File 53: Love spread

「ああ? なんだァ、テメエ」

「俺らはさ、今取込み中なの。ガキはどっか行っててくんないかな」


 男たちはヒバナに対して明らかな敵意を向ける。何かスポーツでもやっていたのだろう。力こぶのある太い腕を振り回し、ヒバナを無理矢理引き離そうとした。

 だが、男はここで異変に気が付く。掴まれた腕が蝋で固められたかのように、ピクリとも動かないのだ。目の前のガキはどこからどう見てもヒョロいもやしなのに。これが現実だとすると、とんでもない怪力の持ち主であるということになる。

 あまりに信じ難い光景に、二人組は恐れおののいた。


「いてッ! いててッ!」

「あ、す、すみません!」


 ヒバナは我に返り、強く締めすぎてしまったのを謝罪する。そして、慌てて手を腕から離した。

 男はヒバナのことを訝しみ、観察。さっきのは何かの間違い。ただの偶然。結局はそうとしか思えなかったようで、般若のような面で凄んでくる。


「……テメエ、舐めてんじゃねえぞ」


 自分たちに盾ついたことを後悔させてやるという憤慨を拳に籠め、力一杯振り抜く。この一発を顔面に喰らったら、どんな奴でもさすがにたまったものではないだろう。これはそういう暴力的な思考が導いた結果だった。

 男の最も嫌いなのは舐められること。自分が力で敗けること。だから、ヒバナに力の差を見せつけられて黙っているわけにはいかなかった。


 つまるところ、感情任せの暴挙なわけだが、


「なッ!?」


 ヒバナとっては素人のパンチを避けることなど、赤子の手を捻るより容易い。男の至近距離からの攻撃はあえなく空振りに終わり、必然的に躓く。

 唖然としつつもガンを飛ばしてやろうと振り向いた男は、その瞬間凍り付いた。貧弱だと思っていた青年の背後に、ただならぬオーラを感じ取ったのだ。


「――失せろ」


 まるで何人も人を殺めてきたのではないかと見紛うほどの迫力。そこにいるのは、まさに修羅だった。

 喧嘩を売る相手を間違えた。そう直感した男たちは、恐怖のあまり飛び上がる。


「ひいいいいいッ! ごめんなさいいッ!」


 そうして、すたこらさっさと退散していった。ヒバナは相手が逃げたのを見ると嘆息し、


「……怪我はありませんか」

「お蔭様で。あの、ありがとうございます」

「……」

「……」


 気まずい沈黙。お互い視線を伏せ、中々話を切り出せないまま時間だけがゆっくりと過ぎていく。このままでは日が暮れてしまうと思ったエルは、やがて口を開き、


「どうして戻って来たんですか」

「……はっきり理由を言わないと、フェアじゃないと思ったからです」

「はっきり、ですか。ちょっと怖いですね」


 エルの好意を受け入れられない理由。それは上手く言葉にできない部分だったが、何とか無理くり成型し、


「……率直に言えば、俺は人に好かれていい人間じゃありません」

「人を殺したから、ですか」

「はい」


 あれだけ本来は罪の無い人を殺してきておいて、自分だけが幸せになろうとするのはあまりに虫の良い話だった。一度手を染めたからには、一生足枷をつける覚悟を持たなければならない。それが贖罪というものだ。

 換言すれば、自分で自分に何らかの制約を課している方が楽だった。そのことで痛み、傷ついていれば少しだけ罪悪感が和らぐ。

 ヒバナを内心を悟ったエルは笑っているようにも泣いているようにも見える複雑な表情を浮かべ、


「たしかに、私たちは許されないことをしてきたかもしれません。だけど、それはいつだって誰かのためを思ってのことだった。殺したくて殺してきたわけじゃない。人並みの幸せを求める権利くらいはあるんじゃないでしょうか」


 自分たちがやらなければ、何十万という命が一瞬で消えていた可能性もある。実際、江口の事件ではそれが起きかけていた。そういう意味では、沢山の人を救ってきた「善」の一面はたしかに存在する。

 だが、同時に「悪」の一面も存在し、それは要するに命の選択に他ならない。人間が動物の命運を勝手に決めたがるように、自分たちの行いは恣意性に富んでいる。


 仕方がないこととはいえ、未だにそこはどうしても割り切れなかった。

 結果として、理不尽に対する怒りなどを超越し、精神的な自傷に走らざるをえなかったわけだが、


「……分かりません。ただ、俺にはこういう納得の仕方しかなくて」


 口を衝いたのは諦めに似た言葉だった。それを聞いたエルはもどかしさに唇を噛みつつ、


「自分を責めすぎるのは良くないことだと思います。程度の差はあれど、人は誰しも穢れていますし」

「でも……じゃあ、どうしたら……」

「その肩にあるものを半分私にください。一人で全部背負い込もうとしないで」


 簡単な話だった。どうして今までそのことに気が付かなかったのだろう。シュウヤや妹には打ち明けられないが、同じ超能力者であり捜査官であるエルならば。彼女になら胸の内に溜め込んでいる膿を吐き出しても、さして問題にはならない。


 エルはヒバナの思考の整理がつく前に話を続け、


「重いものは一人で持つより、二人で持つほうが楽でしょう」


 澄み切った瞳。発言の内容はごく当たり前のことなのに、ヒバナにとっては新鮮だった。そして、大きく心を揺り動かされる。


「頼っても……いいんですか」

「はい。存分に頼ってください」


 一度誰かに思いっきり甘えることができれば、どれだけ心が軽くなることだろう。ずっと無意識のうちに求めていたものが手を伸ばせば届く距離にあるような気がして、ヒバナは狼狽えた。


 補完、依存、愛――おおよそそのようなものたちが、この心の欠けている部分を埋めてくれる。ようやく巡り会えた答えのようなものに、歓喜せざるをえない。


 だが一方で、誰にも頼らないという矜持は、ヒバナの人格の防波堤として機能していた。自分の素を見せるというのは、鎧を脱がされた兵士のようなものだ。襲われやすく、傷つきやすい。

 その状態で裏切られたりでもしたら、立ち直れない可能性もある。したがって、簡単に立ち入らせるわけにもいかなかった。


「……すみません。少し、時間をもらってもいいですか。結論が出なくて」

「……まあ、そうですよね」

「あ、あのっ。代わりにと言ったらアレですが、何でも言ってください。自分ができることなら、喜んでやります」

「はあ。何でも」


 エルはぎこちなく笑い、


「――じゃあ、ここでお別れしましょう」

「? ど、どういうことですか?」


 真意の汲み取れない言葉に、ヒバナは当惑する。あまりに急な方向転換。聞き間違いかと思ったが、エルの表情は不自然なものだった。

 目元に涙を貯め、喉を震わせている。何がそこまで彼女を悲しませたのか。優柔不断であったことが気に食わないにしても過剰な反応のように思えた。


「自分勝手な奴だと、意地悪な奴だと、酷い奴だと、そう罵って、私のことを嫌いになってください」

「な、なにを言って……」

「さようなら……ごめんなさい」


 エルはそう言って、駆けて行ってしまう。今度は追いかけるような真似はしなかった。できなかった、というほうが正しい。ただ呆然として、エルの気持ちを必死に推し量り、自分の落ち度を見直すことしかできなかった。


 ともあれ、明確な拒絶の意思はヒバナの情緒をかき乱す。胸の奥が痛み、息が詰まりそうだった。

 この気持ちは一体何なのだろう。逡巡して、気が付く。振られることで初めて浮き彫りになったそれは、とても普遍的なもので。


 つまるところ、ヒバナは随分と前から彼女のことが好きだったのだ。

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