File 5: Anyone , Anytime
人殺しの兄を妹はどう受け止めるだろう。
つまるところ、ヒバナが悪人になりたがらない理由はここに集約されていた。自慢の兄でいたい。妹に心配をかけたくない。その溺愛ぶりはひとたび嫌われることを想像しただけで気が動転し、眩暈がするほどだ。
だから、病院に行くことが怖かった。妹にどんな顔をして会えばいいのだろう。毎日のルーティンとしてほとんど欠かさず通っていたにも関わらず、道のりが途方も無く長く思える。しかし、会わないわけにもいくまい。葛藤しながらも、結局ずるずると病室の前までやって来てしまった。
「大丈夫、大丈夫。いつも通り」
自分にそう言い聞かせ、白い扉を開ける。
「あ、お兄さん。学校帰りですか?」
硬いベッドの上で、分厚いアルバムを眺める少女。
病的なまでに白い肌と滑らかな黒髪を持ち、愛らしい二重が与えるエネルギッシュな印象とは裏腹に、ふっと息をかけたら綿毛のように飛んで行ってしまいそうな予感を湛えている。
「チル。それ……」
ヒバナが指摘すると、チルは忘れてたとばかりに慌ててアルバムを仕舞った。そして、苦笑いを浮かべる。
「隠さなくてもいいのに。懐かしいな、向日葵畑」
チルがまだ元気で両親が健在だった頃、家族揃って唯一行った場所だ。
当時は家族仲も良好だったが、父親があまり外出を好まず、旅行というのは非常に珍しいものであった。今思えば子供との初めての旅行で行くような場所ではないように感じるが(遊園地とかもっと他にあるだろう)、家族で何かをするという機会に恵まれていなかったためか、自分はそれでも嬉しかったのを覚えている。
その時はすでに両親の仲が悪化していた。父親なりに気を遣った旅行だったのだろう。
しかし直後、和解しないまま二人とも事故で急逝。向日葵畑の思い出は何となく触れづらいものになってしまった。
つまり、チルがアルバムを隠したのは、二人のタブーに触れてしまったと思ったからだ。
「また、行けたらいいですね」
チルはどこか物憂げにそう言った。
入院を余儀なくされてからはや数年。遠出らしい遠出はできていない。彼女の発言は半ば諦念のようなものがこめられているように思った。
金輪際、自由に外出することはできないだろう。だからなおさら、向日葵畑などには行けない。
そういう悟りを兄として汲み取らないわけにもいかず、ヒバナは入念に言葉を選び、
「そうだな。いつかまた行こう。その前にちゃんと病気を治さなきゃだな」
と当たり障りのない励ましをする。
妹の顔は晴れやかとまではいかないものの、幾分明るくなったように見えた。
チルの病気は決して不治ではない。
だが、治すのが困難であるのは事実。いつまた元気に歩けるようになるのか。最近は本当に投薬だけで治るのかと不安が募りつつあった。
しばらく他愛のない会話をした後、チルは何気なしに尋ねてくる。
「お兄さん、最近何か良いことありましたか?」
「う、うーん、良いことか……」
嫌なことなら一杯あったけどな、という言葉が出かかり、慌てて飲み込む。
「ああそういえば。新しい職に就くことになるかもしれないなー、なんて」
「あら、そうなんですね。ちなみにどのようなお仕事を?」
「え、えーっと……」
話題が無かったので勢いで喋ってしまったものの、正直な内容を話すのは身内とはいえためらわれた。
何せ暗殺稼業だ。心配するに決まっている。何かそれらしい設定をでっち上げて誤魔化さなければならない。
「実は石油王の付き人をやらないかっていう話になって」
「はあ」
「それで今よりも給料はうんと良くなる」
「おっ、それはそれは。でも、石油王って外国の方でしょう? 日本にいられなくなるのでは……」
「うーんと……」
早くもボロが出そうになり、ヒバナは焦る。
「実はその石油王、日本人でだな……」
「日本の石油王? そんな方いらっしゃるんですね」
「ああ、そうなんだ。どうにも日本海で一発掘り当てたらしくて」
「日本海……今、ホットなことに」
「そうそう」
「でも、なんかおかしいような?」
「あ、いや、それはえっと、気のせいだ」
「そう? ですか」
身ぶり手ぶりを交えて、何とかチルを納得させることに成功する。
ひとまず安堵するヒバナ。そして、気まずい話題を転換しようと、
「ところで」
とおもむろに切り出した時のことだった。
「グ、グフッ」
ぽたた、と滴る血。
チルの口から漏れ出る赤色は、まるで夢の中みたいに非現実的で。
頭で考えるより早く、ヒバナはナースコールを押した。
まだ動悸がおさまらない。
チルが吐血してから、かれこれ一時間。
幸いにも容態は安定したが、依然予断を許さない状況だ。
当然ながら医者に呼ばれ、ドキドキしながら説明を受けた。医者いわく、
「すぐには命に別条はありません。ですが、放っておくと徐々に悪化していくでしょう。完治にはやはり手術が必要です」
とのことだった。
「失礼なことをお聞きしますが……たしか親御さん、ないし親戚の方などはいらっしゃらないんでしたよね」
「……はい」
「どうなされるおつもりですか」
高校生のアルバイトごときで手術費用をまかなえることは不可能だ。つまり、現状のままではチルは病院のベッドの上で、ゆっくりと死を待つことになる。兄として、家族として、その現実を「はいそうですか」と簡単に受け入れることはできなかった。
「ひ、費用は何とか工面します! だからどうにか……」
「期限は半年、というところです。それまでに、この額を」
差し出された書類には、かなり大きい金額が記されていた。今の生活を続けていては、到底払い切ることはできないだろう。どうにかして変わる必要がある。重たい現実に押し潰されそうな気分になった。
そのまま病院を後にしたヒバナは、帰りに銀行に寄り、預金を確認する。そして、深い溜息を吐いた。
「選択肢は無い、か」
昨夜、キッカに車で家まで送ってもらったのだが、最後に言われた言葉が今になってボディーブローのように効いてくる。
――ちなみに言っておくが、捜査官は稼げるぞ。うんとな。
捜査官の年収を聞いて驚いた。
半年もあれば、余裕をもって手術費用を捻出できるほどだったからだ。千載一遇のチャンス。そうとしか思えない。
信用はできない。騙されているかもしれない。超能力者をおびき寄せる罠かもしれない。
だが、今の自分にとってこれほどタイミングの良い話はなかった。
ぐっと拳を握りしめる。
(心の中の怪物を呼び覚ませ。冷徹で、残虐で、非道な怪物を)
邪魔となる理性を抑えつけ、衝動的な本心を露わにする。悪人にはならない。それは妹のために抱き続けた矜持だったが、やはり命には代えられないだろう。ひとたび覚悟を決めれば、自分でも驚くほど冷徹に割り切ることができた……気がする。少なくともこの時はそう思った。頭の中の余計な血流がすうっと引いて、思考が単純化したような気がしたのだ。
人は誰しも心の中に怪物を飼っている。それは自分も例外ではない。
そのことを実感し、ヒバナは皮肉なほどに真っ青な空を見上げた。
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