりしているが、図書館の司書は本が好きなこいつにいちばん似合う職業かもしれない。

「あいつらはなにをしてんだ?」

「涼宮さんは大学院に進んだ。量子物理専攻だったと思う。朝比奈さんは教職課程を取って小学校の先生。古泉くんは、確か警察庁幹部候補」

古泉がおまわりかよ!趣味の推理好きが高じて仕事になりましたって感じがしないか。

「涼宮さんと古泉くんは去年結婚した」

ま、まじっすか。やっぱりその展開になったのか。尻に敷かれてんだろうなぁ、古泉。北高に入学して来なかったところを見るとこっちのハルヒにとっちゃジョンスミスはあんまり重要な位置づけじゃなかったようだし、それはそれでいいとするか。

「長門は好きな人はいないのか?」

「いる。婚約している」

なにげなく聞いた質問だったのだが、その答えに落雷が落ちたような衝撃が走ってすべての髪の毛と体毛が逆立った。そ、そうだよな、二十四歳だもんな。この美貌びぼうじゃ男どもが放っておくはずがないよな。

 長門はキャビネットの中から写真立てを持ってきた。野郎と並んで長門が写っている。極上なスマイルを浮かべながら長門の肩に手をやった野郎の姿が非常に嫉妬しっとき立てる。えらく体格がいいな。なんか、知ってるやつのような気がするんだが。

「こ、これ、中河じゃないか!!」

「そう。なぜ知ってるの」

「中学校のときのクラスメイトでな」

っていうか、俺のいたの世界じゃ中河が長門に遭遇するのは高校一年の冬休みで、長門が世界を改変する出来事の後のことなんだが、時系列がおかしくないか。

「彼とは大学で一緒だった」

なるほど、世間は狭いっていうがまさにそれだな。そういや中河が長門を見初めたのは高校一年の五月ごろのことで、あれがそのまま引き継がれてこっちの世界にも繋がってるんだとしたらありうる話かもしれん。

 っていうか、あんな小型のブルトーザーみたいなゴツイ男のどこがよかったん、……。

「……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

こいつにはこいつの人生があって、幸せになる権利がある。いや、幸せにならないといけない。二人を祝福してしかるべきことのはずが、なぜだか悲しい。

「それがお前の望んだ幸せならいいんだが」

「そう。わたしは今、幸せ」

「そうか、ならよかった」

 何度も言うが、こいつにはこいつの人生がある。ハルヒのときだって、朝比奈さんにだって、俺は勝手に嫉妬しっとしたり干渉したりしていた。長門のときだって、中河が今にも燃え出しそうな情熱的なラブレターを俺に託したときも正直いい気はしなかった。できることならほかの男をそばに寄せたくはなかった。


── あなたは、彼女には彼女の人生があるということを知るべき。


長門の声が耳にこだまする。それを聞いたのはいつだったろうか。


 喜緑さんが俺をここへよこした理由が、なんとなく分かった気がする。ハルヒに釘を刺されたセリフじゃないが、人生なんてたったひとつのタイミングで簡単に変わってしまう。干渉したり嫉妬しっとできるうちはまだいいが、一度流れが別のほうへ変わってしまえば、ダダをこねようが地団太じだんだを踏もうがどうすることもできない。人生もそれぞれ、行く道もそれぞれ、重なり合った二人の時間線がふとしたことで永久に離れてしまうこともあるんだ。

「よかったらこの写真もらえないか」

「え……これでいいの?」

「ああ。幸せそうなお前が写っているこの写真が欲しい」

「そう。それでよければあげる」


 喜緑さんのことを思い出してふと時計を見ると九時回っていた。だいぶ話し込んでしまった。

「すまんがそろそろ帰るわ。人を待たせてるんだった」

「そう、」

長門がそう言い終えないうちに電話がかかってきた。長門はうんとかええとか返事をしていたが、やがて、

「彼が今から寄ると言ってる」

「中河か、これからか」

「そう。あなたにも会ってほしい」

どうしよう。俺はその、なんというかいくらガタイのいい中河でもあいつが怖いなんてことはないが、向こうのあいつは俺にひどい仕打ちをしてくれてるわけで、面と向かって堂々と話をするなんてことはできそうにないぞ。

「すまん、やっぱ落ち着いて話をするのは無理だ。いくら異世界でもお前はやっぱり俺の長門だし、その婚約者なんかと堂々と話ができるほど度胸の座った男じゃないし」

「そう」

「小心者だからな」

そういうと長門は目を細めてクスクスと笑ってみせた。ああ、この長門はちゃんと笑うんだな。

 立ち上がって腰を伸ばそうとすると、足元でみゃあという鳴き声がした。鼻のまわりと前足だけが黒い、真っ白な猫がズボンのすそにまとわりついていた。俺にシャミセンのにおいがついているのかもしれない。

「猫飼ってるのか」

「そう。あなたに言われてから飼っている」

ここはペット禁止だったはずなのだがまあバレなければいいか。俺はその猫を抱き上げた。妙に見覚えのあるその表情と模様に、もしかしたらこいつは時空に対して曖昧な長門んちの猫なんじゃないかと、その名前を呼んでみた。

「おい、ミミ」

猫の姿は消えるはずもなく、みゃあと一声だけ鳴いた。

「なぜこの子の名前を知ってるの」

「いや、なんだかそんな気がしたんだ。俺のいた世界でお前がちょうど逆の模様をした猫を飼ってる」

「そう……」

これはたぶん偶然なんかじゃなくて、なにかの因果ってやつだろう。ミミ、長門のことをよろしく頼むぜ。


 靴を履いて玄関を出るとビーチサンダルをペタペタと鳴らして長門がついてきた。エレベータの前に立ち止まり下向きボタンを押して待った。エレベータのドアが開いて中に入り、ここでいいよと手を振ったのだが、長門はそのままドアの内側に入り込み俺から離れようとしなかった。ドアが閉まり、そこが密室になると長門はじっと俺の目を見つめた。

「あなたが……好きだった。今でも」

湧き上がる気持ちを抑えきれないように俺の背中に腕を回し、肩に顔を埋めた。俺は心拍数が少しずつ上昇するのを感じた。なにやら名状しがたいモヤモヤが胃の辺りで生まれて止まない。こいつを連れて遠くに逃げたいという衝動となぜだか泣き出したくなるような衝動が、水面に垂らした絵の具のようにぐるぐると渦巻いて心の中に溶け込んでいく。俺も長門の小さな背中に腕を回してギュッと抱きしめた。このまま永久にエレベータが止まらず下降し続ければいい、そう願った。そして俺の長門がこれを見たらどう思うだろうかという説明しがたい後ろめたさにたされた。

「ああ、知ってた。許してくれ……」

長門は俺の胸に顔を埋め、じっと鼓動を聞いていた。

「ごめんなさい。ずっと言えなかった。やっと言えた」

あんまり俺を責めないでくれ。もう少しで泣きそうだから。

「もし誘ったらだが、俺といっしょに来るか?」

言ってはならないことを言ってしまった気がする。婚約までした長門が相手を裏切るなんてことはありえないのは分かっていた。いくら感傷的になっているとはいえ俺は裏切りをそそのかすようなことを言う自分を恥じた。だが長門は一瞬の躊躇ちゅうちょも考えることもなく、

「あの人はずっとわたしを待っていてくれた。だから、彼に報いたい」

「そうか。安心した」

中河は一途いちずなやつだ。十年経ったら迎えに来るとまで誓った男だ。最近じゃ誘うほうも誘われるほうも恋愛が極端に簡単になっちまって、一人の女のために人生を投げうてるやつはそうそういない。俺なんかよりよっぽど根性ある男だと思う。この長門だって、ここで一時の感情に流されるより、心に決めたやつと一緒になるほうが幸せになれるさ。

「変なこと聞いてすまんな、今のは忘れてくれ」

「いい。ときどき遊びに来て。年に一度でもいい」

それができるのかどうかは、俺には分からない。この世界と向こうの世界がどうやって繋がっているのかも俺には分からないのだ。

「約束はできんが、もし来れたら向こうの長門を連れてくるよ」

この長門はにっこりと笑ってうなずいた。

 エレベータのドアが開いた。さっきまで密室を満たしていた重たい空気は少しずつ薄まってゆき、昼間の名残の匂いのする微風びふうにまじって流れた。

 玄関の自動ドアを出てマンションの門柱のところで長門はぴたりと止まった。俺は数歩歩いて手を振り、また少し歩いては手を振った。もうひとりの長門、会えてよかった。さよならだ。


 振り返ると、マンションの明かりを背に受けた長門の小さな影がぽつりと見えた。それに歩み寄る別の影がひとつ、そして二つの影が寄り添い互いに抱き合ってひとつになった。長門がこっちを指差してなにかを話していた。

 ここで中河と話をする勇気はさらさらない俺だが、一声だけ叫んだ。

「こら中河!長門を不幸にしたらタダじゃおかんぞ!」

俺はそのまま走った。走って逃げた。ニヤニヤ笑いを浮かべながら。


「おかえりなさい」

駅前公園に入ると喜緑さんが笑っていた。さっきのが聞こえていたようだ。

「喜緑さん、長らくお待たせしました」

「いかがでしたか」

「ええ。あいつも元気そうで安心しました」

「それはよかったですわ」

「あの長門、ヒューマノイドインターフェイスじゃないですよね」

「ええ」

「あれは人間の長門でしょう」

「あの子は長門さんがそうなりたくて生まれた長門さんです。八年前の十二月十八日に」

「ここがどういう世界のなのかなんとなくは分かったんですが、古泉の話だとあの日は確か未来からの干渉で上書きしたんじゃないですか?ええと、ベルヌーイ曲線でしたっけ」

「いいえ、上書きはされていないんです。ただわたしたちの時間軸から切り離されただけ」

「俺たちの時間とは別に存在してたんですか」

「そうです。十二月十八日の未明を境に、情報統合思念体によって切り離されたものなんです。この時間軸はわたしたちのいる世界とは二重化された世界。一枚の紙の裏側みたいなものですね」

なんだか難しい話になってきたが、つまり並行世界みたいなものか。長門も似たようなことを言ってたような覚えがあるんだが、思い出せない。

「でも、長門のエラーから生まれたこの世界をなぜ残したんです?」

「……」

喜緑さんはそこで少し考え込む様子を見せた。

「たとえばですが、キョンくんが別の世界を作ったとして、それが失敗だったからといって消してしまうでしょうか」

「難しいですね……」

前にも同じジレンマを感じた覚えがあるが、あれはいつのどんな事情だったか。ハルヒならそれをやりかねんが、俺自身がそれをやるかどうかと言えばたぶん無理だろう。どんな世界でもそれが最初から存在するべきでなかったなんてことは俺には言えない。少なくとも、そこに長門がいる限りは。

「時間線と世界線はつねに同じ点で繋がっているんです。時間のほうだけを都合よく修正することはできないんです」

「でもまさか、俺のいない世界が八年も存在し続けていたなんてショックです。俺自身が突然消えてしまったわけですから」

「ええ。わたしたちも放置していたわけではなくて、キョンくんの周辺はできるかぎり調整をほどこしました。この時空は、今は情報統合思念体の管理下にあります」

「ということは俺の家族なんかも、俺がいなくてもいつも通り生活してるわけですか」

「はい。二重化したために複雑な修正をほどこしてしまいましたが、今のところちゃんと機能しているようです」

単に時間を元に戻すだけだと思っていた、俺たち人間の考えが浅かったってことだな。そういうことならまあ、こっちの長門とハルヒと、それから朝比奈さんをよろしく頼みます。古泉?あいつは俺のコンプレックスの塊みたいなやつなんでどうでもいいですが。

「こちらでのみなさんはごく平均的な人生を過ごしている、と観測されています。ただひとり、あなた以外は」

そこで喜緑さんは俺に伺うような目線になった。

「これで……よかったでしょうか?」

「よかった、とは?」

「わたしたちは人の幸福という概念について研究して来ましたが、まだ不明な点が多いんです。それに関与する資格はないのかもしれません」

「それは人間自身にも分からないことですよ、きっと」

「キョンくん不在の穴埋めが本当にできたのかどうか分からなくて……」

銀河を支配する集団にしちゃえらく控えめなこの質問は、穏健派の喜緑さんだから腰が低いのか、あるいは、すべての派閥を代表する率直な気持ちなのか。

 思い起こせば、あの日に起こったのは長門のエラーなんかじゃなかったのかもしれない。長門は俺に二つの人生を用意してくれた。毎日が全力疾走で手段を選ばず願望を叶えるハルヒに特殊な力を持った三人がそのフォローに追われる世界と、かたや、ハルヒの引き起こすドタバタに魔法や時間移動や超能力を使わなくても生きていける世界。ハルヒだって長門だって、特別な力がなくても幸せになれるんだ。願望を実現する能力があってもなくても毎日がドタバタなのには変わりない。こっちの長門に会ってみてそれが分かった。どっちの世界の住人もそれなりに幸せを享受きょうじゅしていて、それなりに苦労していて、ああだこうだ言いつつもやっぱりこっちがよかったとそれぞれが思うに違いない。隣の芝は青い、青すぎてそこに住んでみたくなるなんてことはなくて、いくら雑草がはびこっていても庭は庭、自分ちの敷地が住みやすいもんだ。


「喜緑さん、ボスに伝えてください、ありがとう、と」

喜緑さんのやや不安げな表情は消え、にっこりと微笑んだ。


「では、帰りましょうか」

「またいつか、来れますよね」

喜緑さんはただ微笑むだけで肯定こうていも否定もしなかった。

 喜緑さんが右手を上げて詠唱し、二人の周囲にぼんやりとオレンジ色の球体が生まれた。俺たちを包む球は最初ゆっくりと浮上し、地面を離れてからぐんぐんと急上昇した。町の明かりが次第に小さくなってゆき暗い宇宙が目の前に迫ってきた。だんだんと気が遠くなる。今までのことがすべて意識の彼方に飛んでいく。


 気がつくと俺はベンチで眠っていた。公園だった。見上げると星が出ていた。

「喜緑さん?」

見回してみるが気配はない。先に帰っちまったのかそれとも最初からいなかったのか、もしかしたらあれはすべて夢だったんじゃないか。確かに眠ってはいたが夢にしちゃリアルすぎるだろ。

 俺はかくも長き長編映画を見た後のような余韻に包まれ、しばらく頭がぼーっとしていた。気温はかなり下がっているはずだがなぜか顔だけは火照ほてっている。メガネをかけた長門を思う後ろ髪をかれるような気持ちと自分の現実に帰ってきた安堵あんどとがないまぜになって、浮かんだ花びらのように俺の心の水面をくるくると踊っていた。やがて俺の長門のことを思い出し、エレベータの中での心臓が締め付けられるようなあのモヤモヤは少しずつ消えていった。


 俺はポケットを探って携帯を取り出した。ベンチの背もたれに体を預けたまま星空を見上げ、呼び出し音を数えた。向こうの中河がどうあれ、こっちの中河には話をつけておかなければならん。俺のモチベーションが下がらないうちにな。

『なんだ、キョンか。どうした』

「おい中河、お前に言っておくことがあるっ」

必要以上にハァハァと鼻息が荒い気がするんだが、まあ普段からこういうことに慣れていないからだな。

尋常じんじょうじゃないな、なにがあったんだ』

「愛してるんだ。誰にも渡さん」

『は?大丈夫か、酔ってんのかキョン』

「俺は八年をかけてやっと本当の愛に目覚めたんだ。横槍よこやりを入れるやつは断じて許さん」

『気持ちは嬉しいんだがキョン、すまんが俺にはそういう趣味は、』

気のせいか前にも同じシーンがあったような。

「俺の女に手を出すなつってんだよ。お前がいくら体育会系アメフト出身でも喧嘩の相手くらいなってやるぞ」

体力勝負からいってタックルは無理だがコイントスなら勝てる自信はあるぞ。

『な……』

中河はしばし沈黙したまま、どう答えていいのか分からないようだった。

『もしかして長門さんのことか』

「あったりまえだろうが」

『その……なんだ。キョン、すまん。俺が思い違いしてたようだ。お前はてっきり涼宮さんと付き合ってるのかと思ってたんだ』

ま、またそれか。ったくどいつもこいつも俺とハルヒをくっつけないと気がすまんのか。

「ハルヒは古泉と付き合ってるんだよ」

『知らなかった、あのハンサムなニヤけ男とか』

ニヤけ男は合っているが、お前に言われるとなぜか腹が立つな。

「いくら長門が好きでも先に誰かに打診するもんだろうが。たとえば俺にだな」

『そうだな。いや、八年前に道化師を演じた大失態があるから分かってくれてるだろうって思ってたんだが』

まあ、気持ちは分からんでもない。あの一件以来、中河といや俺たちの間ではピエロだったからな。

『どうだ、これから飲みにいかないか。おびに俺のおごりだ、長門さんも呼べばいい』

俺は腕時計を見たがすでに十時を回っていた。あ、ええっと、どうだろう。

「今ちょっと長門とトラブっててな、今日は無理だな」

『なにかあったのか』

「お前のせいで長門を怒らせちまったんだよ。俺と中河の好きなほうを選んでいいなんてことを言っちまったのさ」

『俺もかっこ悪いが、お前も相変わらずだな』

携帯のスピーカーから中河の笑い声が漏れてきた。つられて俺も他人事ひとごとのように笑った。

『まあ、俺が言うのもなんだが、長門さんを大事にしろ。ああいう女性は滅多にいない』

当たり前だろ。長門みたいな女は世界中、いやこの宇宙のどこを探しても見つかるまい。この銀河を統括するやつらの中でもユニークな存在なんだぞ。

「ああ、それからな中河」

『なんだ』

「今回の買収の件なんだが、ほんとは長門が欲しかったんだろ」

中河は少し黙り、電話の向こうではたぶん顔を赤くしているんだと思うが、

『図星だ。長門さんと二人で仲睦なかむつまじく会社経営なんて甘い夢を見てた』

「なんとまあ、お前もよく夢を見る男だな」

中河は、それが俺の生きるためのエネルギーさ、と言って笑った。

「ここんとこ会社の株価が上がってるのはお前の仕込みなのか」

『ああ、あれか。俺自身は関与してないがグループ内の金融機関でやってる買収の資金繰りみたいなもんでな、一部は別会社を経由してSOS団に流れるはずだった。厳密に言えばまあインサイダーなんだが』

自社の株価を操作して資金調達する仕組みになってたのか、知らなかった。

「買収はきれいごとばかりじゃないってことか」

『ああ。だが長門さんの協力が得られないのなら今回の話はあきらめようと思う』

「まあそう急ぐな。無理に傘下にしなくてもビジネスパートナーとして付き合っていけばいいじゃないか」

『長門さんが許してくれればいいんだが』

「あいつは根に持つやつじゃないさ。ひとことびを入れとけばいいだろ」

『そうか。お前にも悪いことしたよ』

 中河は悪いやつじゃない。女のことになるとちょっと空回りするってだけだ。空回りしすぎてひとりクラッシックバレエを踊ってしまうことも多々ありだが、世の中に男と女がこれだけいりゃ、こういうこともあるさ。

『なあキョン』

「なんだ」

『あのときの長門さんの怒った顔』

「それがどうした」

『正直、惚れた……』

な、中河てめえ!この期に及んでホの字になってんじゃねえ。

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